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ロバロー (潜水艦)

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艦歴
発注
起工 1942年10月24日
進水 1943年5月9日
就役 1943年9月28日
退役
除籍 1944年9月16日
その後 1944年7月26日に戦没
性能諸元
排水量 1,525トン(水上)
2,424トン(水中)
全長 307ft (93.6m)(水線長)
311ft 9in (95m)(全長)
全幅 27.3 ft (8.3 m)
吃水 15.3 ft (4.6 m)
機関 ゼネラル・モーターズ278A16気筒ディーゼルエンジン 4基
ゼネラル・エレクトリック2,740馬力発電機2基
最大速 水上:20.25 ノット (37 km/h)
水中:8.75 ノット (16 km/h)
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(19 km/h 時に 20,000 km)
試験深度 300ft (90m)
巡航期間 潜航2ノット (3.7 km/h) 時48時間、哨戒活動75日間
乗員 士官6名、兵員54名
兵装 3インチ砲1基、20mm砲2門
21インチ魚雷発射管10基

ロバロー (USS Robalo, SS-273) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の一隻。艦名はスズキ亜目に属する食用魚ロバロー[1]に因む。

艦歴

ロバローは1942年10月24日にウィスコンシン州マニトワックマニトワック造船で起工する。1943年5月9日にE・S・ルート夫人によって進水し、艦長ステファン・H・アンブルスター(アナポリス1928年組)の指揮下1943年9月28日に就役する。ロバローはミシシッピ川乾ドックに乗せられ曳航されたのち、真珠湾に回航され太平洋戦線での任務に就いた。

哨戒

1944年1月8日[2]、ロバローは最初の哨戒でルソン島西方に向かった。1月末から2月にかけては、レガスピサマール島スリガオ海峡方面などで行動し、セブからサンベルナルジノ海峡を経由する交通路を哨戒[3]した他、ボアク島近海でも行動した[4]。この哨戒では2月13日に一度だけ大型貨物船を発見し、魚雷を4本発射。1本が命中したが、ロバローは手負いの貨物船に更なる攻撃を行わなかった[5]。3月6日、ロバローは57日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した[6]

帰投後、この哨戒でのアンブルスターの怠慢な姿勢に批判が向けられた。大型貨物船を発見、攻撃した時の他、ハッド (USS Haddo, SS-255) が探知した強力な日本艦隊に対して、他の潜水艦[7]と違って立ち向かわなかったことなど、アンブルスターの攻撃があまりにも消極的で闘志がないと判断され、この方面の潜水部隊司令官ラルフ・クリスティーは太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッドに対して、「アンブルスターは艦長としてはふさわしくない。アンブルスターに合う職があるなら、そこに入れてくれ」と要請[8]。その結果、3月29日付けでアンブルスターは艦長の任を解かれ[9]ミッドウェー島の潜水艦基地のスタッフに左遷された[8]。後任の艦長にはマニング・キンメル少佐(アナポリス1935年組。元合衆国艦隊太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル提督の息子)が就任した[9]

4月10日[10]、ロバローは2回目の哨戒で南シナ海インドシナ半島方面に向かった。4月24日夕方、ロバローはサイゴン沖でヒ58船団を発見した。ヒ58船団には空母海鷹がおり、海鷹の九七式艦攻が浮上しているロバローを発見していた。ロバローは潜航を開始したが、対潜爆弾が左舷部で炸裂。また乗組員がパニックに陥って機器の操作を誤ったため、過剰な浸水が発生してしまった。ロバローは深度105メートルにまで沈下したが辛うじて危機を脱し、修理の上哨戒を期限まで続けた[11]。5月16日、ロバローは駆逐艦に護衛された7,500トンのタンカーを2度にわたって攻撃し、目標を撃沈したと判断したが、実際は不成功に終わった[12]。5月30日、ロバローは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した[13]

6月22日、ロバローは3回目の哨戒で南シナ海のナツナ諸島近海に向かった。ロバローはマカッサル海峡バラバク海峡を通過し、予定では7月6日頃に担当海域に到着、8月2日まで留まることになっていた。7月2日、ロバローは浮上航行中にタラカン島に入港しつつあった戦艦扶桑と護衛の3隻の駆逐艦を発見し司令部に打電した。扶桑以下は3回にわたる渾作戦に参加した後に後退し、に向かう途中に燃料を搭載のために入港したものであった。ロバローは報告はしたものの、結局攻撃の機会は逸したと考えられる。また、扶桑を護衛していた駆逐艦は爆雷を威嚇のために投下しただけだった。。この時、ロバローはボルネオ島の真東に位置していた。その後ロバローからの報告はなく、哨戒から帰投することはなかった。ロバローは喪失したと推定された。

喪失

8月2日、フィリピンパラワン島プエルト・プリンセサにある捕虜収容所の独房の窓から一片の紙切れが落とされた。それは近くで仕事をしていたアメリカ兵に拾われ、更に収容所に収容されていた通信士官のH・D・ホウに手渡された。8月4日にホウはゲリラのリーダー、ドクター・メンドーサの妻であるトリニダードと連絡を取った。彼らからの情報によれば、ロバローは7月26日、パラワン島の西部海岸から2マイル沖合で後部搭載砲付近の爆発後に沈没したとされる。おそらく機雷に接触したものと思われる。バラバク海峡には1943年3月に機雷が敷設されており、ロバローが海峡を通過する約4ヶ月前の1944年3月には、第三南遣艦隊敷設艦津軽が機雷原を強化していた[14]。ロバローの生存者は士官1名を含む4名のみが海岸に泳ぎ着き、ジャングルを通ってプエルト・プリンセサ捕虜収容所の北西にたどり着いた。日本の憲兵隊は彼らをとらえ投獄した。8月15日に彼らは日本の駆逐艦[15]によって移送され、その後は消息不明となった。ロバローは1944年9月16日に除籍された。

ロバローの喪失が宣告された後、マニングの弟でバラオ (USS Balao, SS-285) に乗艦していたトーマス・キンメルは、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キングの直々の命令により、戦死の危険性が極めて少ない陸上勤務に配置換えとなった[16]。トーマスは海上勤務への復帰を何度も願い出たが、そのつど却下された[16]。その後、トーマスはバーゴール (USS Bergall, SS-320) の艦長に就任したが、程なく終戦となった[16]

ロバローは第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章を受章した。

脚注

  1. ^ en:Common snook
  2. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.5
  3. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p5,6
  4. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.8
  5. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.15,16
  6. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.11
  7. ^ フラッシャー (USS Flasher, SS-249)、ホー (USS Hoe, SS-258)、ヘイク (USS Hake, SS-256) 、レッドフィン (USS Redfin, SS-272)
  8. ^ a b Blair,582ページ
  9. ^ a b 「SS-273, USS ROBALO」p.25
  10. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.26
  11. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.30,31 、木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』251、252ページ
  12. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.51,52,53,54
  13. ^ 「SS-273, USS ROBALO」p.44
  14. ^ 木俣『敵潜水艦攻撃』116ページ
  15. ^ 英文版では、この駆逐艦は朝風夕凪と推定している
  16. ^ a b c Blair,688ページ、谷光太郎「コラム・潜水艦艦長列伝」530ページ

参考文献

  • SS-273, USS ROBALO(issuuベータ版)
  • Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
  • Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年、ISBN 4-257-17218-5
  • 谷光太郎「コラム・潜水艦艦長列伝」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820

関連項目

外部リンク