刈谷城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本丸跡。建物は十朋亭(再建)

刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年昭和25年)4月以降に市制施行してから、「刈谷」という表記がされるようになった。

刈谷城[編集]

logo
刈谷城
愛知県
刈谷城址碑
刈谷城址碑
別名 亀城
城郭構造 平城
築城主 水野忠政
築城年 天文2年(1533年
主な城主 水野氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 辰巳櫓、土塁水堀曲輪、石碑
位置 北緯34度59分21.7秒東経136度59分6.8秒

刈谷城は現在の刈谷市城町1丁目にあった城。別名「亀城」と呼ばれる。以下は、この「刈谷城」に関する記述である。

城の構造[編集]

衣ヶ浦(ころもがうら、三河知多半島の間に位置する入江)の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて二の丸三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれていた。天守はなかったが、北西と南東に隅櫓があり、周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には内堀馬出しが設けられていた。

歴史[編集]

天文2年(1533年水野忠政により築城。築城後忠政は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。於大は父忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田氏についた(織水同盟)ため松平氏を離縁された後も刈谷城近くの椎の木屋敷久松氏に再嫁するまでの日を過ごしている。

三河物語』によると、桶狭間の合戦の項目で「小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサせラレテ」との記述があり、桶狭間の合戦当時、水野信元は緒川城もしくはその周辺を守備していたか、あるいは日和見をしていたものと考えられる。 また、『三河物語』の三河一向一揆の項目では、水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。」と記述がある。

なお、刈谷は、当初は「谷」ではなく「屋」を当てられていた。『三河物語』においても「屋」を当てられている。また、『信長公記』の天正8年(1580年)8月20日の項目においても「小河かり屋」と「屋」が当てられている。

その他にも、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に「苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられている。この時、鳴海城から引き上げる途中の岡部元信により落城している。

信元天正3年(1575年佐久間信盛の讒にあい、信長から武田方への内通を疑われ、命を受けた家康に殺害されるという非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の領有となる。後に信盛は信長に追放され、信元の末弟忠重が城主となって水野氏の領有に復した。忠重、勝成忠清と5代百年の水野氏の居城を経て、寛永9年(1632年)に深溝松平家入城、その後久松松平家1649年)、稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、本多氏(忠勝系、1710年)、三浦氏3代(1712年)と頻繁に城主の交代があった。(城主の詳細については刈谷藩を参照)1747年より土井氏が入封し9代の支配の後、明治4年(1871年)の廃藩を迎え、城は破却された。

明治時代以後城域地は国有化された後、旧士族に払い下げられた。さらに昭和11年(1936年)刈谷町が譲り受け公園として整備されたが戦時中には軍の高射砲陣地が置かれ老松は切り払われ荒廃した。 戦後に至り徐々に植栽・公園整備され現在はの名所となっている。また旧三の丸には藩校文礼館の流れを汲む刈谷市立亀城小学校および刈谷市郷土資料館(国の登録有形文化財)が建つ。 隅櫓石垣城門を復元する再整備計画があり、2018年度に刈谷市歴史博物館、2020年度以降に隅櫓や石垣の完成が予定されている。

遺構[編集]

帯曲輪東側の堀が拡幅された池

現在、城跡のうち本丸および帯曲輪の一部が亀城公園となっている。建物や石垣の遺構を留めないが、本丸を囲む土塁が残存する他、帯曲輪東側の堀は拡幅されて池となっており、かつての城郭の名残りをとどめている。また北西隅櫓の跡に建てられた建物の裏側にごくわずかながら当初の石垣が残されている(ほとんどの石は新しいものである)。妙福寺 (碧南市)に辰巳櫓が移築現存している[1][2]

復元整備計画[編集]

  • 残っている城絵図や調査を元に江戸時代の北西隅櫓、南東隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀を復元する計画が進んでいる[3][4]

アクセス[編集]

名鉄三河線刈谷市駅下車徒歩15分

刈谷古城(元刈谷城)[編集]

刈谷城の前身に刈谷古城があったと、刈谷市教育委員会(刈谷市史)は主張している。しかしながら、三河国二葉松・参州古城記には、刈谷古城・元刈谷城いずれも記述がなく、刈谷城の項目においても、その前身である刈谷古城(元刈谷城)からの移転などについて一切の記述がなく、尾張緒川城から刈谷城に移転したと書かれている。 安永9年の三河古城記においても、刈谷城の記載のみで、刈谷古城(元刈谷城)の記述は一切ない。

徳川家・織田家の史料においてもその実在が確認されておらず、藩翰譜においても、水野家の所伝に、一切の記述がない。 尾張群書系図部集においても、水野貞守は、小川城主としかなっておらず、刈谷城の記載は一切ない。

禅僧万里集九梅花無尽蔵」に「矢作在三川、蓋水野所住刈屋城東三里」との記述を根拠に、刈谷市教育委員会(刈谷市史)では、文明年間(1469年-1486年)に水野貞守により築城されたという説を主張している。その後、天文2年(1533年水野忠政の刈谷城建設により廃城となったという。刈谷古城(元刈谷城)は刈谷市天王町1丁目にあったとする。遺構はなく宅地および畑となっている。市道をはさんで南に本刈谷神社がある。

脚注[編集]

[ヘルプ]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]