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ボショクト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボショクトモンゴル語:Бошигт、1565年 - 1624年)は、オルドス・トゥメンジノン晋王)。ノヤンダラの孫で、ブヤン・バートル・ホンタイジの長男。『明史』韃靼伝では卜失兎と表記[1]

生涯

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1565年ブヤン・バートル・ホンタイジの長男として生まれる[2]

1576年、叔父のフトゥクタイ・セチェン・ホンタイジにより、12歳でジノン(晋王)に即けられる[2]

1585年ダライ・ラマ3世がフトゥクタイ・セチェン・ホンタイジのもとに至り、施主たちに成就の灌頂など、教戒の言葉とともに賜り、その後北へ向かい、ボショクト・セチェン・ジノンのもとに至って、コケブルにおいてボショクト・セチェン・ジノン,セチェン・ホンタイジ,セチェン・ダイチンの3人に吉祥ヘーヴァジラの究竟の四灌頂を与え、二つの政道を昔の通りに建立して、暗黒の大陸に法の日輪を昇らせた[2]

1592年、28歳のボショクト・ジノンはオルドス・トゥメンを率いてに出征し、多くを捕虜にして帰る[2]。この時フトゥクタイ・セチェン・ホンタイジの孫のバトという者が戦功をあげたので、ダルハン・バートルの称号を与えた[2]

1594年、30歳のボショクト・ジノンは再び明に侵攻した[2]。この戦いでまたバト・ダルハン・バートルが戦功を立てたため、バートル・セチェン・ホンタイジの称号を与えた[2]

1596年、ボショクト・ジノンはチベットに出陣し、グル・ソェナム・ギェルなどのシラ・ウイグルを降した[2]

1607年から1613年にかけて、金銀宝石をちりばめたチョウォ・シャーキャムニの像とあらゆる種類の供物を作成し、1614年に大慈マイトレーヤ・フトゥクトを招いて開眼の行をおこなった[2]。そこで尊像の完成を記念して、マイトレーヤ・フトゥクトに大慈法王の称号を捧げ、アリク・チョェジェにダライ・チョェジェの号、オチル・トゥメイ国王国師に灌頂大王国師の号、チンオ・アガ国師に瑜伽阿闍梨国師の号を与え、法師らと同じく首席を占めさせた。その後マイトレーヤ・フトゥクト大慈法王はボショクト・セチェン・ジノンに、「転金輪王セチェン・ジノン・ハーン」の称号を捧げ、タイガル中宮ハトンにダラ菩薩ノムチ・ダライ・セチェン中宮ハトンの号、その伯父マングス・チョークルに大ホンタイジ、弟のオルジェイにビント・ホンタイジの号を与えた[2]

1621年、明の楡林城で和を議しに入った60人の死者が殺されたため、怒ったボショクト・ジノン・ハーンはオルドス・トゥメンを率いて延安城に攻め込んだ[2]

1623年、59歳のボショクト・ジノン・ハーンはアリク・ダライ・チョェジェに金字の『カンギュル』を書かせ、ラパ・チャガーン・フトゥクトに花を撒かせて完成させ、西方のツォンカパのところのシナ・ナンソから『テンギュル』を招来する約束をしていたが、1624年に60歳で亡くなった[2]

妻子

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タイガル・ダラ菩薩ノムチ・ダライ・セチェン中宮ハトン

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系図

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バルス・ボラト家系図

脚注

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注釈

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出典

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  1. 羽田・佐藤 1973, p. 54-55.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 岡田 2004, p. 267,285,294-296,299-302.
  3. 岡田 2004, p. 303.

参考資料

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  • 羽田明佐藤長 他訳注『騎馬民族史3 正史北狄伝』平凡社東洋文庫〉、1973年1月1日。ISBN 978-4582802283 
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434 
先代
ノヤンダラ
ジノン(晋王)
1576年 - 1624年
次代
セレン・エルデニ