偵察オーダー

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偵察オーダー(ていさつオーダー)あるいは偵察メンバー(ていさつメンバー)とは、野球で、その試合で出場させる予定のない控え選手をわざと先発メンバーに入れておく作戦、また実際には打席に立たずに守備にも付かない選手のことである。当て馬とも呼ばれる。

概要[編集]

偵察オーダーの作戦は、相手チームの先発投手が予想できない場合、特に右投手か左投手(サウスポー)かが予測できない場合、控え選手をとりあえず打順表に入れておき、試合が始まってから実際に試合に出場させる選手に交代させるというものである。この時の控え選手はほとんどの場合は登板予定のない投手である。時には投手ではなく、捕手や野手でも故障者の選手をオーダーに入れて置く場合もある。1960年から大洋ホエールズの監督をつとめていた三原脩がよく利用しており、多いときは先発メンバー9人のうち、7人を偵察要員で埋めた(1962年9月22日の対中日[1])こともあった。

この作戦を用いる場合、先攻チームの場合は、偵察メンバーのところに打順が回ってきたときに、代打として実際に試合に出場させる選手を出せばよい。後攻チームの場合は、本来なら偵察メンバーである選手が守備位置につき、試合が始まってから交代を行わなければならない。ところが、交代して出場する予定の選手が初めから守備位置についてしまい、監督も交代通告を怠って、そのまま試合が始まってしまうということもあった[2]。偵察選手にも、1976年までは守備成績に、試合に出場したという記録がついていた。1960年代から70年代前半の選手の成績に、投手以外の守備位置が記録されている場合は、このケースが多い。打撃成績としての「試合」数には、偵察メンバーとしての出場もカウントされる。

予告先発制度が採用されているリーグでは、先発投手があらかじめ通告されるので、偵察メンバーを入れる必要性がない。日本では1994年からパシフィック・リーグが、2012年からセントラル・リーグがそれぞれ予告先発を採用している。セ・パ交流戦でもセ・リーグが予告先発を導入した2012年から採用されている。

指名打者制度と偵察メンバー[編集]

日米とも指名打者制度が導入された当初は指名打者の交代は自由であったため、指名打者に偵察メンバーを使用することも可能であった。しかしアメリカでは1981年、日本では1982年に指名打者に関する規則が改正され、指名打者として先発オーダーに記載された選手は、1打席を完了するか、相手の先発投手が降板しなければ他の選手との交代が出来なくなり、指名打者に偵察メンバーを置くことは事実上不可能となった。

1982年8月12日の近鉄バファローズ阪急ブレーブス戦で、阪急監督の上田利治がこの規則改正を忘れ、投手の山沖之彦を偵察メンバーのつもりで「5番・指名打者」で先発オーダーに入れたが、1回表1死満塁でまわってきた山沖の第1打席の時に交代が認められなかった。山沖は三振し阪急はこの回結局無得点に終わった。なお、上田はこの試合で指名打者に関してもう1つミスを犯しており、山沖の代打で指名打者に入った河村健一郎が四球で出塁した際代走に小林晋哉を起用し、その小林を次の守備から右翼に入れたため、その時点で指名打者が消滅して先発の永本裕章が2番の打順に入り、2番手の宮本四郎が実際に打席に立って右飛に倒れている[3]。結果的にこの試合の阪急は投手登録の選手が2人打席に立ったことになり、指名打者制導入後のパ・リーグの公式戦では極めて異例のケースとなった。試合自体は13-5で阪急が勝っている。

2011年5月20日セ・パ交流戦、オリックス・バファローズ対広島東洋カープ戦では、普段のセ・リーグの公式戦では指名打者制のない広島監督の野村謙二郎が、投手の今村猛を偵察メンバーのつもりで「7番・指名打者」で先発オーダーに入れ、オリックス監督の岡田彰布に指摘されて規則に気付くシーンがあった。今村は2回表1死一塁の第1打席で送りバントを決め、第2打席で代打に石井琢朗が送られた。試合は2-3で広島が敗れた。

なお、現在はNPBのシーズン公式戦では全試合予告先発が採用されているため、こうしたケースが起こりうるのは原則としてオープン戦日本選手権シリーズの試合のみとなっている(クライマックスシリーズではパ・リーグのみ予告先発を採用している)。

偵察メンバーに対抗する作戦[編集]

1回表に守備側のチームが偵察メンバーの選手を交代したのを見計らって、攻守交代後の1回裏にすぐに投手を交代する作戦がある。ルール上投手は登板したら最低ひとりの打者の打撃を完了する[4]必要があるため、交代は2人目の打者からとなる。先攻と後攻が逆の場合、偵察メンバーを交代するのが1回表に打順が回ってきた際か1回裏の守備のときになるので、1イニング投げる必要が出てくる。

この作戦はかつて野村克也が南海とヤクルト時代に計2度やったことがある。

  • 1度目は、1976年5月15日の対ロッテ戦で、右腕の佐々木宏一郎を先発にし、ロッテが1回表に偵察メンバー2人の守備位置に左打者の選手を入れた後、1回裏の2人目の打者から左腕の星野秀孝に交代するという作戦をとった。しかし、佐々木が安打を浴びて無死一塁となったところで星野に交代し、星野が打たれて走者の生還を許してそのまま南海が試合に敗れたため、佐々木が敗戦投手となった。
  • 2度目は、1990年10月1日の対広島戦で、右腕の郭建成を先発にし、広島が1回表に偵察メンバーの守備位置にを左打者の選手を入れた後、1回裏に郭がに1人打ち取ってから左腕の加藤博人に交代、広島を1点に抑えて勝利している。

大洋監督時代の三原脩もこの作戦をしばしば採用したが、それが思わぬ大記録を生んだ例もある。1966年5月1日の広島対大洋のダブルヘッダー第2試合で、左投手の小野正一が先発するのを広島側に読まれていると知った三原は、試合直前で先発を右投手の佐々木吉郎に変更。広島が左打者を並べてきたところで2回から小野を登板させる予定にしていたが、佐々木が1回を三者凡退に抑えたことから、三原の「1本もヒットを打たれてないのに代えられるか」の言葉により急遽ヒットを打たれるまで佐々木が続投することになった。佐々木はそのままヒットどころか1人の走者も出さずに9回まで投げ切り、完全試合を達成したのである[5]

注釈[編集]

  1. ^ “【9月22日】1962年(昭37) 三原監督、ルール守ってアテ馬7人 エースも三塁守らせる”. スポーツニッポン. (2012年9月22日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1209/kiji/K20120922004177590.html 2013年8月29日閲覧。 
  2. ^ この場合、公認野球規則3.08(a)の規定に基づき、球審がプレイを宣告した段階で正規の交代手続きがあったものとして記録上処理する。直後に行われたプレイについても守備位置についていた選手が行った守備として記録され、プレイも有効である。
  3. ^ スポーツニッポン“【8月12日】1982年(昭57) 上田利治監督、ああ勘違い 当て馬のつもりが…”. スポーツニッポン. (2010年8月12日). オリジナル2016年3月4日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304105129/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801238.html 
  4. ^ 安打や四球で出塁させてしまう、凡退または三振に抑える、このどちらかを指す
  5. ^ “【5月1日】1966年(昭41) “アテ馬”先発佐々木吉郎 気がつけば史上8人目の大記録”. スポーツニッポン. (2009年5月1日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09may/KFullNormal20090501124.html 

関連項目[編集]