テッド・バンディ

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セオドア・ロバート・バンディ
Theodore Robert Bundy
個人情報
生誕 (1946-11-24) 1946年11月24日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国バーモント州バーリントン
死没 (1989-01-24) 1989年1月24日(42歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ
死因 電気椅子による処刑での電気ショック
有罪判決 殺人罪死体遺棄罪誘拐罪など
判決 死刑
殺人詳細
犠牲者数 30人以上
犯行期間 1974年1978年
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワシントン州
オレゴン州
ユタ州
アイダホ州
コロラド州
フロリダ州
逮捕日 1975年8月16日逮捕
1977年12月30日脱走
1978年2月15日再逮捕

セオドア・ロバート・バンディ(Theodore Robert Bundy、1946年11月24日 - 1989年1月24日)は、アメリカシリアルキラーであり、誘拐強姦強盗も行っている。少なくとも1970年代から多数の若い女性を強姦、殺害するとともに死体に対する屍姦も行っていた。死刑執行の直前に、10年以上も否認してきた殺人事件についての告白を行い、1974年から1978年の間に7つの州で30人を殺害していることが明らかになった。被害者の実数は不明だが、おそらくはこの数字を上回る。

バンディの手にかかった女性の多くは、彼のことをハンサムな男だと思うだけでなくカリスマ性すら感じていたが、それは彼が信頼を勝ち得るために自分を磨いたからであった。バンディがターゲットの女性に近づくときによく使っていたのが、人目のある広い場所で怪我人や障害者のふりをしたり、当局の人間であるかのように振舞う手口だった。そして女性を予定の場所へ連れていくと、力で屈服させて強姦した。彼は女性を殺害した場所に再訪して、犠牲者に別の犯罪を犯すこともあった。つまり彼は死体が完全に朽ちたり野生動物に食べられて屍姦ができなくなるまで、腐敗の進む死体を身づくろいし、何時間もかけて性交を行ったのである。バンディは殺害した女性のうち少なくも12人の首を斬り落とし、しばらくの間、自分のアパートでその首を記念に保管していた[1]。時にはシンプルに夜半に住居に押し入り、眠っていた被害者を脅して強姦することもあった。

1975年、バンディは誘拐事件と強姦未遂によりユタ州で投獄され、初めて刑務所に入ることになった。さらに複数の州で進行中であった未解決殺人事件の容疑者となる。コロラド州で殺人罪に問われたが、彼は2度の劇的な脱獄を果たし、1978年にフロリダ州で捕縛されるまで3件の殺人と強姦を繰り返した。フロリダ州の殺人だけで、彼は別個の2回の裁判で3回の死刑を宣告された。

1989年1月24日にフロリダ州刑務所でバンディに対する電気椅子による死刑が執行された[2]。伝記作家のアン・ルールはバンディを「サディスティックソシオパスであり、自分以外の人間が苦しんだり、被害者を支配することに喜びを覚えていた。死ぬまで、そして死後でさえも」と表現している[3]。彼自身は「今まであった中で、一番冷血なくそ野郎〔son of a bitch〕」を自称していた[4][5]。最後の弁護士チームの一員であったポーリー・ネルソンは「テッドは残酷な悪魔の定義どおりの男」だと書いている[6]

生い立ち[編集]

少年時代[編集]

バンディことセオドア(テッド)・ロバート・カウエルは、1946年11月24日にバーモント州バーリントンで生まれた。テッドを未婚女性のための産院であるエリザベス・ランド・ホームで生んだ母は、名をエレノア・ルイーズ・カウエルといった(彼女は人生の大半をルイーズと呼ばれて過ごした)[7]。父については確実な事はわかっていない。出生届には父親として販売員でありアメリカ空軍の退役軍人であったロイド・マーシャルの名があるが[8]、ルイーズは後に自分が名前はうろ覚えだがジャック・ワシントンという「水兵」[9]に貞操を奪われたのだと主張している[10]。だいぶ後になって当局も調査を行ったが、海軍にも民間船にもそのような名前を持った人間の記録は見つからなかった[11]。親戚の中には、バンディの父親が、ルイーズに暴力をふるい虐待をしていた彼女自身の父親サミュエル・カウエルだという人間もいたが[12]、この説を否定するにせよ肯定するにせよ傍証することの可能な物質的証拠は何もない[13]

3歳までバンディはフィラデルフィアにある母方の祖父の家で生活した。サミュエル・カウエルと娘のエレノア・カウエルは、当時は婚外子といえば社会的に不名誉であったので、テッドは後ろ指を指されないように育てられた。そのため幼いテッドは祖父母のことを両親、母のことを姉だと教えられていた。最終的に真実を知ることにはなるのだが、それに気づいた瞬間について彼の回想は食い違っている。ガールフレンドには、いとこが自分に「私生児」呼ばわりしてから出生届のコピーを見せてきたと語っていた[14]。しかし伝記作家のスティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースには、自分で出生届を見つけたと話している[15]。伝記作家であり犯罪ルポライターであるアン・ルールは、個人的にもバンディをよく知っている人物だが、彼は1969年にバーモント州で自分の出生届の原本を探し出すまで、家族の秘密に気づいていなかったと考えている[16]。自分の本当の父親について語らず、探したければ探せという母親の姿勢に、バンディは生前ずっと怒りを隠さなかった[17]

取材の中でバンディはたびたび祖父サミュエルの優しさを語り[18]、ルールにも自分は祖父がいたからあるのであり、尊敬していて、いつもくっついていたと話している[19]。しかし1987年に、彼は家族とともに弁護士に父親の素行について相談に行っている。サミュエル・カウエルは家庭を牛耳って威張り散らし、黒人、イタリア人、カトリック、ユダヤを嫌ってひどく偏狭だ、という内容だった。バンディの祖父は妻や飼い犬を殴り、近所に猫がいれば尻尾をつかんで振り回した。ある時はルイーズの妹を、寝坊したという理由で階段から投げ飛ばしている[20]。サミュエルは初対面の人にも大声で話す時があり[21]、テッドの父親が誰なのかという話が持ち上がったことに激昂して暴れまわったことも、確実なだけで一度はあった[20]。バンディが説明する彼の祖母は、おどおどして言われるがままの女性で、鬱状態の改善のため定期的に電気けいれん療法を受けていたという[21]。そして老いるにつれて祖母は外出を怖がるようになった[22]。テッドは、すでに幼いころから、周りを困らせるような行動をとることがあった。ある日に叔母のジュリアがうたた寝からふと目を覚ますと、カウエル家の台所にあった包丁という包丁が自分のまわりに置いてあってひどく驚いたことがあった。3歳の甥っ子は彼女が寝ていたベッドのそばで微笑んでいた、とジュリアは回想している[23]

1950年、ルイーズは名字をカウエルからネルソンに改め[8]、家族の度重なる強い勧めもあって、息子を連れてフィラデルフィアを離れ、いとこのアラン・スコットとジェーン・スコットを頼ってワシントン州タコマに移った[24]。1951年、メソジスト教会主催のお見合いパーティで、ルイズは病院の調理師だったジョニー・カルペッパー・バンディと出会った[25]。この年の後半に2人は結婚し、ジョニー・バンディは正式にテッドを養子とした。ジョニーとルイーズは4人の子をもうけ、ジョニーは実の子供といっしょにテッドもキャンプに連れて行れ、彼を家族として扱おうとはしていたが、テッドとの距離は縮まらなかった。後にテッドはガールフレンドに、ジョニーは本当の父親ではないだけでなく「全然さえないし」「稼ぎもよくない」と不平をこぼしていた[26]

伝記作家にバンディが語るタコマの思い出は、相手によって内容が変わった。ミショーとエインズワースに話したときは、近所をうろついて、ゴミ箱をあさっては女性のヌード写真を探していた、という[27]。またポーリー・ネルソンには、刑事ものや犯罪小説、犯罪ルポが好きで、性犯罪を扱っていたり、死体や四肢が欠損した身体の挿絵には目がなかった、と説明している[28]。一方でルールに宛てた手紙では、「実話系の刑事もの雑誌なんて読んだことは絶対ないし、考えただけでぞっとする」と断言している[29]。さらにミショーとの会話では、自分がいかに大酒を飲んでいたかを語り、夜中に「地元をまわって」、裸の女性を覗くことのできるカーテンのかかってない窓を探していたし、なんなら「見れるものであればなんでも」よかったとさえ回想している[30]

ハイスクール時代のバンディ(1965年)

バンディの話は、学校生活についても食い違っている。ミショーとエインズワースには、人との距離の取り方がわからず思春期時代は「好んで1人でいた」と説明している[31]。彼は言うには、友情を育むということがそもそもどういうことか理解できなかったのだ。「友達になりたいっていうのはどういうことなのかわからない」、「人付き合いするというのが何をもとに成り立っているかも知らない」と彼は言っている[32]。だがウッドロー・ウィルソン高校時代の同級生はルールに、バンディが「有名で、人気もあった」といい、例えるなら「大きい池だったとしたら中ぐらいの大きさの魚」だったと語っている[33]

スキーはバンディにとって唯一の趣味らしい趣味だった。彼は盗んだ道具と偽造したリフト券で、大いにスキーを楽しんだ[15]

彼は高校在籍中に、住居侵入と自動車泥棒の容疑で少なくとも2度逮捕されている。しかし彼が18歳になった時点で、ワシントン州などでは通例であったが、事件の詳細は公的な記録からは抹消されている[34]

大学時代[編集]

1965年に高校を卒業したバンディは、ピュージェットサウンド大学に一年だけ在籍した後で、中国語を勉強するため1966年にはワシントン大学に移っている[35]。翌年から彼は、大学の同級生と付きあい始めている。バンディの自伝ではさまざまな偽名が使われているが、一般的にはステファニー・ブルックスとされている[36]。1968年の初めに彼は大学をドロップアウトして、最低賃金の仕事を転々とした。ネルソン・ロックフェラーの大統領選出馬の時は、シアトル事務所でボランティアスタッフもしていて[37]、この年の8月にはマイアミで行われた共和党の全国集会にロックフェラーの代議員として出席している[38]。その直後にバンディはブルックスと別れており、彼女はカリフォルニア州の実家に帰ってしまった。彼女が言うには、バンディの幼稚さと向上心のなさが原因であった。精神科医のドロシー・ルイスは、後にこの破局が「おそらく彼の人格が形成される上できわめて重要な時期」だと指摘している[39]。ブルックスに振られて傷心のバンディは、コロラド州に旅行に出かけ、さらに東に向かってアーカンソー州とフィラデルフィアの親戚を訪ね、テンプル大学に1学期(セメスター)だけ通っている[40]。1869年の初めに、バンディはバーリントンの出生登録所に行き、自分の本当の父親が誰かを確かめた、とルールは考えている[40][41]

バンディは1969年の秋にはワシントン州に戻り、エリザベス・クレプファー(バンディ関係の文献ではメグ・アンダース、ベス・アーチャー、リズ・ケダルと同一)と出会っている。彼女はユタ州オグデン出身のバツイチで、ワシントン大学医学部の職員の仕事をしていた[42]。2人の激しい恋愛は、1976年にバンディがユタ州で初めて投獄されるまでゆうに続いた。

1970年代半ば、この頃のバンディには明確な目標がありそれに向かっていた。ワシントン大学に再入学して、今度は心理学を専攻した。彼は優等生であり、教授陣からの評判もよかった[43]。1971年には、シアトルの自殺防止ホットライン緊急センター(Suicide Hotline Crisis Center)で職を得るとともにアン・ルールと知り合い、また同僚となった。ルールは元警察官で、犯罪ルポライターになる夢を持っていた。彼女は後に、決定的なバンディの伝記である『私のそばの他人』(The Stranger Beside Me)を書いている。当時彼女はバンディの内面には足を踏み入れることなく、彼のことは「親切で気遣いもあり、親身になってくれる」と考えていた[44]

1972年にワシントン大学を卒業すると[45]、州知事のダニエル・J・エバンスの再選を目指した選挙戦に参加している[46]。大学生を装ってエバンスの対立候補である元知事のアルバート・ロゼリーニの行動を追いかけ、街頭演説を記録しては分析のためにエバンスの選対チームに情報を送った[47][48]。無事エバンスが再選を果たすと、バンディは共和党ワシントン州支部長のロス・デイビスに助手として雇われた。デイビスはバンディを気に入っており、彼のことも「頭は良いし積極的だし、仕組みってものを大事にしている」と語っていた[49]。1973年の初めにピュージェットサウンド大学ユタ大学のロースクールに合格したが、ロースクール入学試験の点数は凡庸だった。バンディはエバンスやデイビス、ワシントン大学の複数の心理学部教授の推薦の手紙があったからこそである[50][51]

共和党の仕事でカリフォルニアへ出張していた1973年の夏に、バンディはブルックスとよりを戻している。彼女にはバンディが法曹界においても政治の世界においても素晴らしいキャリアを築きつつあるように思えるほど、真面目でひたむきなプロフェッショナルに変身したことに驚かされたのだった。バンディはクレプファーとも交際を続けたが、彼女たちはお互いの存在に気づくことはなかった。1973年の秋にバンディはピュージェットサウンド大学ロースクールに入学するが[52]、ブルックスとの恋愛は終わらなかった。彼女はバンディのために、何度も大陸を横断してシアトルまで飛行機に乗って会いにきていた。2人は結婚も考えている。一度はデイビスにフィアンセとして彼女を紹介していたほどだ[26]。しかし1974年1月に、バンディは突然一切の連絡を絶った。彼女からの電話にも手紙にも、返事を返していない。一ヶ月後にようやく一度だけ電話がつながったので、彼女はなぜバンディが説明もなく一方的に関係を負わせたのか知りたいと伝えた。バンディは抑揚のない、落ち着いた声で「ステファニー、何が言いたいのかまるでわからないよ」とだけ答えて電話を切った。彼女は二度とバンディの声を聞くことはなかった[53]。後にバンディは「僕だって自分が彼女と結婚するに値する人間でありたかったよ」と説明しているが[54]、彼女はバンディとの過去を振り返って、交際そのものが計画的であり最後にバンディが彼女を振ることは予定通りのことで、1986年に彼女のほうから振ったことに対する復讐だったと断言している[53]

この頃にはバンディはロースクールの授業をサボるようになっていて、4月になるとまったく大学に行くのをやめてしまった[55]。ちょうどその頃、太平洋岸北西部では若い女性の失踪が続いていた[56]。この年に、バンディはシアトル犯罪対策諮問委員会の副委員長を務めており、女性向けにレイプ対策のパンフレットも書いていた[57]。ずっと後になって、バンディはユタ州の報道記者にこんなジョークを言っていた。ソルトレークシティの刑務所にはいって8週間、保釈を待っている間に身をもって法を学ぶという得難い経験をして、刑事司法の仕組みの改善につながる新たな考えが浮かんだよ、と。彼に対する初めての法的措置がとられたことで、むしろ保釈保証の問題が浮き彫りになり、その改正に対する取り組みが行われることになる[58]

2つの連続殺人[編集]

ワシントン州とオレゴン州[編集]

バンディが女性の殺害を始めたのが、いつ・どこでなのかについて統一した見解はない。彼は言っていることが相手によってばらばらであるうえに、最初期の犯罪の特定につながることについては口を閉ざしている[59]。比較的新しい、死刑執行までに行った殺人についてはありありと詳細を告白するのとは対照的である[60]。ネルソンには、1969年にニュージャージー州オーシャンシティで初めて誘拐を試みたが、1971年某日のシアトルの事件までは誰1人殺していないと語っている。精神科医のアート・ノーマンには1969年にフィラデルフィアへ旅行に来た家族をターゲットに、アトランティックシティで2人の女性を殺したと言う[61][62]。殺人担当課の刑事ロバート・D・ケッペルには、1972年にシアトルで1人殺して[63]、1973年にタムウォーターあたりにいたヒッチハイカーが犠牲になった別の事件でも殺人をほのめかしているが、詳しくは語っていない[64]。ルールもケッペルも、彼は未成年の頃から殺人に手を染めていただろうと考えている[65][66]。状況証拠しかないが、1961年に当時8歳だったタコマ在住のアン・マリー・バーを誘拐して、殺したと疑われている。この時に彼は14歳である。しかしバンディは繰り返しこの説を否定している[63]。彼による殺人事件として記録されているうちで、一番古いものは、バンディが27歳(1974年)の時のものだ。しかしこの時代にはまだDNA鑑定がなかったとはいえ、自分でも認める通り、彼はすでに犯行現場に最小限の法科学的な証拠しか残さないようにする技術をマスターしていた[67]

1974年1月4日(この頃すでにブルックスとは連絡を絶っていた)の0時を少し過ぎたころに、バンディはワシントン大学の学生でありダンサーの仕事もしていた18歳のカレン・スパークス[68](文献によってはジョニ・レンツ[69][70]、メアリー・アダムス[71]、テリー・コードウェル[72]となっている)のアパート地階の部屋に侵入している。ベッドフレームから鉄の棒を外して、眠っていた彼女を意識がなくなるまで殴りつけ、その鉄の棒(もしくは鉄のスペキュラム[70])で彼女に性的暴行を加えた[73][54]。それが原因で彼女は酷い内蔵損傷を被ることになった。バンディの暴行によって彼女は意識不明の状態が10日続き[72]、その後一命をとりとめたもののその後身体と精神に障害を抱えて一生を送ることになった[74]。2月1日の早朝には、リンダ・アン・ヒーリーの部屋に押し入っている。彼女はワシントン大学の学部生であると同時にスキーヤーのために朝のラジオで天気予報のレポーターをしていた。バンディは彼女が気を失うまで拳を浴びせ、青いデニム、白のブラウスを着せ、ブーツを履かせて彼女を連れ去った[75]

1974年の前半には月に1人のペースで女子大学生が失踪した。3月12日、シアトルから南西に100キロメートル弱離れたオリンピアで、エヴァーグリーン州立大学に通う19歳のドナ・ゲイル・マンソンは、大学のキャンパスで開かれるジャズコンサートに行くために寮を出たが、会場には姿を表わさなかった。4月17日、スーザン・エレイン・ランコートが、寮への帰宅途中に失踪した。彼女はシアトルから東南東に200キロメートル弱のエレンズバーグにあるワシントン州立大学でその日の午後にあった新入生オリエンテーションの帰りだった[76][77]。セントラルワシントン大学の女子学生2人が後に名乗り出て、ランコートが失踪した日の夜に(もう1人はその三日前の夜に)ある男に出会ったという情報を提供した。その男は怪我人のように腕をスリングで吊っていて、荷物の本を自分の茶色あるいは黄褐色のフォルクスワーゲン・ビートルに積むのを手伝ってくれないかと頼まれたという[78][79]。5月6日には、ロベルタ・キャスリーン・パークスがポートランドから150キロメートル弱南にあるコーバリスオレゴン州立大学の寮を出たまま姿を消した。キャンパス内にあるメモリアルユニオンで友人たちとカフェをするはずだった[80]

キング郡保安局とシアトル警察署の刑事たちは次第に懸念を募らせていた。物理的な証拠は一切見つかっておらず、失踪した女性にも共通点はほとんど無かった。あるとすれば、彼女たちはみな若く魅力的な白人の女子大生で、長い髪を真ん中で分けていることぐらいだった[81]。6月1日、22歳のブレンダ・キャロル・ボールが、シアトル・タコマ国際空港に近いベリアンのパブから出た後に行方不明になった。最後に彼女が目撃されたのはこの店の駐車場で、髪の毛がブラウンの腕をスリングで吊っている男と話している場面以降は消息がわからなかった[82]。6月11日の深夜にはワシントン大学の学生ジョーガン・ホーキンスが、ボーイフレンドの寮から自分の女子寮までの、街灯もあって明るい道を歩いていった後で行方不明になる[83]。次の日の朝、シアトル警察署の刑事と鑑識官3人が手と足を使って路地をくまなく探したけれど、何も見つからなかった[84]。ホーキンスの失踪後にその事実が公表されると、目撃者が現れた。それによると、その夜、寮のすぐ裏にある小道に男が立っていて、片足にギプスをして松葉づえをついており、書類かばん1つ運ぶのにも難渋していたとのことだった[85]。もう1人、女性の証言もあり、その男から自分のライトブラウンのフォルクスワーゲンにそのかばんを入れるのを手伝ってくれないかと頼まれたという[86]

この時期に、バンディはオリンピアの危機管理局(DES)で仕事をしていた。つまり失踪女性を捜索する州の職員だった。そしてここで、彼は二児の母であり二度の離婚を経験していたキャロル・アン・ブーンと知り合い、交際をしていた。彼女は6年後に、バンディの人生の最後の局面で重要な役割を演じることになる[87]

6人の女性が失踪し、スパークスに残酷な暴行が加えられたことがテレビや新聞で報じられ、ワシントン州とオレゴンでは誰もが知る事件となった[88]。市民には不安感が広がり、若い女性のヒッチハイカーはあっという間にいなくなった[89]。法の執行機関に対する不満の声が強くなったが[90]、物理的な証拠が乏しく打つ手がなかった。警察も、捜査に支障をきたさない範囲で僅かな情報しか記者には伝えられなかった[91]。それでも、被害者たちには新たに共通点が見つかっていた。失踪はすべて夜間に起きており、たいてい工事現場の近くで、中間か期末の試験がある週だった。被害女性は全員、スラックスか青いデニムをはいていた。そしてほとんどのケースで、ギプスかスリングをして、茶色か黄褐色のフォルクスワーゲン・ビートルを運転する男が目撃されていた[92]

A light tan rusty Volkswagen is positioned for display behind a chain made of handcuffs
テッド・バンディが多くの犯行現場で乗っていた1968年式のフォルクスワーゲン・ビートル(いまは閉鎖されたが、国立犯罪・刑罰博物館に展示されていた時の写真)[93][94]


The Pacific Northwest murders culminated on July 14, with the broad daylight abductions of two women from a crowded beach at Lake Sammamish State Park in Issaquah, a suburb 20マイル (32 km) east of Seattle.[95] Five female witnesses described an attractive young man wearing a white tennis outfit with his left arm in a sling, speaking with a light accent, perhaps Canadian or British. Introducing himself as "Ted," he asked their help in unloading a sailboat from his tan or bronze-colored Volkswagen Beetle. Four refused; one accompanied him as far as his car, saw that there was no sailboat, and fled. Three additional witnesses saw him approach Janice Anne Ott, 23, a probation case worker at the King County Juvenile Court, with the sailboat story, and watched her leave the beach in his company.[96] About four hours later, Denise Marie Naslund, a 19-year-old woman who was studying to become a computer programmer, left a picnic to go to the restroom and never returned.[97] Bundy told Stephen Michaud that Ott was still alive when he returned with Naslund—and that he forced one to watch as he murdered the other[98][99]—but he later denied it in an interview with Lewis on the eve of his execution.[100]

The King County police were finally provided with a detailed description of the suspect and his car when they posted fliers throughout the Seattle area. A composite sketch was printed in regional newspapers and broadcast on local television stations. Elizabeth Kloepfer, Ann Rule, a DES employee, and a UW psychology professor all recognized the profile, the sketch, and the car, and reported Bundy as a possible suspect;[101] but detectives—who were receiving up to 200 tips per day[102]—thought it unlikely that a clean-cut law student with no adult criminal record could be the perpetrator.[103]

On September 6, two grouse hunters stumbled across the skeletal remains of Ott and Naslund near a service road in Issaquah, 2マイル (3 km) east of Lake Sammamish State Park.[95][104] An extra femur and several vertebrae found at the site were later identified by Bundy as Georgann Hawkins'.[105] Six months later, forestry students from Green River Community College discovered the skulls and mandibles of Healy, Rancourt, Parks, and Ball on Taylor Mountain, where Bundy frequently hiked, just east of Issaquah.[106] Manson's remains were never recovered.

1974年の1月から6月にかけて、ワシントン州の8人の女性をストーキングしては殺害している。7月には凶行も全盛を極め、サマミシュ湖州立公園にて昼間から2人の女性が拉致、殺害されている。バンディは魅力的な顔立ちをしていたが、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという長所を持っていた。後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンのようだ」と言われている。

夏が過ぎ、秋に入った頃にはバンディの犠牲者たちの遺体がサマミッシュ湖周辺の山奥で次々と発見され始めたが、時期を同じくしてバンディはユタ州に移住していた。優秀な成績で大学を卒業した彼はワシントン州知事の推薦状を携えて、ソルトレイクシティにあるユタ大学法科大学院に進学したのである。ここでバンディは10月から殺人を再開した。17歳の女性をレイプし、アナルセックスをし、その後に絞殺している。彼女の遺体は7日後に見つかった。またその後、他の17歳の女性がハロウィンの日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている。

バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性ということでほぼ共通していた。

第1審そして逃亡[編集]

1974年11月4日、ユタ州マリに住む18歳の女性は、バンディの手にかかりそうになったところから逃げ出した。バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った。危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる。だが車には何も異常がない。バンディは彼女に書類を作るので警察署まで来てくれないかと、彼女をバンディの所有するフォルクスワーゲン・タイプ1に乗せて走り始める。だが、彼女は違和感を覚えていた。その後バンディが彼女に手錠をはめようとしたところで、彼女は逃亡した。以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている。

1975年8月16日、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認される。1976年3月1日1週間にわたる裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で1年から15年にわたるユタ州立刑務所での禁錮刑を受ける。しかし、コロラド当局は連続殺人事件を追求していた。

1976年6月7日、彼の殺人事件の裁判準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される。休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される。バンディはそこの2階の窓から飛び降り、逃亡した。しかしその際に足首を痛め、結果として逃亡を図れなかったバンディは1週間後に捕まった。バンディは刑務所に戻された。

しかし裁判の開始を待っている時期に、彼は再び逃亡する。コロラド州グレンウッドスプリングスにある刑務所に収監されていたバンディは、どういうわけか弓鋸を所持しており、それを用いて独房の天井に四角い穴を開けていた。1977年12月30日の夜、彼はその穴によじ登り、こそこそせずに正門まで歩いていき、車を盗んで逃亡した。

フロリダへ[編集]

刑務所を訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。トランス・ワールド航空デンバーシカゴ行に乗って逃亡。ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後、車を盗んでアトランタスラム街で乗り捨てる。そこからフロリダ州タラハッシーまでバスで移動した。タラハッシーではクリス・ヘイゲンという偽名でアパートを借り、ひとまず腰を落ち着ける。1978年1月15日深夜、カイ・オメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し、2人に重傷を負わせる。

1978年2月9日レークシティーに移動。そこで12歳の少女を誘拐して性的暴行を加えながら、彼女の顔を泥につけて溺死させ、死体を小屋の下に遺棄する。彼女がバンディの最後の被害者となった。その後、1978年2月15日午前1時ペンサコーラにて、彼が乗っていたフォルクスワーゲンが盗難車のナンバーであったことから警官に拘束される。警察での取り調べの際、自分はクリス・ヘイゲンであり不当逮捕だと強硬に主張したが、やがてバンディの身元は判明し、カイ・オメガ女子寮での殺人事件の裁判のためマイアミに移送される。

判決そして死刑執行[編集]

法廷でのバンディ。彼は弁護士を依頼せず、自ら弁論や弁護に立った。

1979年6月25日から7月31日にかけて、バンディの第2審が開かれた。5人の国選弁護人がいるにもかかわらず、バンディは自分で自分の弁護を行った。また、公判中、昔仕事場で同僚だった女性と結婚している(一子をもうけた後、離婚)。また死刑執行までの間、バンディは数百に及ぶファンレターをもらっている。

判決は死刑であった。裁判官は判決の際、以下のことを言った。

(フロリダでの死刑執行は電気椅子で行われることから)貴下が電流によって死に至るまで座っているよう、貴下が死ぬまで電流が貴下の体内を通るよう、ここに命じるものである。体に気をつけなさい。(「Take care of yourself」。別れの時の慣用句で、日本語で表すなら「それではお元気で」、「お体に気を付けて」の意。「自制した人生を」とも解釈できる)。青年よ。これは真摯に言っているのだ。この法廷で私が経験したそのような人間性の浪費は、この裁判所にとって悲劇とも言える。貴下は聡明な青年だ。貴下は優秀な法律家になれたかも知れない。そして私は、法廷で貴下が活躍する姿に惚れ込んだかも知れない。私は、貴下に何ら敵意も持っていない。それは理解してほしい。しかしあなたは道を間違えた。体に気をつけなさい。
獄中でのバンディ

ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に科された死刑宣告を覆すためであった。しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した罪にしか興味がないと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決してないと考えたという。

それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ってもいる。しかし、それは聞き入れられず、彼はとうとう電気椅子に座ることになった。最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感(せきりょうかん 寂しい様子)にあふれた顔を見せた。

1989年1月24日午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳であったバンディに死刑が執行された。2000ボルト以上の電圧を2分間にわたり加圧され、午前7時16分に死亡を確認。その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していたため、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている。なお、この記事のタイトルは「Killer dies with a smile on his face(殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ)」であった。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

映画[編集]

  • 『テッド・バンディ』…彼が実際に起こした事件を元に製作されたスリラー映画。電気椅子によって処刑されるまでを描く。 ASIN: B0000844EZ

テレビドラマ[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]