惟喬親王
惟喬親王 | |
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惟喬親王 / 『前賢故実』より | |
続柄 | 第55代文徳天皇の第1皇子 |
身位 | 親王、四品 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
承和11年(844年) 山城国 |
死去 |
寛平9年2月20日[1](897年3月30日) 山城国 |
埋葬 |
不明 京都府京都市左京区大原上野町(伝承) |
子女 |
兼覧王? 三国町 |
父親 | 文徳天皇(第55代) |
母親 | 紀静子(紀名虎の娘) |
役職 | 弾正尹 |
惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日[1](897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。官位は四品・弾正尹。小野宮を号す。
経歴
父・文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を立てた後、第一皇子の惟喬親王にも惟仁親王が「長壮(成人)」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信の諫言により実現できなかったといわれている[2]。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王の母が良房の娘・明子であったことによるものとされる。また、惟仁の成人後に惟喬が皇位を譲ったとしても、双方の子孫による両統迭立が可能性が生じ、奇しくも文徳天皇が立太子する契機となった承和の変の再来を危惧したとも考えられる。
ただ、この決定に対する不満が朝廷内部にあったとされ、100年以上経った寛弘8年(1011年)一条天皇の皇太子を巡る敦康親王派と敦成親王派(後の後一条天皇)の確執があった際、惟喬と敦康の境遇が類似しているとして、この決定の是非が議論の対象になったという[3]。また、立太子を巡り、良房と名虎がそれぞれ真言僧の真雅と真済とに修法を行わせた[4]、あるいは二人が相撲をとって決着をつけたという伝説もある。
天安元年(857年)文徳天皇の前で元服して四品に叙せられ、天安2年(858年)大宰権帥に任ぜられる。その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任する。貞観14年(872年)病のため出家して素覚と号し、近江国滋賀郡小野に隠棲。その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平・紀有常らと交流したといわれる。寛平9年(897年)2月20日薨去。享年54。京都市左京区大原上野町に惟喬親王の墓と伝わる五輪塔がある。
勅撰歌人として、『古今和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に6首が採録されている[5]。
官歴
『六国史』による。
- 天安元年(857年) 4月19日:帯剣。12月1日:元服、四品
- 天安2年(858年) 正月16日:大宰権帥。10月26日:大宰帥
- 貞観5年(863年) 2月10日:弾正尹
- 貞観6年(864年) 正月16日:常陸太守
- 貞観9年(867年) 正月12日:常陸太守、弾正尹如故
- 貞観14年(872年) 2月29日:上野太守、弾正尹如故。7月11日:出家
- 貞観16年(874年) 9月21日:封百戸
系譜
近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。また、当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙となったといわれる。