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朝香宮鳩彦王

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朝香宮鳩彦王
朝香宮鳩彦王
生誕 1887年10月20日
死没 (1981-04-12) 1981年4月12日(93歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1908年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
指揮 上海派遣軍司令官
近衛師団
戦闘 日中戦争
南京攻略戦
第二次世界大戦
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朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年明治20年)10月20日 - 1981年昭和56年)4月12日)は日本皇族軍人

朝香宮家の初代当主。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下して、朝香鳩彦(あさかやすひこ)という。

陸軍大将。官位は大勲位功一級大東亜戦争の功による)に昇り、第26代近衛師団長、上海派遣軍司令官等を歴任する。また、「ゴルフの宮様」として知られる。

経歴

軍人として

久邇宮朝彦親王の第八王子。1906年明治39年)3月に朝香宮家を創設する。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。1910年(明治43年)に明治天皇皇女允子内親王と結婚する。

皇族男子は陸海軍いずれかで奉職するしきたりがあったため、鳩彦王は学習院東京陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て1908年(明治41年)5月27日陸軍士官学校(第20期)を卒業。同年12月25日に陸軍歩兵少尉に任じられ、近衛歩兵第2連隊附を命ぜられる。

1914年大正3年)11月には陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第61連隊中隊長となる。その後、1922年(大正11年)にフランス留学するが、翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去。同乗していた鳩彦王は重傷を負う。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長くふれることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃とともに1925年(大正14年)のパリ万国博覧会アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。後に建設した朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。

その後、陸軍少将・陸軍中将と昇級し歩兵第1旅団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。1937年昭和12年)12月2日上海派遣軍司令官に任命され、直後の南京攻略戦にも参加し、階級は陸軍大将に昇った。第二次世界大戦終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。また、小磯内閣当時には杉山元陸相の更迭を求めて運動したこともあった。戦後、上海派遣軍司令官として南京事件に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、戦犯指定は受けなかった。

旧朝香宮邸(現 東京都庭園美術館)

戦後

1947年昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱、後は、東京都港区芝白金台町(現在の港区白金台)にあった朝香宮邸を外務省に貸し出し(現在は東京都庭園美術館になっている)、自身は熱海の別荘に隠棲してゴルフ三昧を嗜む日々を送った。

数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めたが、その中で1930年(昭和5年)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、移転先の膝折村が朝香宮にちなんで1932年(昭和7年)5月1日に朝町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称された。

軍歴

血縁

関連項目

外部リンク