イスマイル (ヨンシエブ部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イスマイル・タイシ(モンゴル語: Исмайл тайш中国語: 亦思馬因太師、? - 1486年)とは、15世紀後半における北元の部族長の一人。モンゴル語の表記に従ってイスマンとも表記されるが、原音は「イスマイル」と推測されている[1]ベグ・アルスランを殺してヨンシエブ部を率い、バト・モンケ(ダヤン・ハーン)を擁立して実権を握ったが、ダヤン・ハーンの攻撃によって没落した。

概要[編集]

イスマイルはタイスン・ハーン時代の有力諸侯の一人、モーノハイの息子として生まれた。モーノハイの根拠地は現アルシャー盟方面であり、ベグ・アルスランと同じくメクリン部に属する人物であったと見られる[2]

1470年代モンゴリアではヨンシエブ部を率いるベグ・アルスランがマンドゥールン・ハーンを擁立して最大の勢力となっていた。ベグ・アルスランの「族弟」であるイスマイルもまたその傘下で活動していたようで、『蒙古源流』にはイスマイルの讒言によってボルフ・ジノンとマンドゥールン・ハーンの仲が決裂したことが記録されている。ボルフ・ジノンの叛意を信じ込んだマンドゥールン・ハーンはイスマイルを頭とする征討軍を派遣し、イスマイルはボルフ・ジノンが有する国人・家畜を掠奪した上、ボルフ・ジノンの妻シキル太后を奪って自身の妻とした[3]。イスマイルによるボルフ・ジノンの殺害は『アルタン・トブチ』において「ヨンシエブの罪科」として記されている。

1479年にはマンドゥールン・ハーンとベグ・アルスランの間に対立が生じ、かねてよりベグ・アルスランの専権に反感を抱いていたイスマイルとモンゴルジン-トゥメト部トゥルゲンらはマンドゥールン・ハーンと協力し、ベグ・アルスランを殺害した。これによってイスマイルはヨンシエブ部を掌握し、更にタイシ(太師)の称号も継承した[4]

ベグ・アルスランの殺害後間もなくマンドゥールン・ハーンもまた亡くなったため、イスマイルは再婚したシキル太后とボルフ・ジノンの間の息子で自身にとっては義理の息子にあたるバト・モンケ(後のダヤン・ハーン)を擁立した。モンゴル年代記の多くではダヤン・ハーン擁立に尽力したのはマンドフイ・ハトン(ダヤン・ハーンの妻)とされイスマイルの活動は述べられていないが、これは後世のモンゴル人歴史家がハーンを傀儡として実権を握った非チンギス裔の異姓貴族を忌避し、敢えてその事蹟を矮小化したためであると推測されている[5]

ダヤン・ハーンを擁立してモンゴリアで最大の実力者となったイスマイルは東方への進出を始め、成化16年(1480年)にはトゥルゲンと組んでウリヤンハイ三衛に侵攻し、三衛の人馬は明朝の辺境に難を逃れた[6][7]。またその2年後の成化18年(1482年)には統制下に置いた三衛と協力して明朝に侵攻しようとしている[8]

しかし成化19年よりイスマイルとダヤン・ハーンの間に対立が生じ始め、ダヤン・ハーンはゴルラス部のトゴチ少師を派遣してイスマイル軍を破り、イスマイルはハミル(現伊州区)方面に逃れた[9]。『蒙古源流』によるとトゴチ少師はこの際にダヤン・ハーンの母シキル太后を奪還したが、既にイスマイルとの間にバブダイとブルハイという二人の息子を産んでいたシキル太后はイスマイルの敗亡を悲しんで馬に乗ろうとせず、人々の嘲笑を受けたという。また、この時のイスマイル討伐にはウリヤンハイ三衛も協力したようで、明朝には三衛によってイスマイルの子が海西女直に奴隷として売られたことが伝えられている[10]

当時ハミル方面にはエセンの孫と見られるケシク・オロクが率いるオイラト部族連合が南下しており、ハミル方面に至ったイブラヒムはケシク・オロクと手を組んだ[11]。しかしダヤン・ハーンはイスマイル討伐の手を緩めず西方に向かって軍を派遣したため、北方より攻撃を受けたイスマイル軍が南下して明領に侵入するようになったことが記録されている[12]。イスマイルの最期は明らかではないが、明朝では成化22年(1486年)にイスマイルとケシク・オロクが亡くなったことが伝わっており[13]、この頃にダヤン・ハーンの攻撃を受けて敗死したものと見られる[14]

イスマイルの死後、エセン・ハーンの孫イブラヒムがヨンシエブ部を受け継ぎタイシと称したが、異姓貴族の実力を危険視するダヤン・ハーンの討伐を受けてヨンシエブ部は分裂し、イブラヒムは青海地方に逃れざるを得なくなった。イスマイルを最後としてハーンを擁立・廃立できるような有力異姓貴族は姿を消し、代わってダヤン・ハーンの諸子分封によってチンギス・ハンの子孫がモンゴリアで実権を握るようになった。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 岡田2004 ,217頁
  2. ^ 井上2002,17頁
  3. ^ 岡田2004,215-216頁
  4. ^ 『明憲宗実録』成化十五年五月庚午「福餘衛都指揮扭歹等奏報、迤北癿加思蘭為其族弟亦思馬因所殺……居数年、満都魯部下大頭目脱羅干等不分、与亦思馬因謀殺之、遂立亦思馬因為太師。亦思馬因者、其父毛那孩曾為太師、故衆心帰之也」
  5. ^ ただ、井上治は漢文史料に記述がないことを理由にマンドフイの存在自体を疑問視するのは不適切であろうと指摘している(井上2002,17頁)
  6. ^ 『明憲宗実録』成化十六年冬十月壬申「朶顔衛入貢夷人歹都報、北虜亦思馬因領衆、東略泰寧・福餘二衛。又云、虜酋脱羅干行営、去大同猫児荘約遠五程。兵部遂言、泰寧・福餘二衛常貢不以時至、必有其故、亦思馬因雖守臣報謂已向西北、以此報度之、必与脱羅干相合。宜通行東北二辺守臣、画謀防禦、報可」
  7. ^ 和田1959,398頁
  8. ^ 『明憲宗実録』成化十八年秋八月乙未「朶顔衛夷人革克台来降言、北虜亦思馬因与三衛阿児乞蛮等、彼此劫奪、既而互相媾和、欲至我辺抄掠」
  9. ^ 『明憲宗実録』成化十九年五月壬寅「虜酋亦思馬因為迤北小王子敗走。所遺幼雅、朶顔三衛携往海西易軍器、道経遼東」
  10. ^ 和田1959,399頁
  11. ^ 『明憲宗実録』成化二十二年二月己卯「……但聞、虜酋亦思馬因与瓦剌連和、欲犯瓜・沙二州」
  12. ^ 『明憲宗実録』成化二十二年六月辛卯「巡撫甘粛右副都御史唐瑜等奏、虜寇出没荘浪者多、自東北而来。其寇涼永者則満都魯部下、寇甘粛者則亦思馬因等酋部下也」
  13. ^ 『明憲宗実録』成化二十二年秋七月壬申「鎮守甘粛総兵官焦俊奏、哈密都督罕慎遣人来報、虜酋瓦剌克舎並亦思馬因已死、両部人馬散処塞下、而克舎部下立其弟阿沙亦為太師、阿沙之弟曰阿力古」
  14. ^ 井上2002,18頁

参考文献[編集]

  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年