グン・ビリク
グン・ビリク(モンゴル語:Гүнбилэг、1506年 - 1542年[注釈 1])は、オルドス・トゥメンのジノン(晋王)。バルス・ボラトの長男で、アルタン・ハーンの兄にあたる。
本名がグン・ビリク(Gün bilig)で、「メルゲン・ジノン(Mergen J̌inong)」が称号である。『明実録』などの漢文史料では、「ジノン」を漢字音写した吉嚢と表記されることが多い。
生涯
[編集]ダヤン・ハーンの登場より以前、マンドゥールン・ハーンはトゥメト部を率いるトゥルゲンを取り込むため、自らの娘(エシゲ・グンジ)をトゥルゲンの息子のホサイに娶せ、タブナン(壻)の称号を与えていた[1][2]。その後、ダヤン・ハーンは自らの息子のバルス・ボラトをホサイとエシゲ夫妻の下に送り込み、この頃にバルス・ボラトはボダン・ハトンを娶った[3][2]。バルス・ボラトとボダン・ハトンのあいだに最初に生まれたのがグン・ビリクで、諸史料は一致してその生年を1506年(丙寅)とする[2]。
しかし、ダヤン・ハーンによる諸子分封政策は右翼三トゥメン(トゥメト・オルドス・ヨンシエブ)の反発を呼び、オルドス部に派遣されたウルス・ボラト・ジノンは1508年に殺されてしまった[4]。これを受けてバルス・ボラトもトゥメトを脱出することとなり、この時3歳であったグン・ビリクと、その弟のアルタンを引き連れてダヤン・ハーンの下に戻ったと伝えられる[5]。
この後、ダヤン・ハーンによる討伐(ダラン・テリグンの戦い)を経て右翼三トゥメンは屈服し、改めてバルス・ボラトはサイン・アラク・ジノンの称号を授けられ、右翼三トゥメンを指揮するために派遣された[6]。1519年に父のサイン・アラク・ジノンが亡くなると、27歳のグン・ビリクがでジノン(晋王)位を継承し、「メルゲン・ジノン」と称してオルドス・トゥメンを領するようになった[7]。ただし、かつてのサイン・アラク・ジノンのように右翼三トゥメンを統べることはできず、その統治権はオルドス部に限られた[8]。
サイン・アラク・ジノンの死後、右翼三トゥメンで最大の勢力を築いたのがアルタン・ハーンで、グン・ビリク・メルゲン・ジノンは弟のアルタンに協力し、右翼のトゥメンを率いて毎年中国の明やオイラト、モグーリスタン、青海を支配するブルハイの下に侵攻し、略奪を行った[9]。
1542年、グン・ビリク・メルゲン・ジノンは37歳で亡くなり、翌年(1543年)息子のノヤンダラが後を継いでジノンと称した[10]。
妻子
[編集]- タンスク大ハトン…トゥメト・トゥメンのハンリン部のアイラン・セゲルの娘
- ノヤンダラ・ジノン
- バイサングル・ラン太子
『蒙古源流』はタンスクを「トゥメト・トゥメンのハンリン部」とするが、諸史料は一致してハンリン部をトゥメトではなくオルドス部の所属とする[11]。そこで、北元史研究者の大晶はむしろグン・ビリクとタンスクの婚姻を通じて、本来はトゥメトに所属していたハンリン部がオルドスに移ったのではないか、と推測している[11]。また、長子ノヤンダラの生年は1522年であるが、年代記によってはこの頃にトゥメトを領するアルス・ボラトによるハーン位簒奪事件があったと伝えられており、グン・ビリクはこの簒奪事件に乗じて婚姻を通じトゥメトからハンリンを奪ったのではないかとも考えられている[12]。
- オイダルマ・ノモハン・ノヤン
「アバガ・ベルゲン(abaγa belgen)」は「伯父の妻」を意味するが、これに関連して、ゲレ・ボラト(ダヤン・ハーンの息子の一人で、グン・ビリクからは叔父に当たる)がハルハ・トゥメン内のジャライル部に一度入ったが、部民の反発を受けて離れたとの逸話がある[13]。このため、エシゲ・アバガ・ベルゲン・ハトンはゲレ・ボラトの元妻で、グン・ビリクが左翼のハルハにも影響力を及ぼそうとしてエシゲを娶ったのではないかとする説がある[13]。
- アルタンチュ・サイン・ハトン…トゥメト・トゥメンのチェグト部のホサイ・タブヌンの娘
- ノム・タルニ・フワ太子
- ブヤングリ・ドゥラル・ダイチン
- バジャラ・ウイジェン・ノヤン
- バドマ・サンバワ・セチェン・バートル
上述の通りバルス・ボラトとのその息子グン・ビリク、アルタンはホサイの下で暮らしていた頃があり、その縁によってグン・ビリクはアルタンチュを娶ったものとみられる[14]。ただし、ホサイはダヤン・ハーンと同時代人であり、アルタンチュは世代から見てホサイの娘ではなく孫娘ではないかとする説もある[15]。『蒙古源流』の著者サガン・セチェンはノム・タルニの息子ホトクタイ・セチェン・ホンタイジの子孫であり、『蒙古源流』内ではアルタンチュから生まれた四子とその子孫の活動を特筆していることが指摘されている[16]。
- アムルジャ・ハトン…ヨンシエブ部のイバライ(イブラヒム)太師の娘
- アムダラ・ダルハン・ノヤン
- オンガラハン・イェルデン・ノヤン
アムルジャ(ナムルジャとも)は『蒙古源流』ではイバライ太師の娘とされるが、『アルタン・ハーン伝』ではボラハイ太師の娘とする[17]。しかしいずれにせよ、グン・ビリクが青海地方に逃れたヨンシエブを討伐した時に娶った妃であることは疑いない[17]。なお、オルドス内のシバグチン・オトクもこの時ヨンシエブから奪ったものと考えられる[17]。
系図
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 岡田 2004, p. 218.
- ^ a b c 森川 2023, p. 35.
- ^ 岡田 2004, p. 231.
- ^ 岡田 2004, pp. 228–229.
- ^ 岡田 2004, pp. 230–231.
- ^ 岡田 2004, p. 236.
- ^ 岡田 2004, p. 251.
- ^ 岡田 2004, p. 76.
- ^ 宮脇 2004, p. 153.
- ^ 岡田 2004, p. 250-252.
- ^ a b 大晶 2021, p. 60.
- ^ 大晶 2021, p. 62-63.
- ^ a b 大晶 2021, p. 64.
- ^ 大晶 2021, p. 47.
- ^ 大晶 2021, p. 63.
- ^ 大晶 2021, pp. 63–64.
- ^ a b c 大晶 2021, p. 65.
- ^ 岡田 2004, p. 251-252.
参考資料
[編集]- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434。
- 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』刀水書房、2002年10月。ISBN 978-4887082441。
- 森川哲雄『15世紀-18世紀モンゴル史論考』中国書店、2023年3月24日。ISBN 978-4903316734。
- 永井匠「オルドス,トゥメドとホサイ=タブナン-『エルデニ=イン=トプチ』の歴史記述を中心に-」『早稲田大学教育学部学術研究地理学・歴史学・社会学編』第45巻、早稲田大学教育学部、1996年、63-75頁、ISSN 09130179、NCID AN00039091。
- 大晶『大モンゴル大元遺産の北元時代の変遷』、2021年
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