コンテンツにスキップ

近衛篤麿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Jkr2255 (会話 | 投稿記録) による 2012年5月14日 (月) 22:27個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:国立国会図書館憲政資料室所蔵文書を除去 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

近衛篤麿
このえ あつまろ
近衞 篤麿
生年月日 1863年8月10日文久3年6月26日
出生地 京都
没年月日 (1904-01-01) 1904年1月1日(40歳没)
所属政党 火曜会
配偶者 近衞衍、近衞貞

在任期間 1896年10月3日 - 1903年12月4日
天皇 明治天皇
テンプレートを表示

近衞 篤麿(このえ あつまろ、文久3年6月26日1863年8月10日) - 明治37年(1904年1月1日)は、明治時代後期の華族政治家。号は霞山近衛家五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓藤原

経歴

生い立ち

1863年文久3年)6月26日、左大臣近衛忠房島津斉彬娘(実は養女)・貞姫の長男として京都に生まれた[1]。ただし父忠房が1873年明治6年)に家督を継がないまま35歳の若さで病没したために、祖父近衛忠煕の養子という形で家督を相続した(文献によって、忠煕六男と記しているものもある)。1879年(明治12年)大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされた。以後は、和漢に加え、英語を独学する。1884年(明治16年)、華族令の制定に伴い公爵に叙せられる。1885年(明治18年)にドイツフランスの両国に相次いで渡り、ボン大学ライプツィヒ大学に学んだ。1890年(明治23年)に帰国し貴族院議員となる。1895年(明治28年)には学習院院長となり、華族の子弟の教育に力を注いだ。

ノブレス・オブリージュを自覚する

近衛篤麿の人となりは剛腹で、自らの地位と身分を深く自覚していた。ヨーロッパの貴族社会を参考に、近代日本においても、自分を含めた華族が社会的に優位な地位にあるものとして、政治的・社会的に「皇室の藩屏」としてその役割を果たすことを強く考えた。そこで学習院の院長として、学習院の教育機関としての組織を整備し、財政を確立することに尽力した。また、学習院で学んだ華族の子弟の進路として、日本を支える外交官や陸海軍人になることを考えていた。

このような社会の先達としての貴族主義から、転じて彼の政治姿勢は、藩閥に対して批判的であったとされる。貴族院の公爵議員として、そして1892年(明治25年)から1904年(明治37年)まで貴族院議長として歴代の藩閥政府には常に批判的であり、第1次松方内閣選挙干渉などを厳しく批判した。他方で政党に対しても批判を加えることを忘れず、政党が猟官主義に走る単なる「徒党」と化していることを嘆いていた。

アジア主義の盟主として活躍

近衛篤麿の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。1891年(明治24年)に東邦協会の副会頭に就任。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。1898年(明治31年)に同文会を設立したが、同文会は、犬養毅東亜会と合併して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。かくて、民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を目論んだ。東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一両江総督)や張之洞湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。

そうした中1900年(明治33年)6月、中国の華北満州(現在の中国東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。そこで近衛は犬養・陸羯南頭山満中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの近衛の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。また、1903年(明治36年)には対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。

しかし、将来を嘱望されていた矢先、1904年(明治37年)1月1日に死去。享年42(満40歳没)。中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因であった。近衛家菩提寺である大徳寺京都市北区)に葬られた。

死後、多額の借財があり、篤麿存命中に近衛家に出入りしていた者が手のひらを返すような態度に変わったため、長男近衛文麿は人間不信の念を強くしたとされる。

家族

著作

  • 近衛篤麿 著・近衛篤麿日記刊行会 編『近衛篤麿日記』第1~5巻・別巻 (鹿島出版会、1968~69年)

参考文献

昭和13(1938)年刊の復刻版、解説付。

脚注

  1. ^ 但し、島津家側の資料では「光蘭夫人(=貞姫) 篤麿養母」と書かれており、疑問もある。参考文献『日本の肖像』8巻「鹿児島・島津家」毎日新聞社

外部リンク


先代
蜂須賀茂韶
貴族院議長
第3代:1896年 - 1903年
次代
徳川家達