ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ

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ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(マネッセ写本
アーベンベルク城にあるヴォルフラムの立像

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハWolfram von Eschenbach, 1160年/1180年頃 - 1220年頃またはそれ以降)は、中世ドイツ詩人。中世ドイツ文学の最も重要な叙事的作品(『パルチヴァールドイツ語版英語版[1]』(ドイツ語: Parzival))は彼によるものである。また、ミンネザングの歌人として極めて優れた抒情詩も残している。

生涯[編集]

1. 作者の生没年・出身地・身分・教養

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハは当時の人々にとって、また現在の研究者にとっても中世盛期ドイツの最も重要な詩人とされている。著した作品は、叙事詩『パルチヴァール』『ヴィレハルム』『ティトゥレル』および叙情詩である。

伝記的記録としての史料は残されていない。これは同時代のハルトマン・フォン・アウエ(Hartmann von Aue)やゴットフリート・フォン・シュトラースブルク(Gottfried von Staßburg)においても同様である。伝記的な事柄については、もっぱら詩人自身の作品および後世の詩人の記述に拠って推測するほかない。『パルチヴァール』の成立が13世紀冒頭、『ヴィレハルム』と『ティトゥレル』が13世紀10年代と考えられるので、それらによって生没年を推定できるだけである。

出身地はニュルンベルクの南西36キロ、今日のヴォルフラムス=エッシェンバハ(Wolframs-Eschenbach)と見なされている。現在その小さな町には、1861年にバイエルン国王マクシミーリアーン2世(König Maximilian II. von Bayern)によって建立されたヴォルフラムの立像と1995年に開館した記念の博物館Museum Wolfram von Eschenbachが存在している。

身分や学問的素養についても確かな事は分かっていない。『パルチヴァール』で「楯とる職が私の本務である」と称していることなどから、低位であれ騎士であったと思われるが、後世の詩人が「高貴な騎士」と称えるほど高位の身分であったかは疑わしい。『パルチヴァール』では、「私は一文字も知らない」、『ヴィレハルム』でも、「書物に書いてあることからは何ひとつ学んでいません」と述べているが、これらの文言によって、ヴォルフラムは文盲であったとか、無教養であったとかと考えるべきではない。むしろこれは、自信を秘めた「装われた謙遜」と解すべきで、学才と教養を誇り、フランス語(やラテン語)の原典を忠実に翻訳してドイツ語の文芸作品を物する、そうした信条のハルトマンらに対抗する姿勢を、ヴォルフラム流に表明したものであろう。ヴォルフラムが当時の学問上の知識を包括的に身につけていたことは明らかである。彼の作品にはあらゆる分野(博物学地理学医学天文学など)で専門的に扱われるさまざまな知識や、神学的考察がふんだんに盛り込まれている。また、同時代の古フランス語フランス文学にも通じていたと思われる。

2.   有力な後援者

 ヴォルフラムは作品の記述から生涯をとおしていくつかの宮廷に仕えていたと推測される。『ヴィレハルム』の冒頭では、原典の仲介者(多分、作者のパトロン)として、テューリンゲン方伯ヘルマン(Landgraf Herrmann I. von Thüringen)が紹介され、作品末尾近くでも、方伯への言及(おそらく故人として)がなされている。そして、『パルチヴァール』にも、ヘルマンの宮廷にヴォルフラムが滞在したことを示唆する記述がある。ヘルマンは、「詩文の最初の枝をドイツ語の畑に接ぎ木した」ハインリヒ・フォン・フェルデケ(Heinrich von Veldeke)やドイツ中世最大のミンネゼンガーであるヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ(Walther von der Vogelweide)のパトロンでもあったように、当時の文芸の保護者であった。後に、方伯の宮廷を舞台に「ヴァルトブルクの歌合戦」が行われたとの伝説が生まれ、後代ワーグナーがこの伝説をもとにしてオペラ「タンホイザー」を物したことはよく知られている。このヘルマンのテューリンゲン方伯領取得が1190年、死去は1217年4月25日である。(それゆえ、『ヴィレハルム』成立は1210年代とされるのである。)

 テューリンゲン方伯ヘルマンは、1155年頃テューリンゲン方伯ルートヴィヒ2世を父として生まれた。フランス王ルイ7世の宮廷で兄のルートヴィヒとともに養育された。この兄は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサ、フランス王フィリップ・オーギュスト、イングランド王リチャード獅子心王の主導した第3回十字軍に参加し、アッコン包囲作戦の際、ドイツ隊の指揮を執った。しかし病のために帰国の途に就き、その途上で死去した(1190年10月16日)。遡るが、ルートヴィヒ・ヘルマン兄弟は、シュタウフェン家のバルバロッサ側についていたため反対勢力の首領たるヴェルフェン家のハインリヒ獅子公によって1年半にわたって捕虜にされている(1180年)。ヘルマンは1181年ザクセン宮中伯領(Pfalzgrafschaft Sachsen)を授封された。兄が1190年に上記のように子孫を残さずに死去するとヘルマンは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の意図に反してテューリンゲン方伯領(Landgrafschaft Thüringen)を空位の封土として獲得することができた。皇帝ハインリヒ6世が取り組み、ヘルマンも参加した十字軍派遣は、皇帝の急死(1197年)によって頓挫した。

テューリンゲン方伯ヘルマン1世は、シュタウフェン家とヴェルフェン家という二大勢力の、ドイツ王・神聖ローマ皇帝権をめぐる争いの中にあって、自己の権力拡大を追求して日和見主義に徹したが、最終的には、1212年にドイツ王に選出されるシュタウフェン家のフリードリヒ2世の側に付いた。ヘルマンにはルートヴィヒとハインリヒ・ラスぺ(Heinrich Raspe)の息子があったが、長男ルートヴィヒはハンガリー王女エリーザベトと婚約させた。彼女は後に有名な聖女となり、その伝説は今も語られている。マールブルクのエリーザベト教会(St. Elisabeth-Kirche in Marburg)はこの聖女を称えるために建設された。ヘルマンは1217年4月25日狂気のうちに(in geistiger Umnachtung)死去した。

テューリンゲン方伯ヘルマンの他には、『パルチヴァール』の聖杯城と関連付けられることもあるオーデンヴァルトヴィルデンベルク城が、ドゥルネ (Durne) 家の所有であったので、ドゥルネ男爵家 (Freiherren von Durne) とのつながりが推測されている。また、同じ『パルチヴァール』でヴェルトハイム伯爵家 (Grafen von Wertheim) が言及されているのでやはりこの家もヴォルフラムの支援者であったと思われる。

作品[編集]

パルチヴァール[編集]

現在ヴォルフラムの最も有名な作品として認められているのは『パルチヴァール』であり、これはそもそも中世ドイツの最も重要な叙事詩と位置づけられている。また、ドイツ語で書かれた聖杯伝説をテーマとする最初の作品である。この作品で描かれているのは、2人の主人公の物語である。まずは、当然のことながら、題名主人公の物語で、パルチヴァールの両親の生涯から始まり、パルチヴァールの誕生、幼少期、続く円卓の騎士の時代を経て「聖杯王」になるまでが描かれる。そしてもう一方は、アルトゥース(アーサー)王の円卓の騎士の華、ガーヴァーン(ガウェイン)の物語である。

『パルチヴァール』執筆にあたってヴォルフラムは主要部分をクレティアン・ド・トロワの作品『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』(: Perceval ou le Conte du Graal)に依拠しているが、彼の作品は『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』を部分的に、かなり自由に翻案している。もっとも、クレティアンの作品は完結した作品ではなく、ゴーヴァン(ガーヴァーン)の物語のところで中断している。ヴォルフラムの作品の結末部(ガーヴァーン物語の結末、パルチヴァールの異母兄フェイレフィース、そしてパルチヴァールの聖杯王への任命)、および冒頭部(パルチヴァールの両親の物語)については、彼が依拠した作品・資料が特定できないためもあり、一般的にはヴォルフラムがこの部分の原著者であると考えられている。

ところで、ヴォルフラム自身は『パルチヴァール』の中で、クレティアンは「物語を正確に伝えていない」と非難し、キオート(Kyôt)という名のプロヴァンスの詩人が「原典で読んだ通りにあなた方にお話しする」と表明している。今日ではしかし、このキオートも実在の人物ではなく、ヴォルフラムの創作であると考えられている。

梗概 第1巻 プロローグ ガハムレトとベラカーネ(1-58):プロローグとパルチヴァールの父の物語。アンショウヴェ(アンジュー)の王ガンディーンの死後、次男ガハムレトは冒険を求めて東方へ旅立ち、バルダクのバルク(バグダードのカリフ)に仕えて誉を得る。後ツァツァマンクの城にやって来る。折しもこの国の女王、黒人のベラカーネはイゼンハルトの求婚を拒んだために、敵軍に攻囲されていた。ガハムレトは女王の請いを入れて戦い、敵側の3人の領主ヒューテゲール、ガシエル、ラツァリークを含む24人の騎士を倒し、女王とその国を手に入れる。しかしなおも冒険心にかられ、ひそかに船でシビリエ(スペインのセビリア)に向かう。ベラカーネは悲嘆の内に一子を産む。カササギのように白と黒の斑の肌をしたその男児は、フェイレフィースと名付けられる。物語の主人公パルチヴァールの異母兄である。

第2巻 ガハムレトとヘルツェロイデ(59-116):ガハムレトの第二の妻ヘルツェロイデの物語。ガハムレトはスペインのドーレト(トレド)に赴く。その地の王であるいとこのカイレトに会おうとしたのだが、カイレトは戦いを求めて旅に出ていた。その後を追って彼はヴァーレイス(ヴァロワ)の国にやって来る。この国の女王ヘルツェロイデは槍試合を催し、その勝者を自分の夫に選び、二つの国(ヴァーレイスとノルガールス)を与えると約束していた。ガハムレトはハルディース、レヘリーン、シャフィルロール、ブランデリデリーンらの勇士を打ち負かして勝者になる。先の黒人の女王ベラカーネを忘れかね、またフランスの女王アンプフリーゼの強い申し出を受けて迷うが、裁判の裁定に従いヘルツェロイデの夫となる。休むことを知らぬガハムレトはふたたびバルクへの奉仕に赴き、敵と戦い命を落とす。妻のヘルツェロイデは深い悲しみの内に男子パルチヴァールを産む。物語の前史はこれで終わる。 

第3巻 パルチヴァールの少年時代(116-179):ガハムレトの死後ヘルツェロイデは、息子を騎士の社会から遠ざけるために、人里離れたゾルターネの森に移り住む。少年はある日騎士の一行に出会い、これこそ母の言う神であると思い、祈りの言葉を投げかける。相手が自分らは神ではなく騎士であると告げると、少年は騎士に憧れの気持ちを抱き、アルトゥース(アーサー)の許に行かせてくれと母にせがむ。やむなく母は4つの教えを授け、道化服を着せて息子を世に送り出すが、その直後に死ぬ。母の教えを表面的に理解した少年は、旅の途次、エシューテ夫人に口づけをし、その指輪を奪う。このため夫人は夫オリルスにあらぬ疑いをかけられることになる。次に、恋人の屍を抱いたジグーネと出逢い、自分の名前と素姓を教えられる。ようやくアルトゥース王の宮廷に着き、王の敵対者である「赤い騎士」ことイテールを投げ槍で殺し、その甲冑を身にまとう。念願の騎士になった少年は、白髪の人に教えを請えとの母の教え通り、老騎士グルネマンツの許で騎士道を修め、みだりに質問をしないようにと教えられる。師は若い騎士を娘のリアーセと結びつけようとするが、パルチヴァールはその申し出を退けて旅を続ける。

第4巻 パルチヴァールとコンドヴィーラームールス(179-223):パルチヴァールと妻との出会い。イーゼルテルレの王クラーミデーは、女王コンドヴィーラームールスに求婚して拒絶され、怒って彼女の国ブローバルツの都ペルラペイレを包囲する。都市(まち)はひどい食糧難に陥り、人々は飢餓に苦しむ。パルチヴァールはこの都市に来て、女王の涙ながらの請いをいれ、クラーミデーの軍に立ち向かう。まず宮内卿キングルーンを、続いてクラーミデー王を倒し、ともに恭順の誓いをさせて、アルトゥースの許に送る。こうして彼女の国を救い、結婚してその国の王になるが、母を慕い、さらに冒険の心抑えがたく旅に出る。以後彼は、聖杯王への召命を受けるまで妻に会うことがない。

第5巻 パルチヴァールの最初の聖杯城訪問(224-279):旅を続けるパルチヴァールは、湖のほとりで、舟上の老人に宿を尋ね、それと知らずに聖杯城に招かれる。傷の苦痛に耐えている城主アンフォルタス(実は先ほどの老人)のそばに座り、血の滴る槍や聖杯を中心に催される豪華絢爛たる宴会を見、最後に王自身から剣を贈られるが、グルネマンツの戒めをかたくなに守って王に対して質問をしない。彼は、王の苦しみは戦いによるものとしか理解できずにいた。翌朝目が覚めると人影が見られない。城をとび出す際に、小姓に罵られる。ジグーネに再会すると、聖杯王に問いかけをしなかったことを強く責められる。その後、夫に貞操を疑われたエシューテ夫人に出逢い、そのそばを騎行する夫オリルスと戦って倒し、夫婦を和解させる。オリルスは夫人を伴ってプリミツェール河畔のアルトゥース王の陣営に赴き、王夫妻と自分の妹クンネヴァーレにパルチヴァールからの伝言を伝える。

第6巻 アルトゥースの宮廷におけるパルチヴァール(280-337):鵞鳥の傷口から雪の上に落ちた三滴の赤い血を見て、パルチヴァールは妻を思い出し、甲冑姿のまま意識を失う。これを、アルトゥース王の宮廷への挑戦と早合点して、円卓の騎士ゼグラモルス、続いてケイエが立ち向かうが、たちどころに突き倒される。しかし、円卓の騎士の華ガーヴァーンはマントで血痕を覆い、パルチヴァールの意識を取り戻させ、自分の天幕へと案内する。パルチヴァールはアルトゥース王に迎えられ、円卓の騎士の一員となる。その歓迎の宴席に、聖杯城の使者、魔女クンドリーエが現れ、パルチヴァールが聖杯城のあるじを救わなかったと非難し、このような宴に列席する資格がないと罵る。引き続き現れたキングリムルゼルに、ガーヴァーンも主君殺害の罪を問われ、四十日以内に一騎打ちをするように挑まれる。喜びの宴席はたちまちにして悲しみに変わる。パルチヴァールは神を呪う。王をはじめ円卓に連なっていた人々は、それぞれ別れていく。パルチヴァールは以後、第9巻を除いて、第13巻まで物語の主人公の座をガーヴァーンに譲る。

第7巻 ガーヴァーンとオビロート(338-397):ガーヴァーンの第一のアヴァンチュール。ガーヴァーンはキングリムルゼルの挑戦に応じるためにシャンプファンツーンを目指す。途中、リースの王メルヤンツに攻囲されているリプパウト侯のベーアーロシェ城にやって来る。この若い王は父王の死後、部下の領主リプパウトの許で養育されていたが、領主の姉娘オビーエに求婚したものの拒絶されたので無念を晴らそうとしていたのだ。この窮地に際して七歳の妹娘オビロートは、ガーヴァーンに自分への婦人奉仕をさせ、その力をかりて王メルヤンツを敗北させる。オビロートは恭順の誓いを受け取ると、王をオビーエと結婚させる。姉がひそかに王を愛していたのを知っていたからである。ガーヴァーンは決闘の約束を果たすために城を去っていく。

第8巻 ガーヴァーンとアンチコニーエ(398-432):ガーヴァーンの第二のアヴァンチュール。ガーヴァーンはキングリムルゼルとの一騎討ちの約束の地シャンプファンツーン城に着くと、すぐにその国の王フェルグラハトの妹アンチコニーエと親しくなる。すると王の部下が二人の語らいの場を見とがめ、ガーヴァーンは王の父キングリジーンを殺したばかりか、王の妹まで誘惑するのかとなじり、攻撃をしかける。やむなく二人は城の塔の中に逃げ込み防戦する。そこにこの地でガーヴァーンと一騎討ちをする予定であった、王のいとこに当たる城伯キングリムルゼルが現れ、客に対してあるまじき行為であると王を咎める。王は家臣リダムスの意見をいれ、聖杯を探すという条件でガーヴァーンを自由の身にする。そしてガーヴァーンとキングリムルゼルとの決闘は、一年後にバルビゲールで行われることになる。ガーヴァーンはこうしてアンチコニーエと別れる。

第9巻 パルチヴァールとトレフリツェント(433-502):パルチヴァールは聖杯を探し求めて諸国を放浪し、森の庵で従姉のジグーネにめぐり逢う。彼女に聖杯城への道を教えられるが、途中で見失う。ある雪の降った春の日、巡礼中の老騎士ガベニースに出会う。彼はパルチヴァールの甲冑姿を咎めて、今日は聖金曜日、キリストの受難の日であることを教え、近くに住む聖者(隠者トレフリツェント)の許を訪れるように勧める。トレフリツェントはここでパルチヴァールに、神とルツィファーについて、聖杯の由来について、聖杯守護の家系(ティトゥレル、アンフォルタス、レパンセ・デ・ショイエと隠者自身)について述べ、パルチヴァールの犯した罪(親族のイテール殺害、母の死の原因、傷に悩む聖杯王アンフォルタスへの問いの怠り)を教え、神の救いについて説く。パルチヴァールは自分の犯した罪を悔悟する。

第10巻 ガーヴァーンとオルゲルーゼ(503-552):ガーヴァーンの第三のアヴァンチュール。ガーヴァーンはフェルグラハトとの約束により聖杯を探す旅に出るが、その途中でローグロイス城近くの泉のそばで公妃オルゲルーゼに遭い、この誇り高い婦人に求愛する。彼女に奉仕するため、その命に従って城の果樹園から彼女の馬を引き来たり、彼女の侮りを受けながらも一緒に旅を続け、三人の男に出会う。まずウリーアンスには、リショイスと戦って受けた傷の手当てをしてやるが、恩を仇で返され馬を奪われる。二人目のマルクレーアーティウレ(オルゲルーゼの小姓にして魔女クンドリーエの弟)にはその侮辱の言葉に怒って、馬から投げ落とす。三番目のリショイスとは激しい一騎討ちの末に勝ち、その馬(実は先ほどウリーアンスに奪われた自分の馬)を取り戻す。渡し守プリパリノートの家に泊まり、娘ベーネの歓待を受ける。魔法の城の危険がガーヴァーンを待ち受けている。

第11巻 魔法の城のガーヴァーン(553-582):ガーヴァーンの第三のアヴァンチュールの続き。ガーヴァーンは渡し守プリパリノートから、魔法の城シャステル・マルヴェイレの話を聞き、渡し守とその娘の制止を聞かず、渡し守の堅牢な楯を携えて城に出かけ、三つの危難に出逢う。最初は鏡のような床を疾風のように走り回るベッドに乗り続けること、次はどこからともなく飛んでくる石と矢の攻撃にたえること、最後に棍棒を手にした男に罵られ、ライオンの急襲を防ぐこと。ガーヴァーンはこの三つの試練を切り抜けたが、最後にライオンを倒したとき、自らも負傷し疲労のあまり血の海に卒倒する。そのとき、城に捕らえられていた老女王アルニーヴェが魔女クンドリーエに教えられた薬を用い、適切な手当てをして彼を救う。

第12巻 ガーヴァーンとグラモフランツ(583-626):ガーヴァーンの第三のアヴァンチュールのクライマックス。まだ傷の癒えぬガーヴァーンは、魔法の城シャステル・マルヴェイレの望楼にある不思議な柱を見つける。これは周囲六マイルの出来事を写し出すことができ、これでガーヴァーンは一人の騎士(トゥルコイテ)と女(オルゲルーゼ)の姿を認め、アルニーヴェらの制止も聞かずに出かけて、この挑戦者と戦って倒す。するとオルゲルーゼは新しい要求を持ち出す。ガーヴァーンは彼女の命令どおりグラモフランツ王の守っている木から葉冠を手に入れるが、王から一騎打ちの挑戦を受ける。ガーヴァーンの父が王の父を殺害していたからである。オルゲルーゼはここで今までの高慢な態度を詫びてガーヴァーンの愛を受けいれる。二人は渡し守プリパリノートから歓待された後、シャステル・マルヴェイレに帰城する。

第13巻 アルトゥースとガーヴァーン(627-678):ガーヴァーンは魔法の城の城主になると、まずリショイスとフローラント(トゥルコイテ)を自由の身にし、続いて妹イトニエーとグラモフランツの仲を取り持つ。一方ひそかにアルトゥースのもとに使いを出してグラモフランツとの一騎打ちの立ち合いを請う。また、城に捕らえられていたアルニーヴェ(アルトゥースの母)から魔法の城の由来を聞き、城主だったクリンショルはシチリアの王妃イーブリスとの不実を咎められ、その夫たるイーベル王によって去勢されたこと、彼はその報復に魔法で多くの騎士や貴婦人を捕らえてこの城に監禁したが、誰かが例の苦難を克服したらその者が彼に代わって城主となることになっていたこと、それを達成したのが自分であることを知る。ちょうどその日アルトゥース王の一行が近くに到着したので、ガーヴァーンはひそかに王をヨーフランツェの野に迎え、一族の久々の対面を喜ぶ。アルトゥースはグラモフランツを呼び寄せようとして使者を送る。ガーヴァーンは一騎打ちに備え、馬の試乗をしているとき、ザビーンス川のほとりで一人の騎士に出逢う。

第14巻 パルチヴァールとガーヴァーン(679-733):グラモフランツは、使者を通じてもたらされたアルトゥースの要請をいれて、ヨーフランツェに向かう。この使者は帰途ガーヴァーンがパルチヴァールと、相互に誰と対しているのかを知らずに一騎打ちを戦い、打ち負かされようとしている場に通りかかり、驚いてガーヴァーンの名を叫ぶ。この叫び声に双方相手が誰であるかを知って戦いを中止する。グラモフランツは疲労したガーヴァーンを見て約束の一騎討ちを延期する。ところが翌朝パルチヴァールはこっそり抜け出し、グラモフランツと戦いこれを倒す。そのためグラモフランツとガーヴァーンの一騎討ちはさらにのばされる。アルトゥースはガーヴァーンの妹イトニエーとグラモフランツとの仲を知り、グラモフランツの叔父ブランデリデリーンとはかり、両騎士の間をとりなし、またグラモフランツとオルゲルーゼを和解させる。こうしてグラモフランツとイトニエー、ガーヴァーンとオルゲルーゼが結ばれる。パルチヴァールは妻を思い、ひとり喜びの場を去って行く。

第15巻 パルチヴァールとフェイレフィース(734-786):パルチヴァールは森の中で異母兄フェイレフィースと出逢い、一騎討ちをするはめになる。戦いの勝負は容易につかなかったが、パルチヴァールの手にする剣、例のイテールから奪った剣が折れる。フェイレフィースは剣をもたぬ相手と戦い続けることをよしとせず、休戦を申し入れる。そこで両者は互いに名乗り合って兄弟同士であることを知る。アルトゥースの提案でガーヴァーンとグラモフランツはフェイレフィース歓迎の宴を設ける。かつてプリミツェール河畔で開かれた円卓の席でパルチヴァールをののしった聖杯城の使者クンドリーエが再び現れ、この度はパルチヴァールが聖杯王に選ばれた慶事を伝える。フェイレフィースは一同に贈り物を贈ると、パルチヴァールに伴われてムンサルヴェーシェに赴く。

第16巻 聖杯王パルチヴァール(787-827):パルチヴァールはフェイレフィースとともにクンドリーエに案内されてムンサルヴェーシェの聖杯城に入る。ここでパルチヴァールの祈りと問いかけによってアンフォルタスの傷が癒え、パルチヴァールは聖杯王となる。知らせを受けてすでにプリミツェール河畔まで来ていた王妃コンドヴィーラムールスを出迎えて再会し、子供のロヘラングリーンとカルデイスに会う。聖杯城への帰途ジグーネの庵を訪れ、その亡骸をその恋人シーアーナトゥランダーのそばに葬ってやる。フェイレフィースは聖杯城で受洗し、アンフォルタスの妹レパンセ・デ・ショイエと結婚する。二人は連れ立ってインドに帰り、後にその子ヨーハンはキリスト教を伝道することになる。パルチヴァールの次子カルデイスは世俗の王となる。長子ロヘラングリーンは一度ブラバント国の王になるが、再び聖杯城に戻って聖杯護持の任務につく。このエピソードはいわゆる白鳥の騎士ロヘラングリーン(ローエングリン)の物語である。そしてエピローグ。

ティトゥレル[編集]

詩節形式の断片『ティトゥレルドイツ語版英語版』(ドイツ語: Titurel)は、『パルチヴァール』の題名主人公の従姉であるジグーネ(Sigûne)とその恋人シーオナトゥランダー(Schîonatulander)をめぐる作品である。作品の題は、作品冒頭に登場し、聖杯城の騎士・貴婦人を前に述懐する最初の聖杯王の名に拠っている。ジグーネは、聖杯物語『パルチヴァール』の中で4回登場するが、その恋人の方は最初からすでに亡骸となっている。『ティトゥレル』は二つの断片から成り立っているが、第1断片は二人の恋の始まりを、第2断片は、(『パルチヴァール』によって聴衆には既知の)「悲劇」につながる出来事を叙している。ヴォルフラムの『パルチヴァール』『ヴィレハルム』、ゴットフリートの『トリスタンとイゾルデ』などドイツ中世の宮廷叙事詩は、1行が4揚格(Hebung)からなり、連続する2行が脚韻で結ばれる(Reimpaare)形式で物語が語られるが、『ティトゥレル』は、連続する2行が押韻をする点ではそれと同じであるが、各行の揚格数は8,10,6,10と変化して4行で1詩節(Strophe)を形成している。その点では、『ニーベルンゲンの歌』に代表される英雄叙事詩と同じであり、揚格数8,8,8,10の4行で1詩節(Strophe)をなす英雄叙事詩『クードルーン』に近い。 第1断片の第1詩節を以下に引用しよう。

   Dô sich der starke Tyturel  mohte gerüeren,
  er getorste wol sich selben  unt die sîne in sturme gefüeren.
  sît sprach er in alter: ,ich lerne,  
  daz ich schaft muoz lâzen.  des phlac ih schône unt gerne.‛ (Brackert/Fuchs-Jolie)

 『ティトゥレル』は、『パルチヴァール』を伝える写本の最後に書写されている。これが写本Gで、Cgm 19 der Bayerischen Staatsbibliothek München, Bl. 71ra-74rc。写本成立13世紀半ば。164詩節を収録。(http://www.handschriftencensus.de/1223)

その約半世紀後に成立したのが、断片Mで、8o Cod. ms. 154 (Cim. 80b) der Universitätsbibliothek München, Fragm. II。46詩節を伝えるが、その中9詩節がG写本にはない詩節である。46詩節全てが第1断片に属する。(http://www.handschriftencensus.de/1043)
第3の写本が皇帝マクシミーリアーンのために1504年から1515/16年にかけて制作された豪華な「アンブラス英雄本」(Ambraser Heldenbuch) 写本Hで、Cod. Ser. nova 2663, der Österreichischen Ntionaobibliothek Wien, Bl. 234ra-235rb。68 詩節を伝えるが、その中6詩節がG写本にはない詩節である。68詩節全てが第1断片に属する。

(http://www.handschriftencensus.de/3766)

 ヴォルフラムの作品が断片のまま残されたので、それを核に、約6300詩節という長大な作品をこしらえたのがアルブレヒト(Albrecht)である。彼は作品の最初でヴォルフラムの仮面をつけているが、最後に仮面を外して、自分はアルブレヒトであると名乗る。この作品は、19世紀までヴォルフラム作と見なされ、多くの写本が残された(印刷本を含めて実に60)。アルブレヒト作品は今日,Jüngerer Titurel‘(新ティトゥレル)と呼ばれている。60写本のうち18本が上記3写本伝承の詩句を記載している。これを写本Iとする。1833年初版-1952年第7版のLachmann版は、Gにはないが、HMIに存在する11詩節の中6詩節をヴォルフラム作と見なし、『ティトゥレル』は164+6=170詩節からなると判定した。1972年出版のハインツレ版は、詩節ごとに写本の翻刻テキスト(Transkription)を並置し、詳注を施している。2003年刊行のBrackert/Fuchs-Jolie版は校訂本文に異本と対訳をつけ、詳注を付したものである。『ティトゥレル』は、幸いなことにメロディーが残っていて、それがBrackert/Fuchs-Jolie版に掲載されている。これを基にWiedenmannは『ティトゥレル』を「歌った」。聞き甲斐のある、見事な復元の試みである。なお,Jüngerer Titurel‘写本には、興味深い挿絵が添えられたものが二つある。(http://www.handschriftencensus.de/3615) (http://www.handschriftencensus.de/3616)  

 『パルチヴァール』にジグーネが登場する場面は上記のように4回見られる。第1の場面(第3巻、第138-142詩節)、第2の場面(第5巻、第249-255詩節)、第3の場面(第9巻、第435-442詩節)、第4の場面(第16巻、第804-805詩節)であるが、ジグーネは主人公パルチヴァールの生涯の節目において重要な役割を果たしている。しかし、自身が愛する人を死者として抱くまでになった経緯については、「猟犬の紐がこの人に苦難をもたらしました」という説明と「この人に愛を与えなかったのは愚かでした」という反省以上のことを語らないので、謎が残るままになった。この謎を解く形で『ティトゥレル』が創作されたと思われるが、『ティトゥレル』第2断片でも、シーオナトゥランダーは猟犬を求めてジグーネの許から出発するところで終わっているので、謎は解き尽くされたとは言い難い。しかし、その分、私たちは想像の翼を広げるように促されたと言えようか。 なお、ヴォルフラムが『パルチヴァール』作成に際して依拠したクレチアン・ド・トロワの『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』では、主人公の従姉として現れる人物に名前は与えられていない。ヴォルフラムの与えた名前ジグーネ(Sigûne)は、原拠のcosine(従姉妹)(第3600行)から作られたものだろう。

ヴィレハルム[編集]

韻文形式の物語『ヴィレハルムドイツ語版』(ドイツ語: Willehalm)では、ヴォルフラムは異教徒と戦った騎士ヴィレハルム(フランスのギヨーム・ドランジュ)について物語っている。この作品はフランス中世の武勲詩『アリスカン』(フランス語:Aliscans)の翻案であり、キリスト教徒と異教徒との対決を扱っているが、作品後半に見られる、異教徒に対する「寛容」の精神は現代の我々にも強く訴えるものがある。

1. 梗概 第1巻 アリシャンツの敗北(1-57): プロローグ。前史としてナルボーン(ナルボンヌ)のヘイムリーヒが7人の息子の相続権を奪い、世に送り出したこと。長子ヴィレハルムが、異教徒の俗界の指導者テラメールの娘でティーバルトの妻であったアラベルを得たこと。彼女が洗礼を受けてギーブルクと称するようになったことが語られる。 アリシャンツ(アリスカン)の最初の戦い。前半では戦闘の準備と戦闘の模様が語られる。ティーバルトはテラメールの加勢を得て妻と領地を奪回しようとする。テラメールとその兄弟アロフェルとハルツェビエルは大軍を召集する。軍は船を使って来寇し、アリシャンツの近くに集合する。迎え撃つ辺境伯ヴィレハルムには、二万の将兵が加勢に参じた。この戦闘では、異教徒側ではピーネルとノウパトリース、キリスト教徒側ではミーレが戦死する。ヴィレハルムの甥ヴィーヴィーアンツが瀕死の重傷を負う。 後半ではキリスト教徒勢の敗北が語られる。圧倒的な大軍を擁する異教徒勢に対してキリスト教徒勢は神の戦士として奮戦するが、ついに敗北する。懸命に戦ったヴィレハルムは敗北を認め、戦場を離れて妻の残る城への帰還を目指す。

第2巻 ヴィーヴィーアンツの死とヴィレハルムのオランシェへの帰還(58-105): 戦場は異教徒勢に埋め尽くされている。ヴィレハルムは瀕死のヴィーヴィーアンツを見つけ、告解を聞き、聖体を渡す。その死後、芳香が漂う。ヴィレハルムは王たちと戦う。アロフェルとの一騎打ちでは、落馬させ命乞いをされるが、ヴィーヴィーアンツの死を思い、首を切り落とす。アロフェルの武具を身に着け、その馬に乗り換えるものの、正体がばれて敵と戦う破目になる。テゼレイス王からは、改宗を促されるが拒否し、その命を奪う。オランシェ(オランジュ)への帰還。入城を求めるが、武具と馬のために城主の帰還とは信じてもらえない。近くで捕虜として引き立てられていたキリスト教徒を救出するものの、妻ギーブルクの疑いはなおも晴れない。かつて戦場で負った、鼻の上の傷跡を見せてようやく夫であると信じてもらえる。ヴィレハルムはギーブルクにヴィーヴィーアンツの死を知らせる。ギーブルクは、父が自ら大軍を率いて参戦したと知ると、キリスト教徒側が太刀打ちできないと思う。ヴィレハルムは、ギーブルクが城市を守り抜けば、一族と王の救援を確保できると慰める。異教徒勢は城を包囲する。ヴィレハルムは城壁の守備を、救出したキリスト教徒に任せる。状況がひとまず落ち着き、夫婦の合歓の場面。夫が寝入るとギーブルクは神に慈悲を乞い、ヴィーヴィーアンツの死を悼み、夫の苦難を訴える。頬の上に落ちてくる妻の涙に目を覚ましたヴィレハルムは、救援を求めての旅の正否を妻に委ねる。ギーブルクは同意し、城市を守り切ると約束する。ヴィレハルムはアロフェルの武具を身に着ける。ギーブルクはヴィレハルムを抱き、美しいフランス女性の求愛に応じないように訴える。ヴィレハルムはそれを約束し、水とパン以外の物を口にしないと誓う。ヴィレハルムはフランスへと旅立つ。

第3巻 ヴィレハルムのムンレーウーンへの旅(106-161): オランシェ(オランジュ)を攻囲したテラメールは味方の大損害を悲しみ、城を守る実の娘ギーブルクの殺害によってその復讐をしようとする。テラメールが攻城具を設置するのに対し、ギーブルクは戦死者に楯を持たせて防御回廊に立てる奇策に出る。 ローイース(ルイ)王に対する救援軍派遣要請のためフランスに向かったヴィレハルムは、オルレンス(オルレアン)に到着する。町を発つとき、代官は商人に課せられる関税を請求する。ヴィレハルムは、自分は騎士であるからと支払いを拒み、通行を拒否する代官側と揉め、代官の首を刎ねる。代官の妻はこの町で権能を有するエルナルト伯に夫の悲劇を訴える。伯は、それが騎士であるなら関税請求の正当性はないと説くものの、その騎士が、王から辺境伯にのみ許された鬨の声を挙げていると聞いて、王夫妻(王妃は伯の姉妹)の名誉のために騎士の後を追う。ヴィレハルムに追いついたエルナルトは戦って落馬する。彼らは名乗り合って兄弟であることを知り、兄弟殺しの悲劇を免れる。ヴィレハルムは弟にアリシャンツの戦闘の模様を語る。エルナルトは三日後にムンレーウーン(ラン)で宮廷の祝宴が催され、父母を始めとする一族や諸侯が参集すると告げる。途中修道院で一泊したヴィレハルムは、アロフェルから奪った豪華な楯を預ける。ムンレーウーンに到着したヴィレハルムだが、だれも構ってくれない。彼を目にした王夫妻は、その入廷を拒むように命令する。ヴィーマールと名乗る商人が宿を提供する。亭主は快適な寝具を用意し、ご馳走を調えるが、ヴィレハルムはパンと水だけをとるだけで、草の上に寝る。参内したヴィレハルムは王に向かって、諸侯の反対を押し切ってローイースを王位に就かせたのは自分であると豪語し、前日からの冷遇を非難する。これに王が反射的に救援を約束すると、王妃が反対する。怒ったヴィレハルムは王妃の冠を床に投げつけ、首を刎ねようとするが、二人の母が割って入って事なきをえる。王妃は自室に逃げ帰り、娘のアリーツェを驚かす。ヴィレハルムは父母らにアリシャンツの戦いの経緯、特に一族の貴公子の戦死を話す。父母は援助を約束する。王妃である自分の母にヴィレハルムへのとりなしを頼まれた王女アリーツェは、兄妹の関係修復に成功する。

第4巻 援助をめぐる葛藤。辺境伯とレンネヴァルトのオランシェへの出立(162-214): 伯父ヴィレハルムの怒りを宥めたアリーツェは、母(王妃)のいる部屋に戻る。王妃はアリシャンツの戦いの様相を知ると、ヴィーヴィーアンツらの戦死を悼み、これまでの態度を一変させて兄に対する救援を言明する。王妃は王に兄への援助を頼むが、王は「そなたの願いは諮ってみよう」としか答えない。宴会が催される。ヴィレハルムはヴィーマールを自分の横に座らせ、前夜の宿の提供に報いる。宴会後、辺境伯ヴィレハルムは王に救援を依頼するが、「協議してみよう」としか返事が得られない。ヴィレハルムは怒って詰め寄るが、王は動じない。王妃とその一族が強く訴えた後、ついに王は救援軍の召集を決断する。遠征軍の観閲は10日後と決まる。その間のある日、ヴィレハルムは台所の水運びをしている若者(レンネヴァルト)が小姓らに玩具にされているのを目にする。桶の水を二度もこぼされて怒った彼は小姓の一人を柱に投げ飛ばして殺してしまう。王は彼の素姓についてヴィレハルムに話し、ヴィレハルムは王から彼をもらい受ける。ヴィレハルムはレンネヴァルトの装備をユダヤ人に指示するが、レンネヴァルトは軍馬も甲冑も必要とせず、軽装の衣服と重い棍棒だけを所望する。遠征軍の集結。レンネヴァルトは寝坊して棍棒を忘れてしまう。取りに戻ると、料理人らが隠していたので怒って料理人頭を殺してしまう。ムンレーウーンを発った軍勢は、前にヴィレハルムが宿泊し、楯を預けた修道院の近くで宿営する。修道院は焼失していた。ヴィレハルムは楯を取得した経緯を契機に、アリシャンツの戦いでの活躍を語る。軍勢のオルレンス(オルレアン)到着。王は辺境伯に帝国軍の指揮権を託し、帝国軍旗を授与する。軍勢は王に別れを告げる。レンネヴァルトはアリーツェと口付けをし、別れる。オランシェに近づいたヴィレハルムは、夜闇に燃える火を見て、ギーブルクの運命を案じる。

第5巻 援軍のオランシェ集結。テラメールとギーブルクの対話、ギーブルクとヴィレハルムの再会、ギーブルクとヘイムリーヒとの対話(215-268): 物語の時間が戻る。夫の辺境伯ヴィレハルムが留守の間、ギーブルクは自ら武装し、攻囲されたオランシェ(オランジュ)の防御に成功する。休戦中にギーブルクと父テラメールの間で改めて話し合いがなされる。父は娘を愛していると言い、娘殺害は宗教的権威バールク(カリフ)の科した命令と弁明して、異教の神々への帰依に復帰するよう懇願する。ギーブルクはキリスト教の神の優位性を主張し、辺境伯との強い絆を強調する。異教徒勢の包囲戦が長引き、死体や動物の死骸の腐臭を避けるために、異教徒軍は一時撤退をする。撤退前にオランシェ周辺を攻撃する。このとき上がった火の手をヴィレハルム軍は見る。 ヴィレハルムは軍勢に異教徒への攻撃を命じる。火煙越しにヴィレハルムは城が落ちていないことを見て取る。ギーブルクの方は異教徒勢が戻ってきたと思い、武装して待ち構える。ヴィレハルムが妻の様子を尋ね、その声で彼女は夫の帰還と知り、喜びの余り気絶してしまう。正気に戻ったギーブルクは夫を迎え入れる。ヴィレハルムは帝国軍の諸侯に伝令を送り、異教徒勢の撤退を知らせる。ヴィレハルムの弟たちと父の軍隊も到着する。 ヴィレハルムは妻に宴会の準備を依頼し、陣を張った各部隊を回り、父、弟たち、帝国軍諸侯を招待する。ギーブルクと婦人らは装い、客を迎える。ヘイムリーヒを先頭に客人が参内し、ギーブルクから口付けを受ける。彼女の横に座ったヘイムリーヒは彼女の誠実に感謝する。ギーブルクは涙ながらに苦悩を訴え、キリスト教徒・異教徒両方の災厄の責任は自分にあると言う。彼女は息子のエハメレイスとハルツェビエルと交わした話し合いについても語り、彼女が彼らの許に戻るなら損害を補償し、捕虜を返還すると言われたが断ったと伝える。ヴィレハルムはヘイムリーヒにホスト役を依頼する。ヘイムリーヒは客人の席を決め、自分の臣下に給仕をさせる。再び隣に座ったヘイムリーヒにギーブルクは、激しく攻撃した異教徒勢について語り、例外は息子のエハメレイスと婦人奉仕の愛の騎士、テゼレイス王とノウパトリース王だと告げる。ヘイムリーヒはギーブルクに涙を隠すように頼む。

第6巻 ギーブルクとレンネヴァルト。諸侯会議(269-313): 宴会では、誓いを果たしたヴィレハルムも遠慮なく飲食する。レンネヴァルトが棍棒を持って現れ注目を集める。顔は汚れているが、汚れの下から持ち前の美貌が輝いている。ヘイムリーヒの質問に答えてギーブルクはレンネヴァルトについて夫から聞いたことを話す。レンネヴァルトがギーブルクの隣に座ると、二人は瓜二つに見える。小姓らがレンネヴァルトの棍棒で遊ぶ。床に落とすと小姓らは追いかけられ広間から逃げる。食事が終わり、諸侯が陣営に戻ると、辺境伯は天幕を訪れ、将兵が飲食に事欠かぬよう気配りし、翌日の作戦会議への参加を依頼する。 城主夫妻が寝台に向かう。レンネヴァルトは棍棒を抱えたまま台所で眠る。料理人頭は燃える薪でレンネヴァルトの髭を焼く。激昂したレンネヴァルトは料理人頭を炎の中に投げ込む。レンネヴァルトは恋人の口付けの結果である髭が焼かれたことを嘆く。翌朝、諸侯が城に登ってくる。ヴィレハルムは前夜の騒動を知ると、ギーブルクにレンネヴァルトを宥めるように頼む。ギーブルクが優しく接し、レンネヴァルトに素姓を訊くと、高貴の血筋とだけ答える。レンネヴァルトはヴィレハルムの味方として戦い、異教徒に復讐をするという。レンネヴァルトは、ギーブルクの差し出す、異教徒王の手中にあった武具を身に着ける。 作戦会議。ヴィレハルムは異教徒の蛮行と自分の損失を語り、助力を訴える。次に父のヘイムリーヒと弟のベルナルトがヴィレハルムのために戦うことを明言し、フランス勢にも同じことを求める。しかし、フランス勢は、オランシェが解放されただけで十分ではないかと反論する。弟のベルトラムとブオヴェが、名誉と信仰の守り手としての義務に訴えると、フランス勢は態度を改めて戦闘参加を表明し、十字の印を身につける。会議の散会前に、会に参加していたギーブルクが立ち上がる。戦闘の生じた責任は自分にあると認め、諸侯にヴィーヴィーアンツの死の報復を彼女自身の一族に対して果たすように要請する。しかし、異教徒が敗北した際には、敬意をもって接するようにと頼む。聖書を根拠に、全ての異教徒が地獄落ちとはならなかった、人は全て異教徒として生まれると説く。前夫と子供を捨てたのはキリスト教の神と辺境伯のためであったと述べ、戦死した一族のことを悲しみ涙にくれる。ヴィレハルムの弟ギーベルトが慰める。会議の後に食事。食事が済むと軍の編成。

第7巻 キリスト教徒軍のアリシャンツへの行軍と異教徒軍の戦闘準備(314-361): レンネヴァルトは軍勢の横を走っていき、ヴィレハルムに行き当たる。棍棒のことを尋ねられ、忘れたことに気づくと、ヴィレハルムは取りにやらせる。軍隊は野営する。野営の小屋を燃やし、後で、またも置き忘れた棍棒が、黒く焦げたけれども丈夫になったことが分かる。山の上からヴィレハルムはアリシャンツの野を見渡し、それが異教徒軍に覆われているのを知る。麾下の諸将に檄を飛ばすが、退却の選択も許す。帝国軍を指揮するフランス諸侯は退却を選ぶ。ヴィレハルムは残った将兵を五個の隊に編成し、隊長と鬨の声を定める。帝国軍旗を降ろし、自分の旗を揚げさせる。退却を始めた諸将はピティット・プントの狭間でレンネヴァルトに遭い、棍棒で攻撃される。諸侯はかえって一緒の退却を勧めるが、拒否され死者も出る。狭間で打たれるので逃れることができず、諸侯はヴィレハルムとともに戦うことを誓う。ヴィレハルムは巻いていた帝国軍旗を広げさせ、諸侯の軍勢を、レンネヴァルト指揮下の隊に編成し、鬨の声を「レンネヴァルト」と定める。 王妃の傭兵の一人が異教徒軍の斥候と遭遇し、戦った後、陣に戻る。斥候はテラメールに敵情を報告し、三日前に攻撃を受けて被った損害についても語る。テラメールは、敵が帝国軍旗を掲げていると知ると、ローイース王が自ら遠征してきたと思い込む。テラメールは、ポンペーユスの子孫としてローマ帝国の統治権を主張し、オランシェ()とパリを破壊し、アーヘンの玉座に登り、ローマを手中に納めるとの決意を示す。麾下の君侯を招集し戦闘突入を促す。九個の隊を編成し、指揮官を定める。 テラメールは神像を牛の牽く車に載せ、戦場に向かわせる。自ら率いる第十隊を編成する。諸王がテラメールの武具を運んでくる。ギーブルクの棄教と先の戦闘での損害を嘆く。戦場に散らばるキリスト教徒の石棺が戦闘の邪魔になると心配する。無数のタンバリンと喇叭の音とともにテラメールは馬に跨り戦闘に突入する。

第8巻 アリシャンツの決戦(362-402): 戦争の火蓋は、ハルツェビエル隊のシェーティース/シルベルト隊への攻撃によって切られる。異教徒軍には、先の戦闘でヴィーヴィーアンツに討たれた王の将兵も加わる。次に、ティーバルト/エハメレイス隊がヴィレハルムに襲いかかるが、レンネヴァルト隊を相手にすることになる。続いて、ジーナグーンがヴィレハルム目掛けて突入する。アラベル(ギーブルク)の兄弟からなる第4隊は、ブルーバント公ベルナルトとブオヴェを対戦相手にする。前者は叔父の復讐を、後者は捕虜となった一族救出のために人質獲得を狙う。その後、ポイジュスがベルトラム/ギーベルトと戦う。第6隊であるアロパティーン隊は老ヘイムリーヒと戦う。第7隊率いるヨスヴェイスは戦闘突入順の遅いのが不服であったが、第2隊の救援に向かい、ティーバルトとエハメレイスを救う。第8隊のポイドヴィースは、戦闘突入まで長時間待たされた鬱憤を晴らすかのように猛然と戦う。キリスト教徒勢はこれをほとんど持ちこたえられない。第9隊を率いるマルランツ王は、先行した友軍の戦闘を観察し、余裕を持って参戦する。最後に総大将テラメールが戦闘に突入する。各隊は軍令を無視し、競って友軍に先駆けようとして混乱する。

第9巻 キリスト教徒軍の大勝利(403-466): テラメール隊の攻撃を受けてキリスト教徒勢は分断されるが、懸命に防戦する。戦陣の火蓋を切ったハルツェビエルが疲労した部隊とともに船に退却すると、レンネヴァルトが追跡する。前の戦闘で捕虜になり船倉に囚われていた宮中伯ベルトラムと諸侯7人は、「モンショイエ」の鬨の声を聞き、同じ鬨の声で応じる。レンネヴァルトは捕虜を解放し、武具と馬を調達するために異教徒の騎士を斃す。レンネヴァルトの活躍でキリスト教徒勢は次第に優勢になる。ベルナルトがテラメールの旗手を斃すと、異教徒勢の敗北が決定的になる。テラメールの軍旗が落ち、帝国旗と他のキリスト教徒軍の旗が翩翻と翻る。異教徒勢は海岸や山地に逃れる。テラメールは船に向かい、海岸でキリスト教徒勢を防ごうとする。レンネヴァルトはテラメールが若者のように戦っている様子を見る。ヴィレハルムはテラメールを攻撃し、重傷を負わせ、レンネヴァルトはテラメールを守る王侯を斃す。テラメールは船に運び込まれる。戦闘は終息する。 勝利したキリスト教徒勢は戦死した一族や友人を探し出し、戦利品を鹵獲する。食糧を略奪し、多数の者が正体のなくなるまで酔う。翌朝、戦死者の遺体が集められる。一般の兵士はその場に埋葬されるが、身分の高い人々には、故郷に移送するためバルサム等が施される。ヴィレハルムはレンネヴァルトの失踪を嘆く。弟のベルナルトは、兄のあまりの愁嘆を咎め、陣は戦場を離れたところに張り、レンネヴァルト捜索を行わせるべきだ。レンネヴァルトが捕虜となっているなら、キリスト教徒方も人質として交換できるだけの捕虜を確保したので、諸侯に捕虜の提供を求めるようにと助言する。ヴィレハルムは諸侯から捕虜を受け取り、父のヘイムリーヒに監視を依頼する。捕虜は鎖につながれるが、マトリブレイス王だけは誓約させるだけで身柄の拘束はしないでおく。 ヴィレハルムは、マトリブレイス王を特別扱いするのは、王と自分の妻との血縁によると明かす。そして、王を模範的な君主として賞賛し、戦死した異教徒諸王の遺体を戦場から集め、バルサムを施すように依頼する。更に、テラメールの陣営で見つけた物について話す。ある天幕に23体の王の亡骸が安置されていた。祭司がその番をしていた。棺には碑銘があり、王の名前と領国、出身地、戦死の状況が読み取れる。自分は天幕の前に軍旗を立てさせ、略奪にあわないよう守れと命じておいたと。ヴィレハルムは王に、諸王の遺体を故国に持ち帰ってもらうが輸送の援助をすると申し出で、誓約から解除する。テラメールに対しては、伝言として、諸王の遺体を送り返すのは恐怖からではなく、妻の出自への敬意からである。テラメールが望むなら友好関係を結びたいが、キリスト教を捨て、妻を戻すことはできないと伝えてくれと頼む。その後ヴィレハルムはマトリブレイス王を神の加護に委ね護衛をつける。「かくて マトリブレイス王は プロヴェンツェの地を去った」

  原拠『アリスカン』の伝える後日談(M写本に準拠) デラメ(Desramé、テラメール)が船で逃走し、戦闘は決着するが、異教徒の一部の将兵が残されていた。異教徒の王でレヌアール(Rainouars/Rainouart、レンネヴァルト)の従兄弟ボーデュック(Baudus/Bauduc)は怪力の大男であるが、彼がレヌアールに遭遇し、一騎打ちをする。強健レヌアールは従兄弟を神の御加護をえて打ち負かす。ボーデュックは、キリスト教への改宗を誓い、いったん国に帰る。フランス軍は帰国の旅に就く。戦闘で疲れたレヌアールは皆に遅れる。ギヨーム(Guillaumes/Guillaume、ヴィレハルム)は、レヌアールのことを忘れてしまう。オランジュ(Orange、オランシェ)ではギボール(Guiborc、ギーブルク)が食事を振る舞う。これに招待されなかったレヌアールは、侮辱されたと思い、涙をながしながら戦場に。途中一群のフランスの騎士に遭うと、ギヨームの忘恩を詰り、復讐のために生国で部隊を編成して戻り、オランジュを破壊し、ギヨームを捕虜にし、ルイ(Loe ïs/Louis、ローイース)を玉座から引き下ろし、アーヘンで王位に就くつもりとの伝言を託す。これを聞いたギヨームは不安になり、和解の使者として20人の騎士をレヌアールのところに送るが、功を奏しない。そこでギヨーム自ら妻や兄弟らを従えて赴く。ギボールがレヌアールの怒りを宥め、夫を赦すように頼む。ギヨームもレヌアールの武功に感謝すると、レヌアールの怒りも消え、一同はオランジュに帰る。夕食の際、ギボールはレヌアールの隣に座る。レヌアールがギボールに、自分はデラメの息子であると明かすと、ギボールは、相手が兄弟であると知り、涙ながらに抱擁する。レヌアールは洗礼を受け、ギヨームの家令(senescaus/sénéchal)となる。さらに騎士に叙任される。レヌアールと戦って打ち負かされ、傷の治療のために領国に帰っていた従兄弟のボーデュックが、レヌアールとの約束を果たすため部下を引き連れオランジュにやってきて洗礼を受ける。

2. 素材・原拠 十字軍文学の一つ、フランスの武勲詩「アリスカン」(Aliscans)を原拠とする。これは12、13世紀にフランスで最盛期を迎えた武勲詩群の一つ、オランジュ伯ギヨームを中心とした「ギヨームの詩群」(Cycle de Guillaume/Wilhelmszyklus)の一部をなすものである。武勲詩の主人公像の核になった実在の人物は、フランク王国宮宰、カール・マルテル(685頃-741)の孫の一人、トゥールーズ伯ギヨーム(Guillaume de Toulouse/Gellone/d’Aquitaine)で、カール大帝(742-814)とその息子ルートヴィヒ(ルイ)敬虔王(778-840)の下、フランスのスペイン辺境を守った。すなわち、790年カール大帝によりトゥールーズ伯に任じられ、791年バスク人の反乱を鎮圧、793年侵略してきたサラセン人と交戦、801年カール大帝によるバルセロナ攻囲の一翼を担った。804年妻のWitburgis(本書の「ギーブルク」)死去、その後モンペリエ北西の山中にGellone修道院(今日のSaint-Guilhem-le-Désert、ユネスコ世界遺産)を設立、806年6月29日自らその修道士となり、812年5月28日に修道院で死去した。死後まもなく聖者として崇敬され、1066年に列聖された。なお、ダンテ『神曲』「天国編」第18歌には、グイリエルモとしてリノアルド(本書の「レンネヴァルト」)とともに言及されている。

3. 写本・刊本・翻訳 「ヴィレハルム」は、12個の完本と66個の断片の写本によって伝えられており、中高ドイツ語による文学作品の中で、「パルチヴァール」(16個の完本と71個の断片の写本)に次ぐ豊かな写本伝承を誇っている。(因みに、ゴットフリートの『トリスタンとイゾルデ』は、11個の完本と23個の断片の写本、ハルトマンの『イーヴェイン』は、16個の完本と17個の断片の写本。)もっとも、13世紀に遡る完本は1本だけである。それは、ザンクト・ガレン修道院図書館cod. 857で、これには「パルチヴァール」、「ニーベルンゲンの歌 写本B」(Der Nibelunge not)、「哀歌」(Diu klage)、シュトリッカー「カール」(Strickers Karl)も含まれている。Lachmann、Schröder、Heinzleはともに、基本的にこの写本を底本にして校訂版を出版した。ヴィレハルム写本で特徴的なのは、豪華な挿絵付のものが少なくないことである。オーストリア国立図書館本cod. Vind. 2670は写真復刻版が出版された。Heinzle の校訂本や同氏編のヴォルフラム・ハンドブックには挿絵の図版も載っているが、http://www.handschriftencensus.de/や ‛Willehalm-Handschriften’等を検索すれば、インターネットで写本や挿絵を見ることができる。

ヴィレハルム写本の伝承のされ方も興味深い。すなわち、未完に終わったゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタンとイゾルデ』の続編を物したUlrich von Türheimは、1250年頃約36,000行に及ぶ『ヴィレハルム』の続編のを書いた(『ヴィレハルム』は約14,000行)。この続編は、主人公の名をとって『レンネヴァルト』(Rennewart)と称されている。一方、それから約20年後にUlrich von dem Türlinは、『ヴィレハルム』の前史と言うべき作品(約10,000行)を著わした。これは現在、『アラベル』(Arabel)と呼ばれている。『ヴィレハルム』の完本12写本のうち、8本が前史『アラベル』と続編『レンネヴァルト』に挟まれて、つまり3作品が一つのZyklusとして同じKodexに納まっているのである。写本成立の13-15世紀、王侯貴族の宮廷でヴィレハルムを中心とする物語が好まれた証拠と言えよう。

1598年に‘Von der edlen und hochberühmten Kunst der Musica’と称する文章を著したCyriacus Spangenbergは、『ヴィレハルム』に言及し、そのコメントは、Enoch Hanmannがオーピッツ(Martin Opitz)の‘Buch von der Deutschen Poeterey’の1658年以来の版に加えた追記に引用されている。Hanmannの記述は時代が下って、1734年刊行のZedlerのUniversallexikonのヴォルフラムの項目の基になった。このように、ヴァルトブルクの歌合戦の詩人、『パルチヴァール』の作者として語り継がれたヴォルフラムが、『ヴィレハルム』をも作ったことは狭い範囲でこそあれ伝承されたと言える。

時代をさかのぼるが、1334年ヘッセン方伯ハインリヒ2世は、『ヴィレハルム』+その「前史」・「続編」の挿絵つき大写本を作製させ、子孫が相続すべきものと定めた。時代が下って、ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ2世は、1777年古代の文学と芸術ばかりでなくヘッセンの歴史に関わる史的文書を探究する組織を設立した。この会の事務方を担当したWilhelm Johann Heinrich Caspersonは、一つの写本を復刻する形で『ヴィレハルム』を出版したが、無数の誤読を含んでいた。

『ヴィレハルム』を含むヴォルフラム全作品の学問的考究の基礎となったのは、ラッハマン(Karl Lachmann, 1793-1851)の写本研究と校訂版の出版(1833年)である。かれは前述のように、ザンクト・ガレン本を底本にしたが、12個の完本写本の中の7本と10個の断片を利用した。一部底本から逸れ、他の写本との折衷処理をみせる個所と韻律上の規則性を高めようと無理をした個所が見られる。ラッハマンより良い校訂版の刊行を目指したのがシュレーダー(Werner Schröder)を中心とするマールブルク・グループ(Willehalm-Arbeitsstelle)である。グループは、12個の完本写本全てと50を超す断片を比較検討し、校訂版を作成した(1978年)が、底本は変えなかった。ただ、ラッハマンが語句を無理につなぎ合わせたり、弱拍音を削除するなどして、音節を少なくした個所は、底本に近づけた。 扱った資料の多さを反映して、「校異」を示すApparatは非常に充実したものになったほか、「外来語・借用語」と「名前」の一覧表が付加され、利用度のたかいものになった。Deutscher Klassiker Verlagの“Bibliothek deutscher Klassiker 69”として1991年に刊行されたハインツレ(Joachim Heinzle)による版は、副題にあるとおり、ザンクト・ガレン本の翻刻版そのものである。これには、現代ドイツ語による翻訳の他、詳しい注釈とその表、ヴォルフェンビュッテル写本中の挿絵(28頁!)とその解説、「名前」の一覧表などが付され、原文の世界に近づきやすく、同時に、見るだけでも楽しい本造りになっている。

近代から現代に至るまで、ワーグナーの『パルジファル』を始めヴォルフラムの『パルチヴァール』は多くの優れた文芸・芸術作品を産み出す母体になったが(新しいところでは、1993年刊Adolf Muschgの、千ページを超す大作 ,Der Rote Ritter‛)、『ヴィレハルム』はそのような生産性を示すことがなかった。ただ、「ドイツ中世の再発見者」とされるスイスの評論家ボードマー(Johann Jakob Bodmer, 1698-1783)は、1753年に『パルチヴァール』の翻案をヘクサメーターで著したが、『ヴィレハルム』にも強く惹かれて大胆な翻案をものにした。それは1774年刊行の,Wilhelm von Oranse‛で、古代ギリシアの『イーリアス』ばりの野心的な作品となった。

『ヴィレハルム』の完訳は、1873年出版のSan-Marte (Albert Schulz)による韻文訳が最初であり、続く1925年刊行、Theodor Matthiasの「詩人の精神において新たにした」(Im Geiste des Dichters erneuert)訳も、押韻はされていないが、各行とも4個の揚格をもつ韻文訳である。散文訳の最初は、Knorr/Fink訳(1941)であるが、誤訳が少なからずあった。その後深い学識に裏付けられたKartschokeの対訳本(1968)が現れた。氏は訳について、「たかだか、言語学的・文法的註解を続けたもの以上を目指していない」(Sie will nicht mehr sein als bestenfalls ein durchgehender sprachlich-grammatischer Kommentar)と謙遜しているが、並置された原文を理解するのに行き届いたものになっている。同様に対訳で示されたHeinzle訳(1991)は、原文と訳の行ごとの対応を強く意識し、両者の順序がずれる際には、訳の横に本文側の該当行が付記された。

Kartschoke訳の刊行とHeinzle訳のそれとの間に、Unger の韻文訳が現れた(1973)。ヴォルフラムの文体の魅力は、韻文という型ゆえにこそ許される自由な表現や押韻の多彩さに負うところが多いとの認識から、楽しめる訳を提供する意図から生まれた。 また、英語訳としては、Gibbs/Johnson訳(1984)がある。

4. 構成と文体  作品構成 物語の舞台は、戦場アリシャンツ―居城オランシェ―オルレンス―修道院―ムンレーウン―修道院―オルレンス―居城オランシェ―戦場アリシャンツと移っている。つまり、原拠となった『アリスカン』にすでに見られるシンメトリックな構成であるが、『ヴィレハルム』では、その鏡像的性格がより鮮明になっている。また、コンラート師の『ローラントの歌』が、その原拠『ロランの歌』に神への祈りのプロローグを追加したように、ヴォルフラムも神への祈りでこの作品を開いている。(そのような教化的あるいは宗教的要素は、主人公とその妻を聖人として呼びかけている個所を始め随所に見られる) 文体(語り口) 原拠となった『アリスカン』は、中世フランスの武勲詩一般に特有のレースによって構成されている。レース(laisse)とは、行末において同一の強勢母音あるいは強勢母音+子音を繰り返す詩行(前者が半諧音、アソナンス、後者が韻)からなり、同一の長さの詩句を不定数一つにまとめた構造体である。各詩句は10音綴である。 一方ヴォルフラムの『ヴィレハルム』は、4揚格(Vierheber)の短詩行が2行ずつ脚韻を踏む(Paarreim)、すなわちドイツ中世叙事詩で好まれ、ヴォルフラムの先輩ハルトマンらが用いた詩形からなっている。ヴォルフラムはリズムと押韻を様々に変化させているので、聴衆を飽きさせなかったであろう。一方、ヴォルフラムは新しい技法を開発している。それは、30行が意味的にまとまりのある詩節(Strophe)をなしていることである。この30行=1詩節の区分法は、『パルチヴァール』第5巻以来採用され、『ヴィレハルム』では全面的に行われている(第2巻末のStrophe 57が唯一の例外で、30行に2行足りない)。この技法が新聞連載小説のような、「まとまりのある部分」と「部分の連続」という部分対全体の程よい調和関係をもたらしている。

5. 異教徒観と寛容、複眼的視点、「語り手」 (1) 異教徒観と寛容 『ヴィレハルム』の内容で特記すべきことは、異教徒観と寛容の精神である。先行する『パルチヴァール』において示された、フェイレフィースら異教徒の描写における、信仰の違い以外に、キリスト教徒と差をつけずに叙述する姿勢は、対異教徒戦を扱う『ヴィレハルム』においても引き継がれる。具体的には、異教徒の戦士も、キリスト教徒と同じように、「勇敢」(manheit, ellen)、「誠実」(staete, triuwe)、「寛容」(güete)、「清廉潔白」(kiusche)などの美徳の持ち主と称揚され、信仰(キリスト教徒は三位一体の神/異教徒は神々への崇敬)と婦人への愛のために戦うとされている。例えば、ヴィヴィアン/ヴィーヴィーアンツに致命傷を負わせる異教徒の王は、原典の『アリスカン』では、「この世にこれほど卑劣な異教徒はいなかった」と蔑視されるのに対し、『ヴィレハルム』では、「その高い名声は/輝かしくも 汚名から守られていた。/女性奉仕にも意を用いていた」と賞賛の言葉を与えられている。

そして、異教徒の戦士も戦死すると、語り手にもキリスト教徒の婦人からもその死を惜しまれる。しかし、さらに鮮明な形で作者の異教徒観が示されている個所は、第6巻のギーブルクのスピーチと、それに呼応する第9巻の、ギーブルクの夫で物語の主人公ヴィレハルムの行動である。 第6巻では、異教徒との2度目の戦闘を前にしての会議の最後で、ギーブルクが諸侯や夫の一族に向かって弁じる。戦闘の生じた責任は自分にあると認め、諸侯に最初の戦闘で戦死したヴィーヴィーアンツの死の報復を、彼女自身の一族=異教徒に対して果たすように要請する。しかし、異教徒が敗北した際には、「浄福が全うするような振る舞いをしてください。/愚かな女の申すことですが お耳をかしてください。/神様の手づからの被造物に寛大な態度をとってください」と、異教徒にも敬意をもって接するようにと頼んでいる。 ギーブルクの考えでは、キリスト教徒も異教徒もすべて神の「手づからの被造物」である。「神の造られた最初の人間は異教徒」であり、旧約時代の預言者も方舟のノアも、異教徒ながら救われた。幼子イエスに贈り物を捧げた、東方の三博士も、「異教徒に間違いありませんが/永劫の罰を下されてはいません」。そればかりか、人類創造以来、「母親が洗礼を受けていても 生まれた子は/(洗礼前は)疑いなく異教徒なのです」。そして神は、「ご自分の殺害者を赦された」ほどの慈悲の持ち主である。それゆえ、「神様がかの地で皆様に 勝利を授けられたあかつきには/戦場において 異教徒に情けある態度をとってください」と訴えたのである。

戦闘に勝利した後、ヴィレハルムが異教徒相手にとった措置は、ギーブルクの頼みに応じたものである。彼は、捕虜となった敵のマトリブレイス王を自由の身にし、「亡き王侯をキリスト教徒の地から連れ帰り/その宗旨に則り 懇ろに埋葬」するように依頼する。そして、敵の総大将テラメールに対して、その「好意と/厚誼を得るため あえて奉仕を願い出ましょう」と友好的な態度を示している。ヴォルフラムの原典となった『アリスカン』を含むギヨームの武勲詩群、また武勲詩の最高傑作『ロランの歌』とそのドイツ語への翻案であるコンラート師『ローラントの歌』等において常識として共有されている、異教徒=悪魔の仲間、地獄落ちが必然の世界観と際立った対照をなしている。もっとも、武勲詩においても、キリスト教徒の側に、異教徒に対する敬意が見られる個所が例外的にあるとの指摘がなされている。すなわち、12世紀末グランドール・ド・ドゥエ(Graindor de Douai)によって書き直された『イェルサレムの歌』(Chanson de Jérusalem)は、第一次十字軍がアンティオキア奪取後、聖地を占領するまでの苦闘を描いた作品であるが、ゴドフロワ・ド・ブイヨンを中心とするフランク軍と対峙するイスラム軍を率いたのは、イェルサレム王子コルニュマランであった。王子は「ヨーロッパ君主たちの連合軍と堂々と渡り合い、敵ながらあっぱれと感嘆させるにいたるイスラム側の英雄である」。ゴドフロワの弟ボードワンはついにこの強敵を倒した際、王子の遺体から取り出された大きな心臓に驚き、「もしも彼がキリスト教徒だったなら、これほど高貴な者はいなかった」と嘆き、この「騎士」を貴重な布で包み、「敬意をこめて」埋葬させたと。なお、第1回十字軍の年代記においても、異教徒であるトルコ人の「勇気、武勇、力」が、かれらがキリスト教を信じるならば、「かれらよりも強く、勇敢で、戦いに長けた者たちを見いだすことはできないであろう」と高く評価されている。もっとも、同じ年代記には、キリスト教徒側の兵士は、戦死し埋葬されたトルコ兵の「墓を掘り起こし、破壊し、死体を引き出し、その後に死体のすべてを濠の中に投げ入れ、正確な数の把握のために切った首を天幕へ運んだ」とする、異教徒に対する敬意の一かけらも見いだせない記述もある。

(2)複眼的視点 ヴォルフラムはこの作品でキリスト教徒と異教徒の間の戦いを一方の視点ではなく、両方の視点から重層的に描写している。キリスト教界において、聖界の長がローマ教皇であり、俗界の長は、「ローマの太守」たるローマ皇帝/王である。『ヴィレハルム』においては、その図式が異教界に投影され、異教界の聖界の長は、バグダッドのカリフ(ヴォルフラムでは、バルダクのバールク、Baldacのbâruc)、その俗界の長は、「バグダッドの太守」たるアドミラート(admirât諸王の上の大王)である。 キリスト教界と異教界の両世界を対比させる視点は、原典にはないヴォルフラム独自の視点の取り方である。ヴィレハルムはこうして、2度目の戦闘では、『ローラントの歌』で異教徒の総大将を打ち破ったカール大帝の実質的後継者として、異教徒の俗界における最高権力者と戦う役目を担っている。

(3)「語り手」(Der Erzähler) すでに『パルチヴァール』において重要な役割を果たした「語り手」は、『ヴィレハルム』でも健在である。「語り手」は、プロローグで、あの『パルチヴァール』を語ったヴォルフラムであると、名乗り、その作品に毀誉褒貶のあったことを伝えている。その際、「原典の教えるままに語った」と、弁明のニュアンスを含む物語作者としての姿勢を明らかにしている。ところが、今度の作品執筆にあたっては、一歩進んで自分の「知恵」(sin)に拠る知識能力(kunst)を駆使しているとの認識を示す。「御力{みちから}を認識するものは私の「知恵」です/書物に書いてあることからは/何ひとつ学んでいません/「知恵」に頼るほか 教えられたことがありません/私の知識能力は「知恵」が与えてくれました」

そのような自信から『語り手』は原典そのものにさえ記述の間違いがあると非難している。拠って立つフランス語による原典を批判さえする「語り手」ではあるが、そのフランス語力を謙遜する場合もある。「宿営は「ロイシエルン」と言う。それくらいはフランス語が分かる。/無粋なシャンパーネ人だって 私がどれほどフランス語を喋れるにしろ/私よりは巧い。それに この物語を翻訳してあげている皆様に/どんなに迷惑をかけているかは ご覧のとおりだ。/なにしろ 私のドイツ語ときたら ところどころ ひん曲がっていて」 とフランス語の能力と作品の分かりづらさについて謙遜のポーズをとっている。

「語り手」はまた次のように、事件に直接かかわる感想をもらす。オルレンスの代官は、ヴィレハルムから関税を徴収しようとして殺されたが、「代官の受理した税は たとえ すぐお隣の戸口で頂けようと/どんなお方のためであれ 私はまっぴらご免だ。/代官は首の長さぶん 短くされたのだ」。 「語り手」は、この不運な場面を強調すると同時に、聴衆も自分の気持ちに同調させているのだろう。

物語の主人公夫妻が困苦の後の抱擁にいたる場面では、「語り手」も自分も同じ振る舞いをしたであろうと、後朝の歌の名手たる作者そのままの「腹の座った」立ち位置にいる。「語り手」のコメントによって聴衆は、夫婦の性愛の称揚に導かれる。「彼女は彼をやさしく抱擁した。/いまは 戯れの時だろうか。/何と言ったらいいだろう。/両人が 自分の自由になるものに/手を伸ばそうとすれば/彼女はぐずぐずと拒むことなどなかった。/彼は彼女のもの 彼女は彼のものだった。/私とて 自分のものに手をふれるのは 当然だ。/二人は愛しみをこめて抱きあったまま パルマート絹の褥に倒れ込んだ。/女王は ちっちゃな鵞鳥の雛を捕まえた感じで/柔らかく しなやかだった」

「語り手」はさらに、この作品の最重要テーマに踏み込んで発言している。異教徒を描写して、「家畜のように斃れた」とあらわし、キリスト教徒は異教徒を「犬のように戦場から打ち払った」と異教徒を「犬畜生」に譬える人間蔑視の『ローラントの歌』に、それとなく反撃するかのように、「キリスト教を知ることのなかった者を/家畜のように殺したのは 罪であろうか。/大罪だと私は思う。/七十二の民はことごとく神の御手の創られたものである」 と、ギーブルクの「寛容」の訴えに呼応する立場を表明している。作中人物の言行だけでなく「語り手」の聴衆への疑問と答えは、聴衆を当時の常識とは異なる思想への共感とまでいわなくとも、考慮へと誘う効果があったのではないだろうか。物語と聴衆をつなぐ「語り手」という役の活躍はヴォルフラム特有である。 図式的には 作者―(「語り手」+物語)―聴衆 となろうか。

『ヴィレハルム』の十字軍文学としての特徴を重層的に捉えるためには、1.中世ドイツの他の十字軍文学作品、2.それらの原拠となったフランスの作品、3.実際の十字軍の記録、4.アラブ側から見た十字軍像、5.十字軍を素材とする後代の文学作品との比較などが必要だろう。

ミンネリート[編集]

ヴォルフラムはさらに9編のミンネリートを書いた。そのうちの5編の「後朝(きぬぎぬ)の歌」は、このジャンルのミンネザングの最高峰をなすものである。後朝の歌(Tagelied)と求愛の歌(Werbelied) に分けた上で、Moser/Tervooren: Des Minnesangs Frühling,Stuttgart 1977の番号順に9編の歌の最初の1ないし2行だけを示し、代表的な歌についてはその概要を記す。

I.後朝の歌(Tagelied)Lied 1: Den morgenblic bî wahtӕrs sange erkôs(夜警の歌声で明けそめる朝の光に気付いた)。Lied 2: Sîne klâwen/durch die wolken sint geslagen(そのかぎ爪で/雲を突き破り)。Lied 4: Der helden minne ir klage(人目をしのぶ愛の嘆きを)。Lied 5: Von der zinnen/wil ich gên, in tagewîse(夜明けを告げて/胸壁を下りるとしよう)。Lied 7: Es ist nu tac(夜明けだ)。

第1歌:禁断の愛の一夜を共にした騎士と貴婦人が、暁の到来を告げる夜警の歌を契機に、別離を嘆きつつ激しく燃えあがる様をドラマティックに歌い上げた作品。

第2歌:騎士を城主夫人の許に案内した夜警だが、明け方になり、夫人に、愛する騎士を立ち去らせるように強く薦める。夫人はそれに反駁するものの男を行かせなくてはならない。別れる前に二人は激しく求めあう。男女に別れをもたらす暁を「そのかぎ爪で雲を突き破り、ぐんぐん登ってゆく」怪獣に譬える、その大胆な比喩の放つ切迫感、それに夜警と奥方とのせめぎ合いの応答が魅力的な作品。

第4歌:詩人は最初に、「人目をしのぶ愛の嘆きを」歌ってきた夜警に、黙れ! と命じ、そのあと、「天下晴れての女房殿」との交歓ならば、身の危険への不安も別離の悲しみもないと歌い、後朝の歌に訣別を告げる歌。

II. 求愛の歌(Werbelied)Lied 3: Ein wîp mac wol erlouben mir(奥方はお許しくださるでしょう)。Lied 6: Ursprinc bluomen, loup ûzdringen (花が綻び、木々が芽ぶき)。Lied 8: Guot wîp, ich bitte dich minne (奥方さま、あなたの愛をお願いします)。Lied 9: Maniger klaget(多くの人は過ぎし美しい季節と)

第3歌:この歌だけ読むと、内容も形式も平板な凡作にしか思えないが、用語を仔細に検討すると、同時代の有名な歌に対するパロディと捉えることができる。当時人気絶頂の二人の叙情詩人ラインマル(MF 159,1)とヴァルター(L 111,22)は、崇拝する貴婦人をめぐって歌で競い合ったが、ヴォルフラムは後者の作品を茶化しつつ両者をやり込めている。


文体[編集]

ヴォルフラムの文体は ハルトマン・フォン・アウエゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの文体とは全く異質である。ヴォルフラムは「聞き手の好奇心に逆らい、謎のような譬えで愚弄し、注意力を試したり、異質なもの、相互に関係のないものを並列させて文体の統一を破り表象をかき乱す。文法を無視した語法、常識を破った比喩とグロテスクな対立、それにユーモアを織りまぜ、エロチックな描写をさしはさむ」。また、聞き手に対する呼びかけ、「語り手」の意見の開陳と自身の戯画化なども、作者の強い個性を感じさせる。

影響[編集]

ヴォルフラムは中世ドイツの詩人では影響力が最も大きかった。

『パルチヴァール』は、1470年以降の書籍印刷の時代になっても多くの版を数えた唯一の韻文文学である。そしてこの題材は、リヒャルト・ワーグナーのオペラ『パルジファル』(: Parsifal)の台本執筆の原案となった。また、ヴォルフラム自身もワーグナーのオペラ『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』に歌手として登場している。ヴォルフラムの『パルチヴァール』が現代において教養書と読まれる一例をあげると、ミュンヘン・シュタイナー学校(自由ヴァルドルフ学校)の高学年でのエポック授業(数週間集中方式)で『パルチヴァール』がテーマになり、自我の形成のための優れた教材になっていることが、同校を卒業した子安 文(こやす ふみ)の『私のミュンヘン日記』(中公新書1986)109頁以下に記述されている。

『ティトゥレル』の断片は、中世後期に多大な影響を及ぼした。この断片を核に13世紀アルブレヒトなる人物が長大な作品を著し、多数の写本が製作されたからだ。かつてその人物はアルブレヒト・フォン・シャルフェンベルクドイツ語版と同定されたが、今日多くの研究者はこの見解に疑問を抱いている。しかし、アルブレヒトによる『新ティトゥレル』(ドイツ語: Der Jüngere Titurel)は長い間ヴォルフラム自身の作品と見なされ、最も重要な騎士物語詩人としての彼の名誉をいっそう高めるのに寄与したことは疑いない。なお、「ティトゥレル詩形」('Titurel'-Ton)は14世紀のHeinrich von Mügelnという詩人も一編のラテン語の歌のために使っている。


19世紀から20世紀の文学研究者達は、ヴォルフラムを集中的に扱い、一時期、彼を民族主義的に持ち上げた。

作品[編集]

  • Wolframs von Eschenbach Parzival und Titurel, herausgegeben von Karl Bartsch, (=Deutsche Klassiker des Mittelalters, Band 19), Leipzig 1935 (中高ドイツ語テキストのみ)
  • Karl Lachmann: Wolfram von Eschenbach. 6. Ausgabe. Walter de Gruyter & Co. Berlin/Leipzig, 1926 (原文、全作品)
  • Wolfram von Eschenbach: Parzival, Mittelhochdeutsch und Neuhochdeutsch, nach der Ausgabe von Karl Lachmann, übersetzt von Wolfgang Spiewok, Band 1 und 2, (レクラム文庫 3681, 3682), Stuttgart 1981
  • Wolfram von Eschenbach: Parzival, übersetzt von Dieter Kühn, 1994 (優れた現代ドイツ語訳)
  • Wolfram von Eschenbach: Willehalm. Nach der gesamten Überlieferung kritisch herausgegeben von Werner Schröder. Walter de Gruyter Verlag, Berlin/New York , 1978 (原文、外来語・借用語一覧、人名・地名表)
  • Wolfram von Eschenbach: Willehalm. Text der Ausgabe von Werner Schröder. Völlig neubearbeitete Übersetzung, Vorwort und Register von Dieter Kartschoke, Walter de Gruyter Verlag, Berlin/New York , 1989 (原文、現代語訳、人名・地名表)
  • Wolfram von Eschenbach: Titurel. Reinhold Wiedemann (Gesang) und Osvaldo Parisi (Laute), KOCH International GmbH, 1995 (見事に歌として復元された『ティトゥレル』のCD)
  • puella bella - ヴォルフラムのミンネリート2編:
    • Den morgenblic bî wahtaeres sange erkôs (L 3,1)
    • Guot wîp, ich bitte dich minne (L 9,1)

日本語訳[編集]

  • 加倉井粛之[2]、伊東泰治[3](いとうやすはる)、馬場勝弥[4]、小栗友一[5](おぐりともかず) 共訳 『パルチヴァール』 1974年 郁文堂 ISBN 978-4261071184。最初の日本語散文訳。1974年 第11回 日本翻訳文化賞受賞。
  • 須澤通著『ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ パルツィヴァール : 抜粋・訳注』1987年 大学書林 ISBN 978-4475014717
  • 高津春久編訳『ミンネザング(ドイツ中世叙情詩集)』1978年 郁文堂 0097-71730-0312. 13-23頁
  • ヴェルナー・ホフマン・石井道子・岸谷敞子・柳井尚子訳著『ミンネザング(ドイツ中世恋愛抒情詩撰集)』2001年 大学書林 ISBN 4-475-00919-7. C 0084. 142-155頁

注釈付きの版[編集]

  • Wolfram von Eschenbach: Parzival, Nach der Ausgabe Karl Lachmanns revidiert und kommentiert von Eberhard Nellmann. Übertragen von Dieter Kühn. Deutscher Klassiker Verlag, Frankfurt am Main, 1994, Bibliothek deutscher Klassiker, Bibliothek des Mittelalters (原文、現代語訳、詳細な注釈付き、2巻本)
  • Wolfram von Eschenbach: Willehalm, Nach der Handschrift 857 der Stiftsbibliothek St. Gallen, herausgegeben von Joachim Heinzle, Deutscher Klassiker Verlag, Frankfurt am Main, 1991, Bibliothek deutscher Klassiker, Bibliothek des Mittelalters (原文、現代語訳、詳細な注釈)
  • Wolfram von Eschenbach: Titurel, Mit der gesamten Parallelüberlieferung des „Jüngeren Titurel“. Kritisch herausgegeben, übersetzt und kommentiert von Joachim Bumke und Joachim Heinzle. Max Niemeyer Verlag, Tübingen, 2006
  • Wolfram von Eschenbach: Titurel. Herausgegeben, übersetzt und mit einem Stellenkommentar sowie einer Einführung versehen von Helmut Brackert und Stephan Fuchs-Jolie. Walter de Gruyter Verlag, Berlin/New York , 2003
  • Peter Wapnewski: Die Lyrik Wolframs von Eschenbach. Edition Kommentar Interpretation. Beck'sche Verlagsbuchhandlung, München 1972
  • Wolfram von Eschenbach: Parzival und Titurel. Herausgegeben und erklärt von Ernst Martin. 2. Teil: Kommentar. Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt, 1976 (詳細な注釈)

参考文献[編集]

網羅的解説、入門書および選集[編集]


  • Joachim Heinzle (Hrsg.): Wolfram von Eschenbach. Ein Handbuch. 2 Bände, De Gruyter, Berlin/Boston 2011 (充実したハンドブック。第1巻834頁、第2巻611頁。第2巻には368頁に及ぶ書誌と60葉の図版)
  • Brunner Horst: Wolfram von Eschenbach; (Bd. 2 in der Reihe Auf den Spuren der Dichter und Denker durch Franken), Gunzenhausen 2004
  • Joachim Bumke: Wolfram von Eschenbach; (=Sammlung Metzler 36); 8. vollständig neu bearb. Auflage, Stuttgart 2004
  • Joachim Bumke: Die Wolfram von Eschenbach Forschung seit 1945. Bericht und Bibliographie. Wilhelm Fink Verlag, München, 1970 (水準の高い研究史)
  • Karl Bertau: Deutsche Literatur im europäischen Mittelalter, Band 2, München 1973
  • Karl Bertau: Wolfram von Eschenbach, München 1983
  • Karl Bertau: Über Literaturgeschichte, Höfische Epik um 1200, München 1983, Seite 42-116
  • Walter Haug: Literaturtheorie im deutschen Mittelalter, Darmstadt 1985, Seite 151-190
  • Christian Kiening: Wolfram von Eschenbach, Artikel in: Wolf-Hartmut Friedrich und Walter Killy (Hgg.), Literaturgeschichte, Band 12, Seite 413-419
  • Henry Kratz: Wolfram von Eschenbach's Parzival. An Attempt at a total Evaluation, Bern 1973
  • Wolfgang Mohr: Gesammelte Aufsätze. Teil 1: Wolfram von Eschenbach, (= Göppinger Arbeiten zur Germanistik; Band 275), Göppingen 1979
  • Wolfram-Studien, Veröffentlichungen der Wolfram von Eschenbach-Gesellschaft, Berlin 1970-2006
  • Hermann Reichert: Wolfram von Eschenbach, Parzival, für Anfänger, Wien 2002 (Edition Praesens), 2. vollständig neu bearb. Auflage, 2007
  • Kurt Ruh: Höfische Epik des deutschen Mittelalters, Teil 2, München 1980
  • Heinz Rupp (Hg.): Wolfram von Eschenbach, Darmstadt 1966
  • W. Schröder: Wolfram von Eschenbach. Spuren und Werke. Wirkungen, 2 Bände, Stuttgart 1989f.
  • Michael Dallapiazza: Wolfram von Eschenbach: Parzival., (=Klassiker-Lektüren; Bd. 12), Erich Schmidt Verlag, Berlin 2009 (コンパクトな『パルチヴァール』への入門書で、巻末に『ティトゥレル』についての解説もつく)
  • John Greenfield /Lydia Miklautsch: Der „Willehalm“ Wolframs von Eschenbach. Eine Einführung, Walter de Gruyter, Berlin/New York 1998 (『ヴィレハルム』への優れた入門書)

伝記的研究[編集]

  • Albert Schreiber: Neue Bausteine zu einer Biographie Wolframs von Eschenbach. Frankfurt a.M. 1922
  • Uwe Meves: Die Herren von Durne. In: Friedrich Oswald und Wilhelm Störmer (Hg.): Die Abtei Amorbach im Odenwald. Sigmaringen 1984, S. 113-143
  • Hugo Steger: Abenberc und Wildenberc. In: Zeitschrift für deutsche Philologie. Band 105, 1986, S. 1-41
  • Horst Brunner: Wolfram von Eschenbach. Auf den Spuren der Dichter und Denker durch Franken. Gunzenhausen 2004.
  • Herbert Kolb: Munsalvaesche: Studien zum Kyotproblem. Eidosverlag, München 1963
  • Werner Greub: Wolfram von Eschenbach und die Wirklichkeit des Grals. Philosophisch-anthroposophischer Verlag, Dornach 1974

受容史[編集]

  • Erich Kleinschmidt: Literarische Rezeption und Geschichte. Zur Wirkungsgeschichte von Wolframs ›Willehalm‹. In: Deutsche Vierteljahrsschrift. Band 48, 1974, S. 585-649
  • Hedda Ragotzky: Studien zur Wolfram-Rezeption. Stuttgart u.a. 1971
  • Bernd Schirok: Parzival-Rezeption im Mittelalter. Darmstadt 1982

関連項目[編集]

注・出典[編集]

1. ^ 『パルチヴァール』と『パルツィヴァール』、両方の表記が散見されるが、前者の方が国会図書館サーチ検索数が多いので統一する。 2. ^ かくらいしゅくし、ドイツ文学者 1907-91年 茨城県生。 3. ^ いとうやすはる、ドイツ文学者 1922-2013年。 4. ^ ばばかつや、ドイツ文学者、名古屋大学名誉教授。1928年生。 5. ^ おぐりともかず、ドイツ文学者、名古屋大学名誉教授。1942年生。

外部リンク[編集]

  1. ^ 『パルチヴァール』と『パルツィヴァール』、両方の表記が散見されるが、前者の方が国会図書館サーチ検索数が多いので統一する。
  2. ^ かくらいしゅくし、ドイツ文学者 1907-91年 茨城県生。
  3. ^ いとうたいじ、ドイツ文学者 1922‐2013年。
  4. ^ ばばかつや、ドイツ語学者、名古屋大学名誉教授。1928年生。
  5. ^ おぐりゆういち、ドイツ文学者、名古屋大学名誉教授。1942年生。