絵解き
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絵解・絵解き(えとき)は、変相図を含む説話画等の仏教絵画を物語る行為、およびそれを行う日本の職能、芸能である[1][2][3][4]。当初は僧職にある者が行ったとされるが、間もなく巷間芸能化・大道芸化した[1][2][3][4]。
女性の「絵解」を絵解比丘尼・絵解き比丘尼(えときびくに)、あるいは歌比丘尼(うたびくに)、勧進比丘尼(かんじんびくに)、熊野比丘尼(くまのびくに)等と呼ぶ[5][6]。
歴史
古代・中世
そもそも仏教の教義をイラストレーションとして表現する「変相図」は、中国の法顕(337年 - 422年)が師子国(スリランカ)で行われていた造形物を「変現」と呼んだのが最初であり、東南アジアを通じて日本に伝えられ、日本で独自の展開をすることになる[1][7]。「絵解」が対象とする説話画は、曼荼羅、涅槃図、八相図、個別の寺社にまつわる祖師・高僧伝、寺社縁起、参詣曼荼羅を絵画や絵巻物、掛幅にしたものであった[1][2][3][4]。とくに俗化以降は、地獄絵図(地獄変相)を多く取りあげた[2]。
平安時代中期の10世紀、醍醐天皇の第四皇子・重明親王(906年 - 954年)が書いた日記『吏部王記』にある、931年の項目で、貞観寺(真言宗、現在の京都市伏見区)で『釈迦八相絵』の「絵解」が行われたのが、確認できるもっとも古い記録であり、醍醐寺の『醍醐雑事記』にも引用されている[3]。
平安時代末期(12世紀)から鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)にかけて、「絵解」は芸能として成立し、地獄絵図を琵琶の演奏とともに語った[2][4]。
中世(12世紀 - 16世紀)期になると、熊野権現の勧進を目的として諸地域をめぐり歩く「熊野比丘尼」が登場する[8][9]。小脇に抱えた大型の文箱から取り出した絵巻物による地獄絵図・極楽絵図の「絵解」をしながら、熊野牛王符と酢貝(アワビの酢漬け)を配り、歌念仏や『浄土和讃』、世間で流行した俚謡(民謡)や小歌を歌いながら、物乞いをした[8][9][10]。当初は尼僧であると思われていたが、遊女としての側面も備え始める[8][9]。「勧進比丘尼」とも呼ばれ、また、「絵解」をする者をとくに「絵解比丘尼」といい、これらは熊野信仰による「熊野比丘尼」の一種と考えられていた[5][6]。
室町時代(14世紀 - 16世紀)、俗人の「絵解」が登場し[4]、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、千秋万歳法師とともに「絵解」として紹介され、描かれている[11]。
近世
江戸時代(17世紀 - 19世紀)には、「絵解」はついには宗教というよりも、明らかに大道芸となった[2]。
かつて「熊野比丘尼」「勧進比丘尼」であると考えられていた者たちは零落し、「歌比丘尼」と呼ばれ、びんざさらを伴奏に小歌を歌う芸能者であり、盛り場で売春を行う街娼となっていた[12]。「歌比丘尼」たちの年長者を「御寮」(おりょう、御寮人に由来)といい、これが小比丘尼たちに管理売春を行った[13]。山伏を夫に持ち、江戸・浅草に「比丘尼屋」を開く者もいた[12]。1688年(貞享5年・元禄元年)に完成する『色道大鏡』には、「熊野比丘尼」との遊び方が指南されてあり「遊宴の名匠、比丘尼の棟梁」として、
- 京大佛(現在の京都市東山区正面通大和大路近辺) - 祐清
- 建仁寺町(現在の京都市東山区の建仁寺北側周辺) - 周峯、周慶
- 江戸浅草(現在の東京都台東区浅草) - 清養、清壽、慶甫
- 大坂鱣谷(鰻谷、現在の大阪市中央区東心斎橋近辺) - 珠養、珠英
の4か所・8人の名を挙げている[14]
天和年間(1681年 - 1684年)には、尼僧の衣裳を着た遊女である浮世比丘尼(うきよびくに)が現れ[15]、井原西鶴は、1682年(天和2年)に上梓した『好色一代男』に、「この所も売り子、浮世比丘尼のあつまり」(「ここも、売り子や浮世比丘尼のたむろする場所である」の意)とさっそく登場させている[15]。元禄年間(1688年 - 1703年)には、伊勢寺の勧進であると称して、尼僧の衣裳をまとって諸地域を漂白する遊女である伊勢比丘尼(いせびくに)が現れる[16][17]。1690年から日本に滞在したケンペルは、熊野比丘尼について、仏徒である比丘尼とは違うこと、日本中の街道の至る所で見ること、容姿に優れていること、貧しく若い女性で人柄も性も容貌もいいので喜捨にも苦労しないことなどを記している[18]。
18世紀の人形浄瑠璃『国性爺後日合戦』で、近松門左衛門は「絖の帽子の伊勢比丘尼」(「サテンの帽子をかぶった伊勢比丘尼」の意)というフレーズで登場させている[17]。
1780年代(天明年間)以降には、これら売春婦としての「比丘尼」は廃れていったとされる[12]。一方、1847年(弘化4年)に成立した本居内遠による当時の制度考証書『賤者考』には「勧進比丘尼巫女お寮」の項があり、「勧進比丘尼」を賤者として挙げている[19]。
絵解きに使われた絵画
「絵解」が対象とする説話画の例である。
脚注
- ^ a b c d 絵解き、世界大百科事典 第2版、コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e f 絵解き、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b c d 絵解き、百科事典マイペディア、コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e 絵解き、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b 絵解き比丘尼、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b 絵解き比丘尼、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ 世界大百科事典 第2版『変相図』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b c デジタル大辞泉『熊野比丘尼』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b c 大辞林 第三版『熊野比丘尼』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ 有精堂、p.10.
- ^ 小山田ほか、p.142.
- ^ a b c 世界大百科事典 第2版『歌比丘尼』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉『御寮』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ 藤本、p.463-465.
- ^ a b デジタル大辞泉『浮世比丘尼』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉『伊勢比丘尼』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ a b 大辞林 第三版『伊勢比丘尼』 - コトバンク、2012年8月31日閲覧。
- ^ 熊野比丘尼 呉秀三訳『ケンプェル江戸参府紀行 上巻』〈異国叢書〉駿南社、1928年、p. 165.
- ^ 林、p.69.
参考文献
- 『絵解き』「日本の古典文学 一冊の講座」第3巻、有精堂「一冊の講座」編集部、有精堂、1985年8月、ISBN 4640303033
- 『写された幕末』、石黒敬七、明石書店、1990年4月15日 ISBN 475030302X
- 『絵解き万華鏡 聖と俗のイマジネーション』、林雅彦、三一書房、1993年7月 ISBN 4380932370
- 小山田了三・本村猛能・角和博・大塚清吾、1996年3月、『江戸時代の職人尽彫物絵の研究 - 長崎市松ノ森神社所蔵』、東京電機大学出版局 ISBN 4501614307
- 『色道大鏡』、藤本箕山、1678年 - 1688年 / 復刻版 八木書店、2006年7月 ISBN 484069639X