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雑賀衆

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雑賀衆(さいかしゅう)は、「さいが」とも読み、また、史料に見られる「惣国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」という五つの地域(五組・五搦などという)から成り立っている。すなわち、雑賀衆とは、この五つの地域が地縁により結びついている一揆集団である。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。又海運貿易も営んでいた。

概要

雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の鈴木氏などが知られている。

雑賀衆は15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。

「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、本願寺蓮如の子である実従の「私心記」1535年6月17日条であり、「雑賀衆三百人計」が大坂本山に来援した、とある。そしてこの翌年2月には本願寺証如からこの時の活躍について感謝状(「本願寺文書」)が出されている[1]

顕如画像

1570年(元亀元年)に織田信長三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫一(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍についた。一方足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し織田信長軍についた。その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが『戦国鉄砲 傭兵隊』によると、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している。しかし石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺につき織田信長軍と戦った。しばしば鉄砲を有効に活用したとされる織田軍も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦し、一度は信長自身も負傷する大敗を喫したことがあった(石山合戦)。

信長は本願寺を倒すためにまず雑賀衆を抑えることを考え、1577年(天正5年)に信長自身率いる大軍をもって和泉国河内国から紀伊に侵攻(第一次紀州征伐)し、雑賀衆に服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担した。

1580年(天正8年)に門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた。そして畠山政尚を奉じて信長と争う姿勢を示す。しかし、これ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。

以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする秀吉政権の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1585年(天正13年)、家康と和解した秀吉が紀伊に攻め入ってくる(千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)と焼き討ちされた根来寺に続いて雑賀に対して攻撃が加えられ、雑賀衆は抵抗したがかなわずに壊滅した。

かつての雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、雑賀衆は歴史から消滅した。雑賀孫市の嫡男といわれる沙也可は、加藤清正の配下として文禄・慶長の役に出陣したが、渡海後すぐに祖国を捨てて朝鮮側に付き、多数の同胞を殺害し、雑賀衆が産んだ売国奴としてその歴史に大きな汚点を残した。

根来寺の大塔/国宝
火縄式鉄砲

根来衆との関係

根来衆と雑賀衆は、一部には混同される記述も見受けられるが、全く異なる点と極めて似通っている点がある。[要出典]雑賀衆は鈴木重秀土橋守重を始め、石山御坊などに籠城しているところから、浄土真宗門徒と考えられるが、根来衆は根来寺を中心とした真言宗の僧徒らの集団を指している。戦国時代には一説によると寺領が50万とも70万石とも言われている。根来寺のは教学や儀式をつかさどる「学侶」と堂塔の管理や寺の防衛をつかさどる「行人」と分けられ、根来衆の大半は行人でしめられている。行人とは僧兵のことで根来衆は僧兵集団と解釈される場合もある。一方雑賀衆には、行人や僧兵と言われる人たちはいなかったと思われている。現在の和歌山市の全域と海南市の一部に、沢山いた土豪の集まりで、地域と密着した集団が雑賀衆と思われている。似通っている点としては優秀な鉄砲集団、傭兵集団で、地域も近く人的な交流もさかんであったと思われ、根来寺に入信後、後に雑賀衆として活躍したり、その逆も多々あったようである。[要出典]雑賀衆の各郷(雑賀荘・十ヶ郷・中郷・社家郷・三上郷)の家からは、根来寺に塔頭を立て、子弟を入れていた。特に有名な家として、十ヶ郷の土橋氏は泉識坊、中郷の岩橋氏は威徳院等がある。

鉄砲と雑賀衆

鉄砲伝来天文12年(1543年)8月に鉄砲が種子島に我が国で初めて伝来したと思われている。その後根来寺の僧津田算長らが畿内に持ち帰っており、根来衆経由で雑賀衆に持ち込まれた可能性が考えられている(鈴木 2004)。根来衆の佐武伊賀守が天文18年(1549年)に鉄砲を習い始める、という記述が見受けられるので恐らくこの以前には根来衆に伝来していたと思われている。

根来衆には一定量の鉄砲があったと思われているが、これらの鉄砲をどのようにして用意できたのか、現在に至り明確には解っていない。説としては、堺より外国から移入した、地元で作られた、当時は鉄砲作成技術はなく他の地域より職人を招いたなどが言われているが、いずれも推測の域を出ない。仮に鉄砲を自前で作成していたとしても、雑賀には鉄砲の材料となる真鍮黒色火薬の材料となる硝石が生産されておらず、入手経路等を示す資料は解っていない。

ただし硝石はそもそも雑賀に限らず日本国内において天然で産出せず、外国からの輸入に依存していたものであり、海運を営んでいた雑賀はむしろ入手が容易な立場である。

雑賀衆の構成

雑賀衆は、「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の5つの地域から成り立っている。雑賀衆の運営については先に挙げた5つの地域から出される代表者が行ったと考えられている。また、各地域の代表者は輪番制とされていたとも考えられている。その地域の代表者がわかる史料の一つに、永禄5年(1562)7月吉日付「湯川直春起請文」がある。

脚注

  1. ^ 鈴木眞哉『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』平凡社新書2004年、pp.78-79

参考文献


関連項目

外部リンク