忠尋
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忠尋(ちゅうじん、治暦元年(1065年)- 保延4年10月14日(1138年11月18日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は源頼平の子の土佐守檜坂忠季、兄弟は貞頼とする。大谷座主とも称される。佐渡国出身。
略歴
[編集]比叡山の長豪・覚尋・良祐に天台教学を学ぶ。初め洛北の曼殊院に住したが、その後比叡山北谷東陽院に移った[1]。永久3年(1115年)、里坊として東山大谷に十楽院を開創し、元永元年(1118年)に権律師、大治5年(1130年)に天台座主、保延3年(1137年)に大僧正に任じられた。恵心流の天台教学の振興に努め、忠尋の門流は東陽院流と称された。
脚注
[編集]- ^ ただし、南北朝時代の曼殊院の記録では東陽坊(東陽院)の忠尋が曼殊院の初代であると記しており、曼殊院が東陽院の別院として忠尋が創建された可能性もある(大塚紀弘「中世の曼殊院門跡」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3)。