徳田毅
衆議院議員 徳田 毅 | |
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生年月日 | 1971年5月30日(52歳) |
出身地 | 鹿児島県名瀬市(現:奄美市) |
出身校 | 帝京大学法学部(中退) |
前職 |
医療法人役員 徳田虎雄衆議院議員秘書 |
所属委員会 | 予算委員会 |
世襲 |
2世 父:徳田虎雄(元衆議院議員) |
選出選挙区 | 鹿児島2区 |
当選回数 | 2回 |
所属党派 |
(自由連合→) 自由民主党(古賀派) |
会館部屋番号 | 衆議院第1議員会館340号室 |
ウェブサイト | 情熱・挑戦・真っすぐに! |
徳田 毅(とくだ たけし、1971年5月30日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(2期)。医療法人徳洲会理事。
衆議院議員、自由連合代表を務めた、医療法人徳洲会創設者の徳田虎雄は父。徳洲会副理事長で薬剤師の徳田秀子は母。
経歴
鹿児島県名瀬市(現奄美市)に生まれる[1]。鹿児島高等学校卒業、帝京大学法学部中退。鹿児島高校の同級生に稲森いずみがいる。1995年から父・徳田虎雄の個人事務所に勤務する。2001年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に留学、翌年夏にはハーバード大学サマースクールに参加した。2003年に結婚し、媒酌人は亀井静香が務めた。2004年、医療法人徳洲会理事に就任。2005年に帝京大学法学部に再入学するが、2007年に再び中退した。
2005年、父・虎雄が2002年頃から発症した筋萎縮性側索硬化症(ALS)の療養に専念するため、政界引退を表明。虎雄に代わり、毅が第44回衆議院議員総選挙に無所属(民主党推薦)で鹿児島県第2区から出馬し、初当選を果たした[2]。同年、自由連合代表に就任する。2005年(平成17年)9月の内閣総理大臣指名選挙では徳田毅に、翌2006年(平成18年)9月は安倍晋三(自由民主党総裁)に投票している。
2006年10月、鹿児島県庁で記者会見を開き、自身が代表を務める自由連合を離党する意向を表明。徳田の離党により所属国会議員数がゼロになった自由連合は政党助成法上の政党要件を喪失。自由連合の今後については父・虎雄に一任する考えを表明した。同年11月の沖縄県知事選挙では、自由連合は糸数慶子を推薦したが、毅は告示日の11月2月に自由連合を離党して自由民主党、公明党が擁立した仲井眞弘多を支援し、仲井眞が当選した。
同年11月29日、自民党に「入党願」を提出。徳田の自民党入党について、宮路和明自民党鹿児島県連会長(当時)は同年4月の衆議院千葉県第7区補欠選挙、沖縄市長選挙における徳田の与党への協力を一因に挙げている。12月20日に改めて自民党に入党届を提出し、正式に自民党に入党した。これにより鹿児島県の衆議院小選挙区は、自民党が独占した。
2007年の第21回参議院議員通常選挙では保守地盤の強い鹿児島県でも自民党が苦戦を強いられたが、自民党の加治屋義人が2664票の僅差で逃げ切り、当選を果たした。加治屋は鹿児島全県では前回に比べて得票数を減らしたが、徳田の地盤である奄美市や大島郡では票を伸ばした。2008年6月5日、宏池会に入会。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、初めて自民党公認で鹿児島2区から出馬し、民主党公認で出馬した打越明司を下して再選。なお打越は2005年(平成17年)の総選挙は無所属で出馬したため比例復活が出来なかったが、この選挙では重複立候補していた比例九州ブロックで復活し、初当選した。
政策・主張
普天間基地代替施設移設問題では、鹿児島2区に含まれる徳之島が2006年(平成18年)日米合意のキャンプ・シュワブ沖合の代替候補地に名前が挙がったが、徳之島への移設には反対の意向を表明。2010年(平成22年)4月、県外移設を模索する鳩山由紀夫首相が療養中の徳田虎雄に面会し協力を要請した際にも会談に立ち会った。
所属団体・議員連盟
脚注
関連項目
外部リンク
- 衆議院議員 徳田毅‐情熱・挑戦・真っすぐに!(公式サイト)
- 衆議院議員 徳田たけし オフィシャルブログ(公式ブログ)
党職 | ||
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先代 徳田虎雄 |
自由連合代表 第7代:2005 ‐ 2006 |
次代 徳田虎雄 |