新橋 (花街)
花街としての新橋(しんばし)は、現在の東京都中央区銀座における花街である。「芸の新橋」と呼ばれ、日本各地の花柳界からも一目置かれている[1]。
略歴・概要
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東京新橋組合 ロゴ | |
設立 | 1857年(花街形成) |
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種類 | 花街 |
目的 | 遊興、伝統技芸 |
本部 | 日本 東京都中央区 |
貢献地域 | 銀座 |
重要人物 |
まり千代 中村喜春 |
ウェブサイト | http://shinbashi-kumiai.tokyo/ |
始まりは1857年(安政4年)、現在の銀座八丁目付近に三味線の師匠が開業した料理茶屋が始まりだといわれる。当時、新橋の芸者(芸妓)能楽太夫の名にちなみ「金春芸者」(こんばるげいしゃ)と呼ばれていた。「金春新道」沿いに粋な家屋が明治初年まで立ち並んでいた[2]。
新橋界隈は各藩の大名屋敷から距離的に都合の良い場所にあったため、公儀の役人や他藩の客人との接待・外交の場として利用され、座興として芸事を教えていた女師匠が座敷に招かれて芸を披露していた。その中のひとりの常磐津文字和佐が、当時老中だった太田資始に、自分たちが芸事を披露すると同時に客人たちへの酌や給仕をすることを許可してもらえるように願い出て認められたことから、新橋芸者のスタイルが確立された[3]。武士達は、しばしば贔屓の芸者に料亭選びの段階から宴会の裁量を任せたため、お客を連れてくる芸者は敬意の対象となった。
明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「柳新二橋」と称し、人気の花街となった。明治期に新政府高官が新橋をひいきにしたのは、東京の花柳界では新橋は新興であり、伊藤博文、板垣退助らが同地に集った[4]。当時の名妓には板垣に落籍された小清(こせい)などがいる。
大正期になると芸者の技芸の向上に取り組んだ[5]。1925年(大正14年)に新橋演舞場の杮落とし公演として『東をどり』を初演、中村喜春、まり千代などといった名妓を輩出した。
昭和中期には最盛期を迎え、芸者約400名を擁していた。高度経済成長期、石油ショック以後には料亭、芸者数が減り、2007年(平成19年)現在、料亭12軒、芸者70名である[6]。同年は「新橋芸者発祥150周年」が祝われた[5]。
現在の港区新橋には「新橋南地」[7](別名、「烏森」)という花街があった。元は本項「新橋」と一緒であったが、その後に分離し、現存しない[8]。
おもな料亭
[編集]現存するおもな「新橋」の料亭の一覧である[9]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小川一眞『東京風景』、小川写真製版所、1911年4月27日発行
- 戸川残花(戸川安宅)『江戸史蹟』、内外出版協会、1912年
- 浅原須美『東京六花街 芸者さんから教わる和のこころ』、ダイヤモンド社、2007年6月29日 ISBN 4478077894
- 上村敏彦『東京 花街・粋な街』、街と暮らし社、2008年9月 ISBN 4901317199
- 三島由紀夫『橋づくし』、新潮文庫『花ざかりの森・憂国』所収、新潮社、1968年9月 ISBN 4101050023
- 岩下尚史『芸者論 花柳界の記憶』、文春文庫、文藝春秋、2009年7月10日 ISBN 4167753928