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酸素魚雷

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酸素魚雷(さんそぎょらい)とは魚雷の一種。酸化剤として空気の替わりに酸素を用いたもの。単に酸素魚雷といった場合、第二次世界大戦中、唯一の実用兵器として運用された大日本帝国海軍九三式魚雷もしくは九五式魚雷を指すことが多い。

概要

酸素を酸化剤とする利点が多いことは広く知られていたが、同時に酸素の反応性の高さから、燃焼開始時などに容易に爆発するという技術上の問題点が立ち塞がっており、各国ともに開発に力を入れていたものの頻発する爆発事故で中止の止む無きに至っていた。1933年(昭和8年)、日本は世界に先駆け開発に成功、以降、大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となる。酸素魚雷は当時の一般的な魚雷と比べ、雷速(魚雷速度)、炸薬量で勝り、射程は数倍、加えて無航跡という高性能なもので、米軍はこれをロング・ランス(長槍)と呼び恐れ警戒した。しかしながら、整備性は良好とはいえず、爆発を防ぐため充分なメンテナンスを要し、また、速すぎる雷速の為、船底爆破用の磁気式の信管が使用できず、接触式信管を採用せざるを得ないなどの短所もあった。後に日独技術交換により大日本帝国海軍からドイツ海軍へも試験供与されたが、整備性の悪さなどからUボートでの使用には適さないとされ採用されていない。

現在では整備性を向上させた他方式の魚雷がほとんどになっている。ソビエト海軍では主力魚雷を電池式と酸素式の2方式配備しており、ロシア海軍でも酸素魚雷の運用が継続されている。これは第二次大戦で鹵獲された独魚雷の系譜を引いたもので、独魚雷の改良型であるET46[電池式、採用1946年(昭和21年)、射程6km、速力31kt、炸薬450kg]から冷戦初期のSAET55M[電池式、音響誘導、採用1955年(昭和30年)、射程6km、速力29kt、炸薬300kg]から冷戦末期のUSET80[新型電池式(銀・亜鉛式、充電保存期間1年)、対潜対艦併用アクティブパッシブ音響誘導式航跡追尾機能、採用1980年(昭和55年)、射程18km、速力40kt、炸薬300kg、作戦深度1000m超]の信頼性と静粛性を併せ持つ高性能電池式を用いながら、より高速で長射程な56-65M[ケロシン・過酸化水素タービン式、アクティブ音響誘導式、採用1969年(昭和44年)、射程12km、速力68.5kt、炸薬307kg、作戦深度2-14m]を併用しているものの、攻撃原潜クルスクの爆沈の原因となったように、過酸化水素式には特有の整備性の悪さ(爆発事故等の多発)があるため、新型のケロシン・酸素タービン式が開発され使用されている[1]

また、海上自衛隊でも試製54魚雷で電池式を採用したものの、72式長魚雷では酸素式を採用している。これらの酸素魚雷は過酸化水素(過酸化水素をヴァルター機関の燃料として利用している魚雷もある)を使用しており、これらは大日本帝国海軍が装備した酸素ガスを高圧充填していたものとは世代が異なるものである。本項では、大日本帝国海軍のものを主題として述べる。

日本の酸素魚雷

大日本帝国海軍ではワシントン軍縮会議の結果がもたらした不利を克服するため、魚雷を主力装備と位置づけ、戦術と併せて開発を進めた。

本来魚雷は日本海海戦で示された通り、主力海戦で傷ついた敵艦隊に対する至近距離からの「とどめ」としての使用が考えられていた。しかし冷走魚雷 - 乾式魚雷 - 湿式魚雷と構造的発展が得られ材料強度の向上、続いて大型化、多連装化などの発展によって第一次世界大戦では昼間海戦でも主力艦に対して打撃を与えうる戦例が見られるようになった。そこで大日本帝国海軍では列強の先端を行く主力艦の水線下防御を突破して確実に撃破しうる大型魚雷装備の大型駆逐艦「睦月型」の導入に踏み切っていった。

魚雷は長い航走時間を必要とするため、未来位置算定が困難で命中精度が低い物と捉えられがちであるが、艦砲のように間接射撃を必要としない兵器である。艦砲が予想未来位置に対する「測距と測角」(砲の仰角と方位)を必要とするのに比べて未来位置算定の為の測距と「測角」でよい有利さを持っている。測定誤差は角度より距離の誤差の方がかなり大きいからであるが、間接射撃において誤差の出た距離による命中率の低下がそれを更に累増させる事にもよる(直接照準射撃をする戦車砲は700mの戦闘照準で0 - 1,000mの全てで命中の可能性があるが、間接射撃・弾着修正射撃の艦砲射撃では20,000m先の前後100mしか命中弾が出ない=水雷戦も未来位置算定以外の照準は0 - 最大射程で命中の可能性がある)。その結果第一次大戦の戦訓による魚雷側の「主力艦同士の砲戦など未来位置の誤差が出にくい状況での」実用的な交戦距離は数千m程度にまで拡大していた。


また魚雷は構造上演習時には炸薬に換えて水などを充填する事が出来る。この水は気室内の空気により排出する事が可能で、主力艦艦砲の様に砲身の損耗を嫌うことなく演習発射 - 回収を行えるため、実弾発射訓練が比較的可能であり練度を上げやすい性質も持っている。

魚雷の推進用スクリューを駆動するエンジンの燃料である酸化剤には、開発以来長年の間、内部タンクに圧縮搭載した空気を用いていたが、空気の80%を占める窒素が排気として水中に大量に放出される。窒素は水に溶けない為、気泡による航跡ができた。

この窒素を酸素量に置き換えると、より多量の炸薬を搭載し、高速かつ大射程という理想的な能力を高い次元で設計できる。これにより実用有効射程は5,000m程度から20,000 - 25,000m程度(主力艦砲戦の想定距離)に伸び、高速(50ノット程度)での攻撃が可能となる。従来は有効射程まで接近しないと不可能だったものが、手段は違えど同距離から打ち合える兵器の出現となった。

これに対して、更に戦術的な酸素魚雷の最大の特徴は雷跡(魚雷の航跡)が目立たないということだった。酸素を酸化剤として使用する酸素魚雷では、発生する二酸化炭素が比較的水に溶けやすいため、雷跡は試射場でも目視困難だった(「発見しにくい=回避される可能性が低い=より命中し易い」手段でもあった)。

九三式魚雷(ガダルカナル島のクルツ岬で回収され、第二次世界大戦中、ワシントンD.C.アメリカ海軍司令部の外に展示されていた)

他国でも酸素を燃焼時の酸化剤に用いるメリットは認識していたが、実際に試作品を作ると爆発事故が多発したため、実用化を断念した。世界で初めて開発に成功したのは大日本帝国海軍の九三式魚雷で、1933年(昭和8年)、呉海軍工廠魚雷実験部において、発射実験に成功し、岸本鹿子治実験部長(のち、三菱重工業長崎兵器製作所第四代所長)、朝熊利英設計主任らを中心に研究が進められ[2]、2年後に潜水艦用直径53cmの九五式魚雷の開発に成功した。その後、長崎兵器製作所において、潜水艦用を受注、椋木寿技師が出張研究に呉へ派遣され、1937年(昭和12年)から量産を開始した。(長)印の魚雷は、終戦まで約2,700本が生産された。(長)印の魚雷は、「呉生まれよりも長崎生まれの方が優秀」と、連合艦隊の折り紙がつけられた。なお、これらの発射テストは一本一本、大村湾堂崎鼻において何度も繰り返され、完成度(安全性、直進性など)が飛躍的に向上した。特に、他国の爆発事故を尻目に徹底した安全管理が為され、爆発事故は無かった。

日本は「イギリスが酸素魚雷を試作している」との情報に基づき、列強の中でも遅ればせながら開発を始めたが、綿密な研究の末に爆発を防ぐために始動時には空気を使用し、徐々に酸素濃度を高くしていくシステムを採用し、安全な酸素魚雷の開発に成功した。ただし整備・調整には、配管内の油分を完全に除去するため、4 - 5日間の事前整備作業日数を必要とした。太平洋戦争中に遣独潜水艦作戦によってドイツ海軍は九五式酸素魚雷を入手したが、研究目的での利用にとどめ、実戦においては使い勝手の良い電池式魚雷のみを使用した。

酸素魚雷は始動直後の燃焼には空気を使用していたため、駛走開始から数百m以内は航跡が残った。九三式魚雷の後期型は空気の代わりに四塩化炭素を使用した。

もう1つの特徴は、打撃破壊力が大きいことであった。この為、巡洋艦級軍艦でもこの魚雷を1本被雷しただけで大破したケース(ルンガ沖夜戦)もあり、アメリカ海軍は酸素魚雷を「ロング・ランス(長い槍)」と呼び、日本駆逐艦との海戦の際には「敵に柔らかい横腹を見せるな(魚雷発射態勢に持ち込まれるな)」が連合軍の合言葉になったといわれる。大戦末期の大日本帝国海軍は制空権を失い、実戦では活躍は少なくなったが、フィリピン・レイテ島のオルモック湾海戦(1944年12月3日)において、日本の駆逐艦「」が、この魚雷によりアメリカ海軍の新鋭艦隊駆逐艦「クーパー」を撃沈している。

更にそれまでの空気魚雷との相違点として、湿式機関に必要だった真水タンクを搭載していない。従来の魚雷は湿式機関として加水燃焼ガスを使う方式であった。これは燃焼ガスに魚雷内のタンクに積んだ真水を噴霧し、石油燃料の拡散率の向上と水蒸気爆発を利用することにより、エンジンの燃焼効率と馬力を大きく向上させていたが、九三式魚雷では高純度酸素と石油燃料(灯油)の高圧混合ガスを燃焼する方式をとったため、出力馬力が非常に強力になったとともに、燃焼用の真水タンクは不要となった。この魚雷から、機関室区画には海水が入るようにして、内蔵の小型ポンプで海水によるエンジンの冷却を補助していた。

大和ミュージアムに展示されている九五式魚雷

1942年に酸素魚雷の長距離駆走により、ガダルカナル戦での米戦艦ノースカロライナ」を撃破した。これは伊号第一九潜水艦が発射した九五式酸素魚雷6本のうち3本が航空母艦ワスプ」に命中し撃沈、外れた魚雷が5海里(約9.3km)の長距離を走って偶然射線上に居合わせた戦艦「ノースカロライナ」と駆逐艦「オブライエン」に命中した。これにより「ノースカロライナ」は左舷艦首部水線下に幅10m、高さ7mにも及ぶ大破口が開き中破、「オブライエン」は大破・曳航中に艦体が折れ沈没。この時アメリカ海軍はもう一隻別の潜水艦がいたと考え、一隻だけの攻撃だと知ったのは戦後の事であった。潜水艦搭載用の九五式魚雷は直径が53cmで、日本海軍水上艦艇が搭載する九三式に比較すれば小型で威力は小さいが、実質的には列強の水上艦艇搭載用魚雷と同等以上の性能を有していた。

長射程のため同士討ちを演じた事例もある。太平洋戦争緒戦において1942年3月1日ジャワ島沖で起きたバタビア沖海戦にて、重巡洋艦最上」が米重巡「ヒューストン」を狙って午前1時27分に発射した九三式酸素魚雷6本が目標を捕らえられず、射線延長線上にいた大日本帝国陸軍第16軍主力を載せた味方輸送船団に到達した。午前1時35分に右舷缶室に直撃を受けた第2号掃海艇が轟沈、ほぼ同時刻に第16軍司令官今村均陸軍中将座乗の「佐倉丸」が沈没、「竜城丸」「蓬莱丸」「竜野丸」が大破横転した。今村中将は無事であり、謝罪に来た海軍幹部に対し笑って許したが海軍としては大失態であり、この戦いに参加した部隊の指揮官であった第5水雷戦隊司令原顕三郎少将は戦訓所見として「輸送船団泊地至近ノ海面ニ於ケル戦闘ニシテ、シカモ多数ノ夜戦隊挟撃ノ態勢ニ於ケル魚雷戦ニ於イテハ、射線方向ニ対シテ特ニ深甚ノ注意ヲ要ス」と海戦自体は日本軍の大勝利に終わったにも拘わらず注意を促した。尚、この同士討ちについては、事故当時、現場近くで九三式魚雷の尾部が直後に引き上げられており証拠は歴然としていた。今村中将の好意もあり、戦後"幻の敵襲"という事実が明らかになるまでは「米魚雷艇部隊の攻撃による損害」とされていた。

九三式魚雷は直径61cmの水上用魚雷で、40ノットの高速でも30km以上の射程を持つ優秀な魚雷であった。主に駆逐艦に搭載され、搭載する駆逐艦には空気から酸素を抽出するための酸素生成用の空気圧縮機が搭載されていた。魚雷に酸素が使用されていることは極秘事項であったため、防諜上の理由から酸素は『特用空気』『第二空気』と呼ばれた。(九三式魚雷を含む)日本製魚雷は実施部隊での信管の調整が可能とされており、現場では「不発にしたくない」という意識から衝撃尖を過敏に設定していたことが多く、それはしばしば目標に命中する前に自爆する「早爆」となった。第三次ソロモン海戦においては重巡「愛宕」、「高雄」が最良の射点から発射した九三式魚雷が戦艦「ワシントン」に命中直前の位置まで達したが、ワシントンの航跡波(縦波、P波のこと)による衝撃で駆走中に早爆をおこした例があった。命中していればワシントンに甚大な損害を与えたことが予想されたため、設計部門の担当者はこの信管の調整機能をつけたことを「最大の痛恨事」と回想した。

靖国神社遊就館に展示されている回天

太平洋戦争末期には、九三式魚雷は人が乗って操縦できるように改造され、後半のエンジン部基本構造はそのままに、弾頭、全体サイズともに約2 - 3倍に巨大化され、特攻兵器である人間魚雷回天となった。

問題点

ジャイロスコープの不調

スラバヤ沖海戦で2隻の重巡洋艦(妙高と足柄)から各8本、合計16本が発射されたが、水面から飛び出したり迷走するなどして1本も命中しない事態が発生している。これは34ノットの最大戦速での発射を一度も行ったことが無かったため、魚雷のジャイロスコープが高速度から発射した衝撃に耐えられず、針路を調整できずに迷走したためといわれている。魚雷は(戦艦主砲弾ですら付けていなかった)1本毎に記録を取るなど大事に扱われており、極限状態での使用を想定した訓練・実験は行われていなかった。

原因究明の結果、ジャイロスコープの回転数が毎分8千回転と遅く不十分で、衝撃が加わると容易に設定方位がずれるためであった、この欠点はかなり後まで改良されず、回天になって初めて毎分2万回転の電動ジャイロスコープに変更された。

静止状態や丁寧な運用では問題無いが、乱暴な取扱いをするとすぐに動作不良を起こすのは当時の日本軍の兵器全般に言えることであり、かならずしも酸素魚雷だけが欠陥を抱えていたわけではない。用兵側からは「武人の蛮用」に耐えることを要求されていたが、性能および工業的に耐える物は開発できなかったのが実情であった。

遠距離攻撃における命中率低下

音響などの誘導装置を持たないため、遠距離射撃では命中率が低下した。実際、スラバヤ沖海戦では相手は艦隊規模において劣位であったが、高速の部隊であったため、日本海軍艦隊は重巡ですら1隻2,000発近く射耗して命中弾は殆どなかった。その戦場では長射程戦術により10,000m以上での魚雷発射を多用した、日本海軍の魚雷発射総数188本のうち命中したのは4本だった。交戦想定距離20 - 25㎞、52ktで馳走するのに11分近くかかることを考えれば、無誘導魚雷では運動戦中に当たらない。海戦中に相手が戦闘運動している中で長時間変針・変速を一切しないことは考えられず、実際の戦闘で最大射程での発射は行われなかった。また、その長射程を無視して5,000mまで接近して最大雷速で発射しても到達までに3分以上かかり、相手が変針、変速した場合に備えて扇状に発射しているとはいえ、到達までの間に相手が大きく変針すると命中しないため、長射程の利点は緒戦時に実際は余り活きなかった。

長射程での発射が多かったスラバヤ沖海戦においても20,000m近くから発射して命中したのは、オランダ駆逐艦「コルテノール」を轟沈させた「羽黒」の1本だけである。他の3本の命中魚雷はスラバヤ沖海戦終盤、残弾が少なくなり同航砲戦となったオランダ軽巡「デ・ロイテル」と同「ジャワ」に対して重巡「羽黒」「那智」が12,000mから発射した計12本のうち1本ずつが命中したのと、航行不能に陥ったイギリス重巡「エクゼター」に対して命中した1本のみである。この後、日本軍が戦った各海戦において10,000m以上からの魚雷発射は殆ど行われなくなり、九三式魚雷は射程を減らして炸薬量を増やした三型が主流となっていくこととなった。


九三式魚雷の構造と技術

大和ミュージアムに展示されている九三式魚雷推進部

九三式魚雷は酸化剤として酸素を使用する魚雷で、酸素魚雷として知られる。1933年(または皇紀2593年)に制式兵器採用された。九三式という名称はこの年の末尾2桁数字による。この魚雷は、酸素と石油燃料を使用して強力な機関出力を得られたため、炸薬重量の重い弾頭を搭載でき、高速でかつ長射程を得ることができた。また、動作中の排気はほぼ二酸化炭素で、排気の気泡による航跡を消し去った。そのため、日中は発見することは困難だった。しかし、(全ての魚雷に共通するが)熱帯の海で夜間に使用した場合には、魚雷の高速水中走行により夜光虫が発する仄かな光の航跡が発生することは不可避だった。

  • 九三式魚雷の射程と速度の設定例
    • 22,000m / 52ノット
    • 33,000m / 41ノット
    • 40,400m / 36ノット

大日本帝国海軍は九三式魚雷の最大性能仕様を、公的には速度42ノットで射程11,000mと発表していた。これは速度で実際より10ノット遅く、射程は実際の半分である。

戦歴では、九三式魚雷の10,000m(52ノット、時速96km/hで6分15秒)を超える射程は、目標艦船が(魚雷が接近する)数分間にわたって直進するときにのみ有効だった。重巡洋艦隊が戦場を高速で離脱してゆく駆逐艦隊を全速で追跡するとき、あるいは水面下の潜水艦に照準されたまま、航空母艦が予定進路どおり航行するときなど、1942年の南太平洋の戦場で有効性が実証された。

この魚雷は重量が2.8トンから3トン近くあり、弾頭の炸薬は480kgを積む。エンジン推力は64kg、言い換えれば全体重量3トン近い魚雷を速度52ノットで22km(水中を時速96km/h、13分45秒間で射程22kmまで)走行させることができる。

頼淳吾 技術少将は戦後しばらく経過したころ、この九三式魚雷について執筆説明した[3]

九三式魚雷の最大の課題は2気筒機関の始動時の燃焼制御である。始動時にいきなり純粋酸素を使えば、爆発事故が発生する。「燃焼を制御しつつ、純粋酸素を使用する」装置が酸素魚雷の秘密である。

この課題をのりこえるため、九三式魚雷では、始動初期の酸化剤は、比較的低い気圧の空気が使われる。遷移状態では、混合器に送られる純粋酸素の割合を次第に増加する。燃焼は激しくなるが、気筒内の燃焼状態は制御状態にあり、制御不可能な爆発的燃焼は発生しない。定常状態に移行すると、空気は完全に酸素におきかわり、機関は純粋酸素で燃料を激しく燃焼して最高出力状態になる。

九三式魚雷には、純粋高圧酸素に満たされた主気室、結合弁、小さな13リットルの圧縮空気室があり、この結合バルブは逆流を防止している(不帰弁)。そして圧縮空気タンクは調圧器(圧力調整器)を通して燃焼室に導入される。起動時は、通常空気による穏やかな燃焼でスタートし、安定して作動する。圧縮空気が消費されて圧縮空気タンクの圧力が低下するにつれ、結合弁を通して酸素が主気室から圧縮空気室に供給される。圧縮空気タンクはすぐに全て酸素で満たされ、その後は最後まで酸素による猛烈な燃焼が継続する。

この魚雷は慎重な取り扱いを必要とする。九三式魚雷を装備する軍艦はこの型の魚雷を使うために酸素発生器を装備する必要があった。

大日本帝国海軍、呉海軍工廠の水雷設計技手だった赤城良三(海軍技手養成所16期、1943年当時は魚雷実験部および第二水雷部兼務)はノンフィクション作家のインタビューに答え、彼の戦時中のノートを使って実際の九三式魚雷の構造・仕様動作を詳細に説明した[4]

九三式魚雷の内部構造は魚雷先端から、弾頭、気室、前部浮室、機関室、後部浮室、尾部舵、二重反転推進器に分けられる。

九三式改1魚雷は、灯油を燃料とする2気筒斜板機関を装備している。この機関には、機密名「第2空気」(実際には純度98%の酸素)を使う。空気の代りに酸素を使うので馬力があり、高速・長射程で重い弾頭を搭載できる。しかし、空気配管の内部にわずかでも油分が残っていると簡単に爆発事故をおこしてしまう。この配管の整備は九三式魚雷を運用する際には最重要だが、厄介な業務である。事前の整備でバルブと空気配管から油分を完全に除去するには4・5日を必要とする。酸化剤に酸素を使用する機関を実際に使用中、という事は日本海軍では最高機密だった。酸素という言葉は禁止用語とされた。

機密名「第1空気」は機関を始動するために使用される。第1空気は初期圧力230気圧の高圧に圧縮された通常の圧搾空気のことで、13.5リットルの圧縮空気室に満たされている。

機密名「第2空気」または酸素は強力な駆動力を生み出すために使用される。酸素の初期圧力は225気圧で、ニッケルクロームモリブデン鋼(戦艦の防御装甲用に開発された粘り強い特殊鋼)の合金ブロックを機械切削、くり抜きマシニング加工して製作された980リットルの主気室に満たされている。

この主気室の殻の厚さは12mmである。九三式魚雷は長さ9mで直径61cmだが、この第2空気または高圧酸素の主気室は3.48mの長さがあり、魚雷全長の3分の1以上を占める。この主気室は魚雷の弾頭部と後部を接続している。

そして圧縮空気タンクは、比較的低い10気圧程度の一定圧力に保つ調圧器(圧力調整器)を通して混合室に接続されている。混合室では、酸素と石油燃料との混合気が生成され、そして燃焼室に導入される。

混合気は燃焼室に注入され、爆発がピストンを押し下げて1本のメイン・ドライブシャフトを回転駆動する。シャフトには傘歯車が付いていて、2重反転式推進器(4枚羽根)の一方は時計回り、もう一方は反時計回りに駆動する。2重反転推進器を使用することで回転トルクを打ち消し、魚雷の推進方向を安定させている。

魚雷の外部殻は厚さ3.2mmの鋼板(後部のみは1.8mm)で、防水溶接されている。機関部の鋼板は、馳走中に機関の冷却のため、意図的に機関室に水が浸入するように工作されている。

この他に容量40.5リットルの制御用空気タンクがあり、魚雷の縦舵(垂直舵)や横舵(昇降舵)を制御する。これらの舵は横舵用深度計と縦舵用ジャイロスコープで制御され、高圧空気で操舵される。操縦用の制御空気タンク(操縦用気畜器)は230気圧の圧縮空気で満たされている。

深度計は水面下の走行深度を制御する。魚雷は、手動で馳走深度を5mに設定される。水平走行用深度計は水面下の走行を一定深度に保つよう横舵を制御する。

尾部の縦舵計は、縦舵機用ジャイロスコープにより自動操舵して魚雷の進行方向を目標方向に制御する。ジャイロスコープは魚雷を目標に導き、後部発射管から逆方向に発射された魚雷でも回頭させて前方の目標に命中させることも可能である。これらの尾部縦舵と横舵は制御空気で制御される。

ジャイロスコープは魚雷を発射するときに回転し始める。九三式魚雷のジャイロは直径15cm、厚さ7 - 8cmの分厚い円盤で、毎分8,000回転している。しかし、九三式魚雷が軍艦が35ノット以上の最高速度で疾走する状態から発射される状況に対応するには、このジャイロスコープの回転速度では問題があった。

日本海軍は従来、瀬戸内海、広島県・呉市の阿賀南・大入で魚雷実験をしていたが、1933年に長射程の九三式魚雷が登場したため、生産された魚雷の海軍領収時の発射テストのためにさらに大きな場所が必要となった。その後、1937年ごろはすでに、発射試験場は同じ瀬戸内海、広島県の隣の山口県・徳山市の大津島が使われていた(ここからは四国に向けて十分な直線走行距離がとれた)。この基地は後に回天の母港となった。

回天での技術的改善

回天では、ジャイロスコープの回転は圧縮空気駆動から電動になり、その回転速度は20,000回転に改善された。九三式魚雷の炸裂火薬量は480kgで日本海軍の戦艦の16インチ主砲の1t砲弾に匹敵する炸裂火薬量だったが、回天では炸裂火薬量は3倍以上の1.6tに増加された。すでに九三式魚雷の1発の命中はアメリカ艦隊型軍艦を沈没あるいは大破させるに十分な威力を戦歴で示していた。一方、アメリカ海軍は大戦終盤の1945年6月、あるアメリカ駆逐艦(艦名不詳)が洋上攻撃を受けてイ367潜から発進した振武隊の回天1基の命中を認めたが、九三式魚雷の3倍以上の炸裂火薬量をもつ回天の確実な命中を受けたにもかかわらず沈まなかったと主張した。

九三式魚雷は長さ9.61mだが、回天では14.75mに延長された。九三式魚雷の重量は約3tだが、回天では8.3tに増加した。九三式魚雷は水深20mの耐圧があれば十分だったが、回天は潜水艦の外部に搭載されるため、水深80m(潜水艦の深度限界の100mに近い)まで耐えるよう補強された。九三式魚雷は、最大速度52ノットで射程22,000mだが、回天は速度30ノット (55.6km/h) で航続距離23km、速度10ノット (18.5km/h) で航続距離78kmに変更された。回天は水面直下かつ低速での安定した走行性能をもつよう改善された。

要目

  • 九三式酸素魚雷1型(艦艇用)
    • 全長 : 900 cm
    • 直径 : 61 cm
    • 重量 : 2,700 kg
    • 射程 : 36 kt で 40,000 m、48 kt で 20,000 m
    • 弾頭重量 : 490 kg
  • 九三式酸素魚雷3型(艦艇用、炸薬量を 780 kg に増加したタイプ)
    • 全長 : 900 cm
    • 直径 : 61 cm
    • 重量 : 2,800 kg
    • 射程 : 36 kt で 30,000 m、48 kt で 15,000 m
    • 弾頭重量 : 780 kg
  • 九五式酸素魚雷1型(潜水艦用)
    • 全長 : 715 cm
    • 直径 : 53.3 cm
    • 重量 : 1,665 kg
    • 射程 : 45 kt で 12,000 m、49 kt で 9,000 m
    • 弾頭重量 : 400 kg
  • 九四式酸素魚雷1型(航空魚雷 : 短期間で量産中止)
    • 全長 : 670 cm
    • 直径 : 53 cm
    • 重量 : 1,500 kg
    • 射程 : 45 kt で 4,000 m
    • 弾頭重量 : 350 kg
  • 九四式酸素魚雷2型(航空魚雷 : 短期間で量産中止)
    • 全長 : 527 cm
    • 直径 : 45 cm
    • 重量 : 810 kg
    • 射程 : 45 kt で 2,000 m
    • 弾頭重量 : 200 kg
  • (参考)九〇式空気式魚雷(艦艇用 睦月型駆逐艦から初春型駆逐艦までの駆逐艦以下の艦艇に搭載)
    • 全長 : 850 cm
    • 直径 : 61 cm
    • 重量 : 2,500 kg
    • 射程 : 42 kt で 10,000 m、46 kt で 7,000 m
    • 弾頭重量 : 400 kg
  • (参考)Mk.15魚雷(艦艇用 太平洋戦争におけるアメリカの主力魚雷)
    • 全長 : 288 in (731.52cm)
    • 直径 : 21 in (53.34cm)
    • 重量 : 2841 lb (1289kg)
    • 射程 : 33.5 kt で 9,100m、45 kt で 4,500m
    • 弾頭重量 : 375 kg

関連項目

脚注

  1. ^ 世界の艦船2010*9::アンドレイ・ポルトフ
  2. ^ 『連合艦隊の栄光』第六章
  3. ^ 「魚雷」の章(頼淳吾担当)、「機密兵器の全貌」興洋社、1952年
  4. ^ p.327-p.333、第五章:「回天」と「桜花」の狭間、特攻 恩田重宝、講談社、1988年

参考文献

  • 伊藤正徳『連合艦隊の栄光』角川文庫
  • 佐藤和正『太平洋海戦 1 進攻篇』 ISBN 4062037416
  • 佐藤和正『太平洋海戦 2 激闘篇』 ISBN 4062037424
  • 西日本新聞社朝刊長崎版、三菱長崎造船所秘話 74回 『酸素魚雷』、昭和45年9月9日
  • 恩田, 重宝「第五章:「回天」と「桜花」の狭間」『「特攻」』講談社、東京、日本、1988年11月。ISBN 4-06-204181-2 
  • 伊藤, 庸二、千藤三千造、志賀富士男編集「魚雷(頼淳吾)」『「機密兵器の全貌」(興洋社 1952年刊の復刻版)』原書房、東京、日本、1976年2月。ISBN。 

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