アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク

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1820年代画

アダム・アルベルト・フォン・ナイペルクAdam Albert von Neipperg1775年4月8日 - 1829年2月22日)は、オーストリア帝国の貴族で、軍人、政治家。フランス皇帝ナポレオン1世皇后だったマリア・ルイーザ女公(独:マリー・ルイーゼ)と再婚し、女公を公私両面で支えた。

生涯[編集]

生い立ち、青年期[編集]

祖父ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルクは軍人で、男爵から伯爵に陞爵された。父レオポルドは外務事務官で、アダム・アルベルトはシュトゥットガルトホーエン・カールスシューレ英語版(高等学校)で学んだ[1]。1789年、フランス革命の勃発と共に軍人となった[1]

フランス革命戦争ナポレオン戦争を戦い、右目の失明をはじめ多数の傷を負った歴戦の勇者としてマリア・テレジア軍事勲章を授与されている[2]。1810年に少将に昇進し、駐ストックホルム軍事外交官となった[3]。1812年、ドレスデンでの各国首脳会議の後、プラハに残留したマリー・ルイーゼに皇后付武官として仕えたことがあった[4]。1814年に大将に昇進した[5]

軍事面だけでなく文化・芸術にも素養があり、また活動的で真面目な人物でもあった[6]

マリー・ルイーゼとの出会い[編集]

平和の門イタリア語版左アーチ側面に施された「1815年のナイペルク将軍のナポリ入城」と題された彫刻

神聖ローマ皇帝フランツ2世オーストリア皇帝フランツ1世)の長女マリー・ルイーゼ大公女(仏:マリー・ルイーズ、伊:マリア・ルイーザ)は、1809年のヴァグラムの戦いにおけるオーストリア側の敗北の後、フランス皇帝ナポレオン1世が彼自身の嫡出子を欲して求婚を受け、これを受諾せざるを得なかった[7]。マリー・ルイーゼは1810年4月1日にナポレオン1世と結婚し、翌1811年3月20日ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ/ナポレオン・フランツ)を出産した。しかしナポレオン1世の敗北が確定的になると、1814年5月21日ウィーンに帰国した[8]

マリー・ルイーゼ自身は、ナポレオン1世が流刑になったエルバ島へ行く意思があった[9]が、未だフランス敗戦後の交渉が終結していない中、オーストリア側としてはこれを阻止する必要があった[10]。皇帝フランツから「どんな手段を講じても」マリー・ルイーゼのエルバ島行きを阻止するための人材を求められ、陸軍参謀総長シュヴァルツェンベルク元帥英語版は、パヴィーアに赴任中だったナイペルク伯爵を推薦した[11]。皇帝の「いかなる手段を講じても」という指示についての解釈について結論は出ず、ナイペルクに委ねられた[12]

1814年7月14日、ナイペルク伯はマリー・ルイーゼの静養先エクス=レ=バンに先回りし、7月16日に彼女を出迎えた[13]。ナイペルクはマリー・ルイーゼの監視と警護のため常に傍らにおり、やがてマリー・ルイーゼにとって必要不可欠な側近となった[14]。ナイペルクは、皇帝から監視の命を受けていることを隠さず、かえって大公女からの信頼を得ていた[15]。同年5月29日、ナポレオン1世の最初の后ジョゼフィーヌが逝去した。これが6月に入ってエルバ島に遅れて伝わると、ナポレオン1世は孤独や経済苦から、マリー・ルイーゼ宛てに8月18日付で厳しい叱責の手紙を送るとともに、直ちにエルバ島に来るよう指示を伝言した[16]

マリー・ルイーゼは8月23日に受け取ったこの手紙に衝撃を受け、また恐怖を感じ、この手紙やナポレオンの指示をナイペルクに打ち明けるとともに、エルバ島行きの意思が完全に潰えてしまった[17]。8月30日の手紙で、帰路のスイス旅行へのナイペルクの同行を父帝に願い出、許可された[18]。22歳のうら若いマリア・ルイーザは、恐怖から脱したことに対し、ナイペルクへ感謝以上の好意を寄せるようになった[19]。ナイペルクは節度を保とうとした[20]が、このスイス旅行中に初めて肉体関係を持った[21]

10月10日、マリー・ルイーゼ一行はウィーンに戻った[22]。すでにウィーン会議が始まっており、ナイペルクはメッテルニヒとの折衝やマリー・ルイーゼへ助言により、ナポリ君主の地位を手に入れられるよう計らった。一方、マリー・ルイーゼの側近モンテベッロ公爵夫人英語版[注釈 1]らが二人の関係の噂を吹聴したこともあって、マリー・ルイーゼはナイペルクとの別れを決心した[23]。真偽不明であるがナイペルクがこの頃自殺を図ったとする説があり、いずれにせよナイペルクも体調を崩していた[24]

1815年2月、ナポレオン1世がエルバ島を脱出すると、ジョアシャン・ミュラは独断でオーストリアと戦い(ナポリ戦争英語版)、ナイペルクは再び北イタリア方面に出征することとなった[25]。続くワーテルローの戦いを目前に、最終的にマリー・ルイーゼ一代限りとして、パルマ公国の君主の地位が与えられることが決定した[26]

ナポリ戦争の間、ナイペルクは最初の妻テレジアと死別した[27]。またナイペルク自身も病となり、ナポリで軍政官を務めた後、プロヴァンスで軍人行政官となった[27]

パルマ公国の政治家として[編集]

関連地(注:国境線は現代のもの)

1815年12月1日、ナイペルクはプロヴァンス地方からヴェネツィアに向かい、フランツ皇帝のヴェネツィア行幸に同行した[27]。同月9日、ナイペルクはヴェネツィアを発って同月12日にウィーンに赴き、パルマ公国の首相及び軍司令官としての命を受けるとともに、マリー・ルイーゼと再会した[27]。1816年4月20日、マリア・ルイーザ女公パルマ公国に到着した。

ナイペルクはナポレオン戦争以来荒廃した農村に対し、軍事費を大幅に縮減して、農業を振興する政策をとった[28]。さらに公共事業も意欲的に進めた[29]。また、街の視察を好んで行い、市民との会話から要望や不満を察知し、清廉な人柄でイタリア人の信頼を得た[30]

1818年5月1日、マリア・ルイーザとの間に第1子長女アルベルティーネドイツ語版 が誕生するが、当然、このことは伏せられ、オーストリア本国も気づかないほどだった[31]。1819年8月9日に第2子長男のヴィルヘルム・アルブレヒトドイツ語版 も誕生した。

1821年5月5日、ナポレオン1世が逝去した。同年8月8日、マリア・ルイーザ女公とナイペルク首相は極秘裏に再婚した[32]。8月15日に女児が誕生したが、生後すぐに逝去した[32]

1820年代以降、ナイペルク首相はたびたび狭心症の発作を起こすようになった[33]。1828年夏、女公がウィーンに帰省しナポレオン2世や親族と過ごすのに付き従った後、帰路、トリノで狭心症の重い発作を起こした[33]水腫を併発して不治であると診断を受け、翌1829年2月22日に逝去した[34]

マリア・ルイーザは葬儀を国葬として聖パウロ教会英語版で行ったが、結婚を公にしておらず未亡人としては参列できなかった。ナイペルクは遺書により、二人の子供を皇族に列するよう皇帝に求めていた[35]。同年3月、マリア・ルイーザ女公はメッテルニヒ宰相の調査に対し事実を告白すると、父フランツ皇帝は寛大に許し、皇后カロリーネ・アウグステも女公を激励した[36]

二人の子供は「モンテヌーヴォ」の姓を与えられて貴族に叙された。「ナイペルク」はドイツ語の「ノイエ(新)」「ベルク(山)」のそれぞれ転訛で、「モンテ(山)」「ヌーヴォ(新)」もイタリア語で同義である[37]。一方、ナポレオン2世は、父ナポレオン1世の存命中に母が「不義」の末に異父弟妹を儲けていたことに強い衝撃を受けた[38]。女公は、1834年2月17日に首相のシャルル・ルネ・ド・ボンベル英語版と再婚した。

パルマ公国は、1847年12月17日に女公が逝去すると、再びブルボン=パルマ家が統治し、1860年にサルデーニャ王国へ併合された後、イタリア王国に統一された。

子女[編集]

ナイペルク伯爵一家(1810年頃画)

最初の妻テレジアとの間に4男がある。

二番目の妻マリア・ルイーザ女公との間に2男2女がある。貴賤結婚となるため極秘であったが、最終的に「モンテヌーヴォ」の姓を与えられて貴族(伯爵のち侯爵)となった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ナポレオン1世の親友ジャン・ランヌ元帥の夫人で、愛国心が強かった。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 塚本哲也『マリー・ルイーゼ―ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ―文藝春秋、2006年4月1日。ISBN 978-4163680507

関連項目[編集]