難波大助

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難波大助

難波 大助(なんば だいすけ、1899年11月7日 - 1924年11月15日)は、山口県光市出身の共産主義者テロリスト1923年に当時の摂政である皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)を銃撃し(虎ノ門事件)、大逆罪死刑に処された。父親の難波作之進庚申倶楽部所属の衆議院議員であった。

生涯

思想背景

難波は山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現在の光市立野宮河内)の名家に生まれた。

徳山中学(現在の山口県立徳山高等学校の前身)時代は父親の影響を強く受け皇室中心主義であり、『大阪朝日新聞』の非買運動を行うなどしていたが、中学5年生の時、田中義一陸軍大臣が山口に帰省した際に強制的に沿道に整列させたことに憤慨し、思想的な変化が芽生えたという。

1919年に予備校に通うため上京し、四谷に居住することになる。貧民窟として知られる鮫ヶ橋(鮫河橋とも表記。現在の東京都新宿区若葉)の側ということもあり、それらの実情を目の当たりにしたことや河上肇の『断片』などを読み、次第に社会に対しての私憤を募らせていった。大逆事件に関する裁判記事なども読み漁っていたという。この頃に参加した社会主義同盟の講演会において、警官の横暴を目撃したことがテロリストになる転機となった[1]

1922年早稲田第一高等学院に入学したが1年で退学。日雇労働者として生活していく中、暴力革命共産主義に染まっていった。一時は個人的テロよりも労働者の団結を重視しはじめたが、関東大震災において大杉栄などの社会主義者(甘粕事件)などが殺されたこと、労働者運動を弾圧した亀戸事件などを受け、テロリストとして活動する決意を再び固めた。プロレタリアの皇室崇拝の念を打破するため、皇室へのテロを企図する。テロの目標は脳病で執務能力を失った大正天皇より、摂政の裕仁親王(のちの昭和天皇)がよいと考えた。

虎ノ門事件

難波は関東大震災を前後し、しばしば山口へ帰省している。父のすすめで始めた狩猟をきっかけとして仕込み型のステッキ散弾銃を入手し、皇室に対するテロの実行を決意した。なお、このステッキ銃は伊藤博文がロンドンで購入したものが人を介する形で難波の父に渡ったものと言われている。実行に際し狂人扱いされることを避けるため、新聞社などにテロ決行と共産主義者であることを伝える趣意書を送付し、友人には累が及ばないように絶交状を送付した。

1923年12月27日、虎ノ門で摂政宮を近接狙撃するが失敗、「革命万歳」と叫び逃走を図ったが、激昂した周囲の群衆の暴行を受けるなかで、警備の警官に現行犯逮捕された。

内閣は責任を取り総辞職、関係諸官は処罰された。その中には警視庁警務部長正力松太郎もいる。

裁判

この当時、大逆罪は初めから大審院で審理された。難波を精神病患者とすることは不可能であったため、政府や検察は「自己の行為が誤りであったと陳述させ、裁判長は難波の改悛の情を認めたうえで死刑の判決を下すが、摂政の計らいにより死一等を減じ無期懲役とする」ことが天皇の権威を回復するための最も良い手段であると判断し、そのように動いた[2]

予審は長引いたが、難波が反省陳述することをようやく認めたため、1924年10月1日に傍聴禁止の措置が取られた上での公判が開かれた。この審理の最終陳述で難波は前の反省陳述を行わず、次のように述べた。

「私の行為はあくまで正しいもので、私は社会主義の先駆者として誇るべき権利を持つ。しかし社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう。皇太子には気の毒の意を表する。私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。」 — 最終陳述(抜粋)、今井清一『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』p416より引用

これを受け大審院は11月13日、難波に死刑を宣告せざるを得なくなった。その際難波は「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」と三唱したとされる。難波の処刑は15日に執行された。死体は父親が引き取りを拒んだため、無縁仏として埋葬された。その際、難波の遺体を引き取りに出向いた自然児連盟山田作松横山楳太郎荒木秀雄アナキストが検束されている。

父・難波作之進は、事件当日に衆議院議員を辞職。大助の死刑執行後は光市の自邸の門に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくり、閉門蟄居して食を絶ち、半年後に餓死した。

難波の生家は今も光市立野に存在する。屋敷の中にある土蔵の「向山文庫」は山口県初の図書館として光市指定文化財に指定されているが、整備はされていない。

その他

日本赤軍のメンバーの岡本公三は1972年5月にテルアビブ空港乱射事件を起こす際に「ナンバダイスケ」の偽名を用いた。

脚注

  1. ^ 児島襄の『天皇(1) 若き親王』(文春文庫)では、父親が家族に倹約を強い、その苦労で母親が亡くなった(と大助は認識していた)のに、その後父親が衆院選に出馬したため、選挙に出るような金があったのに家族に倹約を強いた父に対する憤りが、父の崇敬する皇室に向かったことが動機とされる。
  2. ^ 今井清一『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』による

関連項目

参考文献

外部リンク