鵠沼村
くげぬまむら 鵠沼村 | |
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廃止日 | 1908年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 藤沢大坂町、鵠沼村、明治村→藤沢町 |
現在の自治体 | 藤沢市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 神奈川県 |
郡 | 高座郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
2,695人 (1907年) |
隣接自治体 | 高座郡藤沢大坂町、明治村、鎌倉郡村岡村、川口村 |
鵠沼村役場 | |
所在地 | 神奈川県高座郡鵠沼村字中井 |
座標 | 北緯35度20分15秒 東経139度28分23秒 / 北緯35.3375度 東経139.473056度座標: 北緯35度20分15秒 東経139度28分23秒 / 北緯35.3375度 東経139.473056度 |
ウィキプロジェクト |
鵠沼村(くげぬまむら)は、神奈川県の中央南部、高座郡に属していた村。
地理
[編集]東は境川を境に鎌倉郡川口村と接し、西は引地川を境に明治村と接する。
北辺は東海道とそこから分かれた鎌倉道で藤沢大坂町と接し、南は相模湾の海岸線である。
海岸平野の湘南砂丘地帯にあたり、全般に砂地で北西部では東西方向、中央部では北東-南西方向、東部では東西方向の顕著な砂丘列が見られ、海岸部には海岸線に平行する砂丘列が見られた。
集落・耕地は北西部に限られ、南東部は広大な砂原が展開していた。ここは、相州炮術調練場(鉄炮場)の跡地であり、耕作が禁止されていたためである。
北西部の集落は平安時代末期以来の伝統を持つ宮ノ前、上村(かむら)、宿庭(しゅくにわ)、清水、苅田、大東、仲東、原、堀川の9町内に分かれ、皇大神宮の氏子集落として、「本村」と呼ばれてきた。鎌倉時代には境川の渡津集落として東部に砥上(石上)が形成され、江戸時代初期、東海道が整備されると、街村の引地、車田が形成された。江戸時代中期には中央部に新田が開発され、新田、納屋(なんや)の集落が形成された。明治時代前期の鵠沼村では、これら14の集落のみであった。
産業は自給的な半農半漁であり、鉄道開通を機に商業的な農業も始まった。代表的な作物にモモとサツマイモが挙げられる。養蚕業も若干見られたが、あまり盛んではなかった。1895年には若尾幾造が鵠沼村石上に盛進社若尾製糸場を始業した。釜数=200、当時藤沢地域では最大の工場だった。
鉄道開通を機に海岸部の開発が始まった。鵠沼海岸海水浴場の開設と3軒の旅館の開設である。砂原に道路網が敷設され、クロマツが植栽されて、日本初の別荘分譲地「鵠沼海岸別荘地」の開発も始まったが、本格化したのは江之島電氣鐵道開通後である。
明治時代初期の戸数は300弱、人口は2,000弱であり、1902年になっても370戸、2,830人という数字が記録されている程度であった。
歴史
[編集]元来は砂地の原野で、「砥上ヶ原」の名で知られた。弥生時代以来の遺跡が見られ、奈良時代の記録には高座郡(たかくらごおり)土甘(とかみ)郷と出てくる。平安時代末期以来大庭御厨鵠沼郷と呼ばれ、鵠沼村の名は安土桃山時代の1559年、岩本太郎左衛門定次(北条家御馬廻役)知行地となった段階から用いられたようである。江戸時代は藤沢宿代官支配下の幕領と旗本の布施家、大橋家(2代のみ)の知行地、および寺領に分けられた。村落は自給的な半農半漁村であったが、1694年以来東海道藤沢宿の助郷村、1728年に開設された相州炮術調練場(鉄炮場)を支える村としての役割も担わされた。
沿革
[編集]町村制施行前
[編集]- 1872年(明治5年)7月12日 - 鵠沼学舎(後の鵠沼小学校)、鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設。
- 1873年(明治6年)5月1日 - 区・番組制施行、鵠沼村は第17大区・第2小区となる。小字・番地の制定。
- 1874年(明治7年)7月6日 - 区番組制を改め大小区制を実施する。鵠沼村は第18大区第2小区。
- 1877年(明治10年)5月22日 - 鵠沼学舎、校舎が新築され、第87番小学鵠沼学校と改称。
- 1878年(明治11年)12月1日 - 神奈川県、大小区制廃止。鵠沼村となる。
- 1884年(明治17年)5月7日 - 郡区町村編制法の改正。鵠沼村は羽鳥、大庭、稲荷、辻堂と連合。
- 1886年(明治19年)7月18日 - 鵠沼海岸で海水浴場開場式開催。提唱者の三留栄三医師、飲酒後泳いで溺死。
- 1887年(明治20年)7月11日 - 鵠沼村中央部を横断して鉄道(後の東海道本線)、横浜-国府津間開通、藤沢停車場開業
町村制施行後
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行[1]、鵠沼村は連合組織から分れ1村で独立[2]、役場を字中井におく。
- 1892年(明治25年)3月19日 - 第87番小学鵠沼学校、尋常鵠沼小学校と改称。
- 1902年(明治35年)4月 - 尋常鵠沼小学校が尋常補習科を廃して高等科を併設し、尋常高等鵠沼小学校となる。
- 1903年 - 字下鰯の細川家別邸内に慈教庵(本真寺の前身)建立。開山は颯田本眞尼(1845年-1928年)。
- 1906年(明治39年)10月9日 - 東京の大給子爵邸にあった賀来神社を鵠沼停留所前に遷座。
経済
[編集]- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、鵠沼村の篤農家は「伊藤将行、斎藤彌五右衛門、斎藤兵府」などである[3]。
地域
[編集]教育
[編集]- 尋常高等鵠沼小学校(現在の藤沢市立鵠沼小学校)
交通
[編集]鉄道路線
[編集]隣接市町村へは、江之島電氣鐵道にて藤沢大坂町および川口村へ連絡する。
道路
[編集]- 國道2號(旧東海道、現在の神奈川県道43号藤沢厚木線) - 北端部が接していた。
- 江の島道 - 江島神社への参詣道路であり、境川に石上の渡しが設けられた。ここに山本橋(現在の上山本橋)が架橋されたのは1873年である。
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
[編集]- 皇大神宮(神明宮・烏森神社) - 例祭は8月17日
- 賀来神社
- 鵠沼山万福寺(浄土真宗大谷派)
- 金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)
- 密厳山遍照院普門寺(真言宗)
- 善光山天龍院法照寺(浄土宗)
- 慈教庵(浄土宗)
- 鵠沼海岸海水浴場
脚注
[編集]- ^ 1889年(明治22年)3月11日神奈川県令第10号『市制町村制施行ノ件 (明治22年神奈川県令第10号)』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 1989年(明治22年)3月31日神奈川県令第9号「町村分合改稱」別冊
- ^ 『大日本篤農家名鑑』274頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]藤沢大坂町 | 村岡村 | |||
明治村 | 川口村 | |||
鵠沼村 | ||||