安里屋ユンタ

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安里屋クヤマ生誕の地
安里屋クヤマの墓

安里屋ユンタ』(あさとやユンタ)は、沖縄県八重山諸島竹富島に伝わる古謡。 元歌に三線で節をつけたのが『安里屋節』である。さらに近年に星克作詞、宮良長包作曲によるものを『新安里屋ユンタ』という。全国で広く歌われるのはこの3番目のものである。

経緯

本来の民謡として

琉球王国時代の竹富島に実在した絶世の美女・安里屋クヤマ1722年 - 1799年)と、王府より八重山に派遣されクヤマに一目惚れした目差主(みざししゅ。下級役人)のやり取りを面白おかしく描いている。

18世紀の八重山では庶民に苛酷な人頭税の取り立てが課せられており、庶民が役人に逆らうことは普通では考えられなかった。そんな中で目差主の求婚を撥ね付けるクヤマの気丈さは八重山の庶民の間で反骨精神の象徴として語り継がれ、の田植歌と結び付いて19世紀初頭までに安里屋ユンタとなったと考えられている。歌詞は23番まで続き、4番以降ではクヤマに振られた目差主が「ならばお前より美しい娘を見つけて嫁にする」と言ってクヤマと別れ、イスケマという娘を娶って郷里に連れて帰る過程を描いているが、一般に歌われるのは6番までのことが多い。

なお、安里屋ユンタの本家である竹富島では、安里屋ユンタは「あさとやユンタ」と云い、濁音は付けない。これは、クヤマの生家である安里家の屋号はアサッティヤと呼ばれているためである。

安里屋節

安里屋節(あさどやぶし)は、歌詞の大意こそ安里屋ユンタとほぼ同じであるが節を付けて歌うため曲調は大きく異なる。安里屋ユンタを節歌調にアレンジし、士族の間で広まったのが安里屋節ではないかとされている。

竹富島と石垣島を始めとする八重山諸島の他の島では歌詞が異なっており、竹富島外で歌われる安里屋節はクヤマが結婚するなら同じ島の男がいいとの理由で目差主の求婚を拒む内容となっている。

なお竹富島での安里屋節の後半は安里屋節の調子の「ニ揚調子」のまま安里屋ユンタの曲に転調して歌われるのが種子取祭などでの舞踊曲での通例である。

なお、沖縄本島の舞踊曲として三下調子の早弾き曲「安里屋節(あさどーや)」が「花笠節」に続けて演奏され踊られるがこれは八重山地方に分布する安里屋節を大胆に崩した早弾き曲であり八重山地方の安里屋節とは趣を大いに異にするが基本的な音構成は八重山地方の安里屋節の原型を保っている。

加えて、大濱安伴が著者の八重山古典民謡工工四下巻には早い弾きの安里屋節がある。

新安里屋ユンタ

1934年には白保尋常高等小学校(現・石垣市立白保小学校代用教員で後に立法院議員となる星克1905年 - 1977年)の作詞・沖縄師範学校で音楽教師を務めていた宮良長包1883年 - 1939年)の作曲でコロムビアレコードより「安里屋ユンタ」が発売され、安里屋ユンタの名を日本全国に広めることとなった。現在は、伝統的な安里屋ユンタに対してこのバージョンを「新安里屋ユンタ」と呼んで区別することが多い。

改作に当たって歌詞に標準語共通語、いわゆるヤマトグチ)が用いられているが、原曲の詞を直訳したものではない。後年、多くの歌手が「安里屋ユンタ」と題するカバー曲を発表しているが、これらは大半が新安里屋ユンタの歌詞を用いている。

この新安里屋ユンタで使われている標準語は大阪コロムビアレコードの担当者からの依頼で「難解な沖縄の方言ではなく、標準語(共通語)による新たな創作歌詞により広く日本全国に沖縄民謡を広めたい」との趣旨で宮良長包らに依頼され改作されたものであり、他の楽曲として「新鳩間節」「新港節」「新ションカネー」などもリリースされている。 さらに、展開型としてこの新安里屋ユンタの替え歌が戦前から戦中にかけて(第二次世界大戦)沖縄県内外を問わず広く座興の場などでさまざまな歌詞が唄い遊ばれていた。

関連して、このような替え歌が奄美大島などの鹿児島県の奄美群島地域に伝播したものが奄美独特の高いキーの三線などの伴奏により、ある程度の固定化した歌詞をまとめて「奄美チンダラ節」として愛唱されており、実際に奄美市にある「セントラルレコード」から「奄美新民謡」の一つとして音源が複数発売されている。 その歌詞は「奄美民謡総覧(小川学夫著 南方新社刊)」に搭載されている。 こういった、「新安里屋ユンタ」が頻繁に替え歌されるようになった原因は歌詞を構築する文字数が七・七・五調で作られており、日本民謡によくある文字数に纏められてある事から、盛んに替え歌するのが可能であったと思われる節が多々あります。たとえば秋田県民謡であるドンパン節などで盛んにうたわれる七・七・七・五調の歌詞「めでためでたの若松様よ 枝も栄える 葉も茂る」などの歌詞と安易に差し替えができるため、同じ字数の日本民謡の歌詞を引用するなどいわゆる「七七七五」調によるの定形での即興歌詞を創作し、のせるなどして、日本全国に広まったものだと思われる。

囃しについて

歌詞中の「マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ」は八重山方言の古語で「また逢いましょう、美しき人よ」の意であるとされるが、インドネシア語で「太陽は我らを等しく愛する」の意味も込められている、との説もある。

しかし、発祥地である竹富島で謡われている安里屋ユンタの囃子部分は「ハーリヌ チンダラチンダラヨ」と唄うと女性が「マタ ハーリヌ チンダラチンダラヨ」と返句する形になっており、上記のインドネシア語説は主に石垣島で謡われる謡い方に強く影響されたものであり、発祥地である竹富島で謡われている歌詞を無視したものであり、信憑性にかけると思われる。(竹富町教育委員会発行 竹富町古謡集、崎山三郎著 竹富島工工四、上勢頭亨著 竹富島誌などに竹富島の謡い方の安里屋ユンタの記載があり、上記のインドネシア説に引用されている囃子の語彙と全く異なっている、さらに「竹富島の安里屋ユンタ」は国の重要無形民俗文化財に指定されている「竹富島の種子取」の舞踊曲の一つであり、この芸能に対する歌詞の解説等は全文が文化庁に提出されており同島にある楽曲を記載された譜面である崎山三郎による「竹富島工工四」に全て掲載されており、また竹富島を含む自治体である沖縄県八重山郡竹富町が、竹富町誌の別冊として出版した「竹富町古謡集1~5巻」の中に竹富島の謡い方の安里屋ユンタは記載されており上記解釈の「マタハーリヌチンダラカヌシャマヨ」の謡い方で記載されている古謡集は「石垣字会発行 石垣村古謡集」「登野城ユンタ保存会発行 登野城村古謡集」などの石垣島側の古謡集などの歌詞集や楽譜などに記載されている竹富島以外の謡い方であり、発祥地である竹富島のものとは大いに異なっており、よって「インドネシアの太陽説」は上記の書物や現地の伝統的謡い方とは異なる「一種の風説」の一種と思われる。参考音源「てぃゆむたきどぅん 竹富島種子取祭奉納曲集(発売元 国際貿易)」インドネシア、バリ島の言語で、「太陽の島」を表す「マタハリヌ」(マタハリ単体では太陽を示し同名の地名も存在する)を八重山地方の方言である「マタ」と「ハーリヌ」の単語同士での安易な結合をもってインドネシア(バリ島、スンダ地方と思われる)の固有名詞の太陽神を指すものと直結する安直な論調も発生していることは事実である。

カバー

日本本土において本曲のカバーを発表している主なアーティストは以下の通りである。歌詞は前述の通り、大半が新安里屋ユンタに拠っているが表題は全て「安里屋ユンタ」である。

沖縄では八重山民謡の有名レパートリーとして多くの民謡歌手がレコーディングしている。これには新安里屋ユンタの場合も、より原曲に近いものも含まれる。ちなみに、ユンタは元来は労働歌であり、伴奏無しに掛け合いで演奏されるのが元の姿であった。例えば大工哲弘の『大工哲弘-八重山民謡集-』(ビクター)では伴奏を太鼓のみとし、男声と女声の掛け合いの形でこれを再現している。

編曲

  • 松下耕 - 混声合唱のための『八重山・宮古の三つの島唄』(1998年)終曲として混声四部合唱(div)に編曲。原曲を元に、転調を繰り返しながら三次元的に膨張していく厚みのあるサウンドが特徴的。

関連項目

参考文献

  • 鳥塚義和「安里屋ユンタ -古謡はどのように伝承されているか
  • 新川明『新南島風土記』、(1978)、大和書房
  • 大城學「解説(八重山民謡)」、『南海の音楽/八重山・宮古』キングレコードの解説より
  • 竹富町教育委員会「竹富町古謡集1~5」
  • 糸洌長良「八重山古典民謡・古謡集」
  • 石垣字会「石垣村古謡集」
  • 登野城ユンタ保存会「登野城村古謡集」
  • 崎山三郎「竹富島工工四」
  • 大濱津呂・幸地亀千代「八重山民謡工工四上巻」
  • 識名朝永「八重山民謡工工四下巻」
  • 玉代勢長傳「八重山民謡舞踊曲早弾き工工四」
  • 仲宗根長一「八重山民謡集」「八重山古典音楽安室流工工四全巻」

関連項目