コンテンツにスキップ

角田和男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。222.1.51.174 (会話) による 2012年4月20日 (金) 14:13個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎太平洋戦争)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

角田 和男
1945年終戦直後、台中にて
渾名 つのさん
生誕 1918年(大正7年)10月11日
千葉県安房郡豊田村
所属組織 日本海軍
軍歴 1934年 - 1945年
最終階級 海軍中尉
除隊後 農業
テンプレートを表示

角田 和男(つのだ かずお、1918年(大正7年)10月11日 - )は、大日本帝国海軍軍人戦闘機操縦士。最終階級は海軍中尉

経歴

少年時代・海軍入隊

1918年(大正7年)10月11日千葉県安房郡豊田村で農家の次男として生まれた。1924年(大正13年)に父が死亡し、折からの不況もあって家は貧農だったという。高等小学校2年時に海軍予科練習生を受験したが不合格。卒業後実家の農業を手伝いながら浪人生活を送り、翌年には合格し1934年(昭和9年)6月に予科練5期生として横須賀空に入隊した。1937年(昭和12年)8月予科練を卒業し、霞ヶ浦空で飛練を、佐伯空戦闘機操縦訓練を受け、1938年(昭和13年)実戦部隊である大村空、11月には空母「蒼龍」乗組みとなった。

日中戦争

1939年(昭和14年)11月「蒼龍」は南支方面に進出、角田らは洋上から南寧攻撃に参加し、これが初陣となった。12月、開設したばかりの百里原空で教員勤務。

1940年(昭和15年)2月、12空に転属となり漢口に赴任した。当初は96艦戦装備であったが7月から零戦が配備され、角田も零戦の訓練に当たった。12空の零戦隊は9月以降活躍を続けていたが、角田は巡りあわせが悪く中々会敵の機会は無かった。10月26日成都攻撃に向かう途中、中国軍機の編隊と空戦になり、角田もフリート練習機1機を撃墜した[1]。初撃墜であったが、性能の差があり過ぎた事と中国軍機にまるで戦意が無かったので、「子供相手に本気で喧嘩したような後味の悪さが残った」と回想している[2]

11月には内地に帰還し、筑波空の教員となった。

太平洋戦争

1942年(昭和17年)4月1日、海軍飛行兵曹長に昇任。同日より横須賀海兵団で准士官学生教育を受けた。終了後の5月31日、開隊したばかりの2空配属となり横須賀で練成、7月に出動命令を受け八幡丸に人員・機材を積み込み31日ラバウルへ出航した。

2空は8月6日ラバウルに進出。翌7日米軍のツラギ島ガダルカナル島への上陸が始まり、ラバウルも空襲を受けた。角田らは迎撃に上がったが被弾して不時着。まともに撃ち合った空戦は初めてで、地上に降りたときには足と声が震えていたという[3]。この日以降、角田はソロモン海域で数多くの空戦に参加した。出撃は殆どの場合中隊長任務だった。1943年(昭和18年)6月、角田には内地帰還命令が出て厚木空練成教官となった。この時点でラバウル進出時の搭乗員生き残りは角田ら3名だけだった。

1944年(昭和19年)3月、252空に転勤した。252空は前月マーシャル諸島で壊滅、国内で再建を始めたばかりであり、角田は戦闘302飛行隊分隊士として館山三沢で隊の練成に当たった。5月に海軍少尉任官。6月21日以降、米軍によるマリアナ進攻にともない、角田ら252空は硫黄島に進出したが、米機動部隊の3度に及ぶ空襲及び艦砲射撃により、零戦62機全機を失い壊滅した[4]。一旦輸送機で館山に帰還し零戦をかき集めて、7月13日から8月20日まで硫黄島に再進出した。この期間はマリアナより飛来する偵察機・爆撃機の迎撃、対潜哨戒が主で激しい空戦は無かった。

10月11日、米機動部隊の沖縄接近により角田ら252空は緊急出動、14日伊江島から出撃したが会敵せず高雄に着陸。数日間米艦隊への攻撃・迎撃を行っていたが目ぼしい戦果は得られず、隊長・分隊長を失った戦302は戦316の指揮下に入った。20日、米軍のレイテ上陸に伴いマバラカットに進出した。攻撃・直援・哨戒などに当たっていたが、11月6日エンジン故障で不時着したニコルス基地で急遽、特攻隊に編入された。角田の特攻配置は翌年の終戦まで続いた。15日、252空は解散し半数は内地帰還、残留した角田を先任とする10名は特攻配置として201空に編入された。角田自身は熟練搭乗員であったためか爆装することはなく、もっぱら直援任務であった。1945年(昭和20年)1月8日、飛行機を失った搭乗員は徒歩で18日間かかってツゲガラオまで行軍し、そこから輸送機台湾まで撤退した。

2月5日、台湾に引き上げた隊員を中心として205空が開隊し、角田はこの戦闘317飛行隊に配属された。4月に入ると沖縄攻撃のための米艦隊が台湾近海に出没するようになり、角田も特攻隊直援機としてたびたび出撃した。5月には海軍中尉に任官。8月14日「魁作戦」が発令され、在台湾航空隊の全機特攻突入が命ぜられたが、翌日出撃準備中に出撃待ての指示が出た。正式に終戦を知らされたのは数日後だった。

戦争中の単独撃墜数は13機、共同撃墜数を含めると約100機になる[5]

戦後

中国軍の台湾進駐後も捕虜扱いされることは無く、外出は自由であった。自給の為の畑作作業などをしていたが、12月末鹿児島行の復員船に乗り、1946年(昭和21年)元旦実家に帰宅した。

同年11月、茨城県開拓隊に入り火山性土壌の山林開墾に従事した。曲がりなりにも人の住家らしきものに入居できたのは1964年(昭和39年)暮れのことだった。生活に余裕のできたこの頃から各種戦友会に入会。1974年(昭和49年)元部下に誘われて、九州の遺族訪問をした事をきっかけに、農閑期には遺族探し・訪問を行うようになった。また戦友会世話人として、南方各地の戦地に遺族を案内し現地慰霊祭を行った。

文献

著書

『修羅の翼』、今日の話題社、1989年 ISBN 978-4875651345。光人社NF文庫、2008年 ISBN 978-4769825852

参考文献

脚注

  1. ^ 戦闘行動調書では共同撃墜。『昭和15年7月~12月 12空 飛行機隊戦闘行動調書(3)』p.44
  2. ^ 角田、2008年、p.96
  3. ^ 角田、2008年、pp.120f
  4. ^ 『丸』2011年2月号、p.103
  5. ^ 神立、2011年、p.192による。サカイダ、1999年、p.104によれば単独撃墜数9機。