琉球独立運動
琉球独立運動(りゅうきゅうどくりつうんどう)は、1879年の琉球処分以降に始まった運動で、琉球王国の再興、または国家の独立を求める運動。沖縄独立運動(おきなわどくりつうんどう)ともいう。
沿革
明治時代
1879年の琉球処分で琉球王国は消滅し、沖縄県が新たに設置された。これに不満を持つ旧支配層の一部には、旧宗主国の清国に亡命して清政府に「琉球王国の再興」を働きかける者まで現れた。このように清に脱出し、琉球王国の再興に奔走した人士を「脱清人」という。県内でも、琉球王国の再興を求める「頑固党」とそれに反対する「開化党」の対立が続いた。
1894年に始まった日清戦争で清が敗北したことで、琉球王国の再興は絶望的な状況となり、頑固党もこれを期に急速に衰えることになった。また、日本の主権は認めるものの、尚家による統治を求める公同会運動も起きたが、これも日本政府に却下され、終息に向かった。
これ以降、組織的な独立運動は絶えることになった。
アメリカ統治下
1945年の太平洋戦争終結後、日本を占領したアメリカは、旧琉球王国領である沖縄県及び鹿児島県奄美群島を日本より分割、信託統治領として軍政下に置いた。これはかつて琉球王国があった1854年に、那覇を訪れたペリー提督の艦隊により琉米修好条約を締結した歴史を持つアメリカ側が、日本と琉球は本来異なる国家、民族であるという認識を持っていたことが主な理由だった。また、この割譲はアメリカにとって「帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放」という、自由民主思想のプロパガンダ的意味もあった。ファシズムに勝利したという第二次世界大戦直後の国内の自由と民主主義への期待と高揚から、統治当初は、アメリカ主導での将来的な琉球国独立の構想が検討されてもいた。
占領国アメリカがこの認識を持って日本領を分割したことは、日本(琉球)側にも大きな影響を与えることとなり、自らを琉球民族と定義する人々のナショナリズムを刺激し、琉球独立運動の動機となった。
そうした時代背景から誕生した琉球独立運動は、日琉同祖論に倣い琉球民族が日本民族の傍系であるとは認めつつも、琉球民族は歴史的に独自の発展を遂げて独立した民族になったと主張し、明治時代より強引に同化政策を施されはしたが、日本の敗戦により再び琉球人になり、アメリカ信託統治を経て独立国家になるだろう、との展望だった。本土では、戦後沖縄人連盟などが結成され、一部の連盟加盟者から独立への主張もなされていた。また、戦後日本共産党(沖縄民族の独立を祝うメッセージ)や日本社会党は琉球民族が大日本帝国に抑圧されていたと規定し、表面上、沖縄独立支持を表明した。
一方、米軍統治下の旧琉球王国領では、米影響下からの独立を企図して、非合法組織ではあるが、奄美共産党(奄美大島社会民主党)、次いで沖縄共産党(合法組織として沖縄人民党)が結成された。奄美共産党の初期目標には「奄美人民共和国」の建国が掲げられていた。
住民の多くは日本への復帰を望んでいたため、その後、これらの政党は独立から復帰へと活動目標が変更された。奄美共産党は、奄美群島での日本復帰運動の中心的役割を果たしている。沖縄・奄美の両共産党は、それぞれの地域の日本復帰後に日本共産党に合流した。
戦後初期の独立論は、米軍を「解放軍」と捉える風潮が広がったことと密接に絡んでいた。ところが1950年代以降になると、冷戦を背景にアメリカ国内で沖縄の戦略上の価値が認識され、アメリカの沖縄統治の性格は軍事拠点の維持優先へと偏重していった。米軍政下の厳しい言論統制や度重なる強圧的な軍用地接収、琉球人への米兵の加害行為の頻発により「米軍=解放軍」の考えは幻想だったという認識が県民の間に広まり、一転して「平和憲法下の日本への復帰」への期待が高まる。こうした流れの中で、独立論は本土復帰運動の中に飲み込まれていった。
いったん沈静化した独立論は、1972年の沖縄返還が近づくにつれ、「反復帰論」として再び盛り上がりを見せる。背景には、復帰交渉において日本政府が在沖米軍基地の現状について米軍の要求をほぼ丸飲みし続け、沖縄県民が期待した「本土並み復帰」が果たされないことが明確になったことから、日本政府への不信感が高まったことがあった。しかし、米軍基地の返還交渉を自由に行なうための主権獲得が、独立のメリットとする主張もある。
本土復帰後
1977年には、当時の平良幸市知事が年頭記者会見で「沖縄の文化に対する認識を新たにしよう」と、反復帰論を意識した提唱を行った。
1979年、明治政府の琉球処分から100年目にあたることもあり、「琉球文化の独自性を見直そう」といった集会が沖縄各地で活発に開かれた。
しかし1970年代の独立論は政治運動化せず、文化復興運動として落ち着いた。
1995年に、沖縄県で米軍基地に対する反対運動が起こったときなどに、琉球独立論が取り上げられた。
2007年に、琉球大学法文学部准教授の林泉忠が、沖縄県民意識調査を実施(電話帳から無作為抽出して電話をかける方法で、18歳以上の沖縄県民を対象に実施、1201人から有効回答を得た。2005年度より毎年実施。なお、対象者が沖縄県出身者か否かは問われない)。結果、沖縄県民の内、自らが「日本人ではなく沖縄人である」と答えた人は41.6%(2005年度40.6%)、「沖縄が独立すべきだ」と答えた人は20.6%(2005年度24.9%)であったとされる[1]。
現在、沖縄県で活動する政党で、沖縄独立支持を明確に表明して活動しているのはかりゆしクラブのみになっている。
将来への展望
現在全国的に導入が論議されている道州制と結びつけ、沖縄県を単独の道州とすることで大幅な自治権を獲得する案も議論されている。内閣総理大臣の諮問機関である地方制度調査会が2006年に発表した答申[2]に示された道州制区割り案では、いずれも沖縄を単独の道州としている。また民主党は「一国二制度」論を掲げ、沖縄県を地方分権のモデルとして、より強力に自治権と経済的競争力を強化することを提案している。ただし、そのことが独立論に直接に結びつく訳ではない。
現在、琉球独立運動は一般の沖縄県民の支持を得るに至っていない。2006年の沖縄県知事選挙では琉球独立党(現・かりゆしクラブ)党首の屋良朝助が党公認で出馬したが、得票数6220票、得票率0.93%で落選している。これは琉球独立運動家による主張の実現可能性が低いことも関係している。たとえば、琉球独立の支持者や賛同する市民団体の中には、琉球共和国及び地域の名称として沖縄特別自治省、元首(首長)の役職として沖縄省主席を主張している。もちろん、これらが実現不可能であると断ずることはできないが、決して実現可能性が高いとは受け止められていない。かつて川満信一が発表した「琉球共和社会憲法C私(試)案」[3]では、「軍備の廃止」のみならず、「司法機関(警察・検察・裁判所)の廃止」「私有財産の否定」「情報の統制」「商行為の禁止」も謳うなど、理念先行という印象を与え、現実を見据えた自立(独立)に向けた政策の研究が見られないことも独立論の実現可能性に疑問符がつく原因となっている。
沖縄住民の「沖縄独立」に関する意識調査
沖縄 | 2005年 | 2006年 | 2007年 |
---|---|---|---|
独立すべき |
24.9% | 23.9% | 20.6% |
独立すべきではない |
58.7% | 65.4% | 64.7% |
住民で決定すべき |
2.8% | 1.7% | 0.8% |
その他 | 13.6% | 9.1% | 13.0% |
琉球大学准教授の林泉忠は、2005年から2007年にかけて、アイデンティティ国際調査と題し、沖縄・台湾・香港・マカオ4地域を比較して、地域の人々の本土(日本や中国大陸)への帰属意識の調査を行った。また「各地域が独立すべきか、すべきではないか」の調査も行い、4地域の意識の違いを発表している[4]。サンプル数は、毎年毎回どの地域も1000以上としている[4]。
関連項目
外部リンク
- 沖縄自治研究会
- 沖縄独立運動地下本舗
- 沖縄の振興 - 平成19年度税制改正要望。
脚注
参考文献
- 大山朝常『沖縄独立宣言 ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった』、現代書林、1997年4月。ISBN 4-87620-935-9
- 小熊英二『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』、新曜社、1998年7月。ISBN 4-7885-0648-3
- 竹中労『琉球共和国 汝、花を武器とせよ!』(『ちくま文庫』)、筑摩書房、2002年6月。ISBN 4-480-03712-8
- 比嘉康文『「沖縄独立」の系譜 琉球国を夢見た6人』、琉球新報社、2004年6月。ISBN 4-89742-059-8
- 川満信一『新沖縄文学』、沖縄タイムス社、1981年6号。
- 大原社会問題研究所雑誌509号「沖縄・奄美非合法共産党文書」、2001年4月。
- 新崎盛暉『沖縄現代史新版』、岩波新書、2005年12月。ISBN 4-00430-986-7