ラングドン・ウォーナー

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鎌倉駅西口のウォーナー顕彰碑(2009年撮影)

ラングドン・ウォーナーLangdon Warner1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカ美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。

略歴[編集]

マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された[1]新納忠之介に教えを受けたのもこの頃。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した[2]。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。

ウォーナーリスト[編集]

太平洋戦争時、日本の多くの都市地域空爆があったが、京都爆撃されなかった。この事実の理由として、ウォーナーが、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナーリスト)を作成して米政府に進言したから、という説がある。リストは、戦前にウォーナーが翻訳作業を手伝った日本古代美術展カタログを下敷きに作成された[2]。ウォーナーと親交があった美術研究家の矢代幸雄が、1945年11月の朝日新聞にウォーナーリストが文化財を救ったという談話を発表したことから広まり、以来広く一般に知れ渡った。ウォーナーの知己である牧野伸顕の『回顧録』、近藤啓太郎の『日本画誕生』や岡倉覚三村岡博訳の『茶の本』の解説(福原麟太郎)などにも、その旨の記述がある。また、下村宏も自著で、ハロルド・ヘンダーソン英語版の話によると、と前置きしてこの説を述べている[3]

米国の軍事資料をもとにした研究により、1945年7月のポツダム会談のさなかに至るまで、米国陸軍の航空部隊は京都を原爆投下の最有力都市のひとつに温存しており、原爆の物理的効果を測定するため、京都を通常爆撃の対象から外していたことが判明しているが、矢代らによるウォーナー賛美により、1950年には、通常爆撃目標からの除外が原爆の投下目標のためであったにも関わらず「京都は日本文化の象徴であり、爆撃の目標から特に除外された世界平和の生きた記念像である」という認識に基づく「京都国際文化観光都市建設法」が公布され、ウォーナーが亡くなった1955年には勲二等瑞宝章が授与され、高山義三京都市長もハーバード大学に感謝状を贈った[4]

京都を救ったのはウォーナーであるという話に基づいて、1958年6月、法隆寺西円堂の近くに、供養塔、顕彰碑 ウォーナー塔(Warner Monument)が建立された。また、「ウォーナーリストへの掲載=貴重である証し」といった解釈は各方面でなされ、1961年には鈴木大拙が「ウォーナー博士が爆撃から除外されるべきものとして米国大統領に進言した文化財の中でも、特に貴重なものとして、大谷大学の図書館が指摘されている」と語り、同大学の新図書館建設のための募金活動につながった[5]。鎌倉にも同趣旨に基づくプレートがある。さらに、ウォーナーへの感謝の胸像が作られ、米国の大学へ寄贈されたこともある[6]。なお平川祐弘は、この胸像が人目につかない地下室に置かれたことを紹介している[7]

ウォーナー伝説に対する反論[編集]

一方、この説を否定する説が後年唱えられた。1975年に同志社大学オーティス・ケーリ文芸春秋誌において「京都に原爆を落とすな-ウォーナー博士はほんとうに京都を救った恩人なのか」 を発表し、20年に渡る調査から、京都の原爆投下が避けられたのは陸軍長官ヘンリー・スティムソンによるものであるとした。1980年代には、立命館大学鈴木良もスティムソン日記に「京都に原爆を落とすのは対ソ戦略から政治的効果にマイナスになるから(投下しない)」とあることを指摘し[8]、ウォーナーと直接交流のあった五浦研究所初代所長の稲村退三もウォーナー自身が「リストは作成したが、爆撃を中止させるほどの権限はなかった」と述べていたことを記している[2]

1994年7月、歴史研究者の吉田守男は、学会誌『日本史研究』に『ウォーナー伝説批判』という論文を発表し、(同リストは)戦争中の文化財保護を目的とするよりは、休戦時に、「枢軸国の博物館やその指導者の私的コレクションのなかから被侵略国に引き渡されるべき損害に対する返済用の一等価値の美術品・歴史的公文書のリスト」であることを明らかにした[4]。これは後に『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)、『京都に原爆を投下せよ』角川書店刊の改題)にまとめられた。吉田の研究によれば、ウォーナーの文化財保護の話はGHQ民間情報教育局の情報工作による宣伝で、事実と異なるとする。吉田によれば、ウォーナーリストは、単なる文化財保護の目的ではなく、占領地域での文化財を保護し、(ナチスなどが)略奪した文化財を返還させ、弁償させるために作成したリストの日本版であった。リストに記載された文化財で、名古屋城、岡山城など空襲によって焼失したものは多数存在する。また、実際には、京都でも東山区馬町(1945年1月16日)、右京区太秦(4月16日)、右京区春日(3月19日)、上京区西陣6月26日)、そして京都御所5月11日)などと計20回以上の空襲に遭っており、原爆の投下候補地にもなっていた。京都が結果的に大規模な空襲を免れたのは、原爆の投下目標として温存されたためである。奈良も、大規模な空襲こそなかったが、小規模な空襲や機銃掃射は多々あった。

2007年には毎日新聞が、オーティス・ケーリ五百旗頭真の調査により、京都を原爆投下候補地から外したのは実は陸軍長官ヘンリー・スティムソンであり、戦前、京都を訪れ、日本文化を愛していたスティムソンの配慮[9]。ケーリ・五百旗頭調査を2010年に紹介した比較文化史家で東京大学名誉教授の平川祐弘は、ウォーナーの他にも日本の文化財保護の立役者と言われている人物が複数いるがどれも根拠薄弱であると述べ、「外国人に感謝するのもいいが、するなら根拠のある感謝をしてもらいたい。」「ウォーナー伝説は日本では美談扱いだが、米国では日本人の感傷的な歪(ゆが)んだ外国認識の実例として研究対象にされた。」と痛烈に批判している[6]

なお、歴史家で鎌倉世界遺産登録推進協議会広報部会長の内海恒雄は、ウォーナーリストの解説に「(日本の文化財の)破壊は大損害であり、戦禍を免れたら世界の文明国の利益は計りしれない」と書き添えられていたことを指摘している[10]

ウォーナーリストに記載のある被災文化財[編集]

など

中国における文化財の略奪[編集]

中国では、敦煌壁画を剥がして持ち去るなど、文化財の略奪者と見る意見もある[誰によって?]

著書[編集]

  • 『万仏峡洞 - 9世紀仏教壁画の研究』〈Buddhist Wall Paintings - A Study of a Ninth-Century Grotto at Wan Fo Hsia〉1938年
  • 『遙かなる敦煌への道』〈The Long Old Road in China〉
    • 茂木雅博監訳/劉学新訳、同成社、2014年5月
  • 『推古彫刻』 寿岳文章訳、みすず書房、1958年初版
  • 『日本彫刻史』 宇佐見英治訳、みすず書房、1956年初版

論文[編集]

  • 藝術と生活 『美術及工藝』第2巻第1號 林翠訳、日本美術及工藝會、1947年3月

参考文献[編集]

  • Headquarters, Army Service Forces, Army Service Forces Manual, M354-17A, Civil Affairs Handbook, Japan, Section 17A:Cultural Institutions, May 1945, United States Government Printing Office, Washington, 1945.
  • 「京都・奈良無疵の裏」 『朝日新聞(東京版)』 1945年11月11日、2面。
  • Report of The American Commission for the Protection and Salvage of Artistic and Historic Monuments in War Areas, United States Government Printing Office, Washington, 1946.
  • Henry Lewis Stimson, "The Decision to Use the Atomic Bomb", Harper's Magazine, Vol.194, No.1161, pp.97-107, Harper & Brothers, New York, 1947.
  • (氏名不詳) 「文化財はいかにして救われたか」 『芸術新潮』 8巻12号、1957年、274-286頁。
  • 矢代幸雄 「ウォーナー・リストをめぐって-日本爆撃と文化財の救済」 『芸術新潮』 8巻12号、1957年、287-295頁。
  • 矢代幸雄 「ウォーナー・リストをめぐって-日本爆撃と文化財の救済」 『茨城大学五浦美術文化研究所報』 1号(ウォーナー像完成記念特集)、茨城大学五浦美術文化研究所、1971年、12-21頁。 (矢代(1957年)に一部加筆)
  • 稲村退三 「ウォーナー先生の功績と日本文化財リスト」 『茨城大学五浦美術文化研究所報』 1号(ウォーナー像完成記念特集)、茨城大学五浦美術文化研究所、1971年、22-37頁。
  • 石原道博 「『ウォーナー・リストの戦後』によせて」 『茨城大学五浦美術文化研究所報』 1号(ウォーナー像完成記念特集)、茨城大学五浦美術文化研究所、1971年、41-60頁。
  • 大道武男 「桜井のウォーナー報恩塔を訪ねて」 『茨城大学五浦美術文化研究所報』 1号(ウォーナー像完成記念特集)、茨城大学五浦美術文化研究所、1971年、61-66頁。
  • 「ウォーナー博士像完成記念特集」 『茨城大学五浦美術文化研究所報』 1号(ウォーナー像完成記念特集)、茨城大学五浦美術文化研究所、1971年、77-94頁。
  • オーテス・ケーリ 「京都に原爆を落とすな-ウォーナー博士はほんとうに京都を救った恩人なのか」 『文藝春秋』 53巻9号、1975年、146-158頁。
  • マーティン・J・シャーウィン(加藤幹雄訳) 『破滅への道程-原爆と第二次世界大戦』、TBSブリタニカ、1978年。 ISBN 978-4-484-00033-6
  • 吉田守男 「京都小空襲論」 『日本史研究』 251号、1983年、1-34頁。
  • 吉田守男 「原爆投下目標としての京都」 『医師たちのヒロシマ』、核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会、機関紙共同出版、1991年、267-282頁。 ISBN 978-4-87668-076-4
  • 吉田守男 「空襲と原爆投下に関する新事実」 『天皇制国家の統合と支配』、馬原鉄男・岩井忠熊、文理閣、1992年、337-358頁。 ISBN 978-4-89259-189-1
  • 吉田守男 「京都・奈良はなぜ空襲を免れたか-『ウォーナー伝説』の崩壊」 『世界』 582号、1993年、284-299頁。
  • 小林啓治・鈴木哲也 『かくされた空襲と原爆』(語り継ぐ戦争シリーズ3)、機関紙共同出版、1993年。 ISBN 978-4-87668-088-7
  • 吉田守男 「ウォーナー伝説批判-京都・奈良の空襲に関する恩人説の検討」 『日本史研究』 383号、1994年、30-58頁。
  • 吉田守男 『京都に原爆を投下せよ-ウォーナー伝説の真実』、角川書店、1995年。 ISBN 978-4-04-821049-2
  • 吉田守男 「京都の空襲と原爆投下問題」 『京都空襲』(語り伝える京都の戦争2)、久津間保治、かもがわ出版、1996年、244-253頁。 ISBN 978-4-87699-270-6
  • 吉田守男 『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』、朝日新聞社、2002年。 ISBN 978-4-02-261353-0 (吉田(1995年)の文庫化)
  • 五百旗頭真 「回避された京都への原爆-個人が歴史を変えた」 『毎日新聞(朝刊)』 2007年1月14日。
  • 平川祐弘 「日本人の安易な感謝癖と謝罪癖」 『産経新聞』 2010年9月27日。
  • 『資料集 原爆投下と京都の文化財 』立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミナール (編集) 文理閣 (1988/06)

脚注[編集]

  1. ^ モースの沖縄コレクションネットワーク 3.ランドン・ウォーナー―沖縄で収集(ピボディ・エセックス博物館) (PDF) アメリカ大使館「アメリカン・ビュー」2008年冬号
  2. ^ a b c ウォーナー博士の功績をめぐる異説について (PDF) 稲村退三、茨城大学五浦美術文化研究所報 第10号 1985年
  3. ^ 下村海南 『終戦秘史』 講談社学術文庫 700 ISBN 4061587005、283p
  4. ^ a b 都市の計画と京都の自己イメージの特徴 明治・大正・昭和の三断面を (PDF) 京都大学『人文』第53号、2006
  5. ^ 大谷大学図書館のこと (PDF) 大谷大学図書館・博物館報(第26号)2009年
  6. ^ a b 産経ニュース【正論】比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 2010.9.27 02:56(リンク切れ)
  7. ^ 平川祐弘 『日本の正論』 河出書房新社 ISBN 978-4309246673、66-67p
  8. ^ 最終講義「歴史を学ぶ楽しさ」(鈴木良) (PDF) 立命館産業社会論集(第36巻第1号)2000年6月
  9. ^ 毎日新聞2007年1月14日、五百旗頭 「個人が歴史を変えた」「回避された京都への原爆」に依るものだったという説を報道
  10. ^ 内海のインタビュー

関連項目[編集]

外部リンク[編集]