大谷祖廟

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大谷祖廟
所在地 京都府京都市東山区円山町477
位置 本堂
北緯35度0分7.8秒 東経135度46分57.5秒 / 北緯35.002167度 東経135.782639度 / 35.002167; 135.782639
御廟
北緯35度0分7.1秒 東経135度46分58.7秒 / 北緯35.001972度 東経135.782972度 / 35.001972; 135.782972
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 本山真宗本廟(東本願寺)の飛び地境内[1][2]
本尊 阿弥陀如来
創建年 大谷廟堂 - 文永9年(1272年)
大谷祖廟[3] - 寛文10年(1670年)
開基 大谷廟堂 - 覚信尼
大谷祖廟[3] -
別称 東大谷
公式サイト 東本願寺・参拝のご案内「大谷祖廟」
大谷祖廟の位置(京都市内)
大谷祖廟
大谷祖廟
東本願寺
東本願寺
京都駅
京都駅
京都盆地における位置
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大谷祖廟(おおたにそびょう)は、京都府京都市東山区にある真宗大谷派(本山:東本願寺)の宗祖である親鸞墳墓の地である。墳墓は「御廟」と呼称される。通称は、「東大谷[4]」。江戸時代は「大谷御坊」と呼称される。

境内の「本堂」と「御廟」、ならびに大谷祖廟に隣接する「東大谷墓地」には絶えることなく参拝者が訪れる。

概要

境内

本堂
本尊である阿弥陀如来立像を安置する。
御廟
宗祖親鸞ならびに「真宗大谷派御歴代」の墓所。
表唐門
総門・四脚御門とも。東大谷参道側の門。
太鼓堂
かつては、2階部分の太鼓で時間を知らせていた。現在は、時計が普及したため使用せず。
定例法話の会場として使用する。
賀慶殿
茶所

行事

花まつり
4月1日〜8日に開催。
暁天講座
8月1日〜5日(毎朝6:30〜7:30)に催される早朝法座。
「東大谷万灯会」(ひがしおおたにまんとうえ)
8月14日〜16日に、「大谷祖廟」と「東大谷墓地」において催される。
期間中の18:00〜21:00には、吊るされた約1万個の提灯の蝋燭に火が灯される。
期間中の19:00〜20:00に、本堂において「万灯会お盆法要」を厳修する。
報恩講
9月27日・28日
定例法話
先門首の命日である13日と、宗祖親鸞の命日である28日に「太鼓堂」にて開催される法話会。
8月13日・9月28日・11月28日・12月28日は休会。

年表

弘長2年11月28日1263年1月9日)、押小路南 万里小路東[5]にある実弟の尋有が院主を務める「善法院」[6] にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。

荼毘の地については、親鸞の曾孫で本願寺第三代覚如の『御伝鈔』に「鳥部野[7]の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。大谷派は、「延仁寺」(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている[8]。現在の「延仁寺」は、第二十一代嚴如が再興したもの。

文永9年(1272年)、東国にいる親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」から「吉水の北辺」に改葬し「大谷廟堂」が建立される。

元応3年(1321年)、「大谷廟堂」は覚如によって寺院化され、「本願寺[9]」と号し成立する。

寛正6年(1465年)、延暦寺西塔の衆徒らによって「大谷本願寺」が破却される。

破却後は、井上願知によって祖墳が守護され「大谷道場」と称した。

天文元年(1532年)、「山科本願寺」が破却される(天文の錯乱)。「大谷道場」も破却される。願知の子孫・祐願によって復興。

元亀2年(1571年)、石山合戦に際し「大谷道場」が破却される。

天正17年(1589年)、祐願の妻・妙祐と子息・祐誓、「大谷道場」の復興にあたって豊臣秀吉から地銭免除の朱印状を受ける。

慶長5年(1600年)、知恩院の造営に先立って、東本願寺第十二代教如は、祐誓に「大谷道場」の御堂の移築を命じる。祐誓は、御堂を四条富小路へ移築し「徳勝寺[10]」を創建する。 慶長7年(1602年)、本願寺の東西分立に際して、教如は東本願寺境内に親鸞、および本願寺歴代の仮墓を建立する。

慶長8年(1603年)、知恩院拡張造営に際して祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山に代替地を拝領し、大谷道場を改めて「勝久寺」を創建した。

旧地には知恩院塔頭「崇泰院」が建立されたが、知恩院作事奉行の一人、勝誉道清によって祖墳遺跡が残されることになる。

寛永16年(1639年)、勝久寺は西本願寺に属する。その後、勝久寺は西本願寺の親鸞廟所として整備され、「大谷本廟」(西大谷)となる。

勝久寺が西本願寺の末寺になったことにより、東本願寺では新祖廟造営が求められるようになる。

寛文10年(1670年)、第十四代如は、東本願寺境内の親鸞、および本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に現在地に移し、「大谷御坊」と称する。

元禄12年(1699年)、第十六代一如は、祖廟の改築に着手する。

元禄13年4月12日1700年5月30日)、一如が入滅する。入滅にともない改築工事は一時中断となる。

元禄14年(1701年)、第十七代真如は、一如の一周忌厳修の後に改築工事を再開し、本堂が完成する。同年に祖墳の改葬を行う。

元禄16年(1703年)、真如、遷仏会を行う。

宝永6年(1709年)、虎石を祖墳上に置く。

延享2年(1745年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗より一万坪の寄付を受け、寺基を拡充する。

文政3年(1820年)、大谷新道を開く。

安政4年(1857年)、大谷新道南北の畑地を買い取る。

明治5年(1872年)、「大谷管刹」(おおたにかんさつ)と改称する。

明治9年(1876年)、「大谷別院」と改称する。

昭和27年(1952年)、東本願寺の飛び地境内[1][2]と定められて「大谷本廟」と改称する。

昭和56年(1981年)、現名称である「大谷祖廟」となる。

東本願寺は江戸時代に四度の火災に遭っているが、その際には大谷祖廟が御真影(親鸞の影像)の避難所となった。文政6年(1823年)の2度目の火災は11月15日であったため、この年の11月21日から28日までの七昼夜の御正忌報恩講は大谷祖廟において勤められた。

平成22年(2010年)、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の記念事業「大谷祖廟木造諸建物整備事業」の一環として「本堂」と「表唐門」(「総門」)を修復する[11]

表唐門の修復工事の際に、屋根内部より「文久二年壬戌歳 二月廿日上棟 四脚御門建立」と記された棟札が発見される。それまでは「上壇間日記[12]」の記録から、唐門(四脚御門)は安政4年以降に東本願寺から移築されたものと考えられていた。しかし、安政5年(1857年)の東本願寺焼失により移築予定の門も焼失したため、現存する「表唐門」は新築されたことが確定する[11]

アクセス

鉄道

バス

脚注

  1. ^ a b 東本願寺公式サイト>参拝のご案内>大谷祖廟”. 真宗大谷派. 2015年7月1日閲覧。
  2. ^ a b 京都観光Navi:大谷祖廟”. 京都市産業観光局観光部観光企画課. 2015年7月1日閲覧。
  3. ^ a b 昭和56年(1981年)より大谷祖廟と呼称。造営された寛文10年(1670年)当時の名称は大谷御坊。
  4. ^ 東大谷…京都市東山区内に、浄土真宗本願寺派西本願寺)が親鸞の墓所としている「大谷本廟」があり、便宜上本願寺派の墓所を「西大谷」・大谷派の墓所を「東大谷」と通称する。
  5. ^ 押小路南 万里小路東…「おしこうじみなみ、までのこうじひがし」と読む。
  6. ^ 入滅の地である「押小路南・万里小路東の善法院〈善法坊〉」には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、京都市立京都御池中学校〈虎石町〉)付近として、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。〔また、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。〕
  7. ^ 鳥部野…とりべの
  8. ^ 延仁寺…浄土真宗本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとしている。
  9. ^ 本願寺…元応3年〜寛正6年「大谷本願寺」と呼ぶ場合がある。
  10. ^ 徳勝寺…現在は、「徳正寺」。真宗大谷派に所属する寺院
  11. ^ a b 「大谷祖廟整備事業」表唐門(総門)から棟札『同朋新聞』2010年8月1日、第5面を参照。
  12. ^ 上壇間日記…東本願寺に残る当時の事務記録。

参考文献

  • 細川行信 『大谷祖廟史』(東本願寺出版部)1953
  • 『同朋新聞』第633号、真宗大谷派宗務所、2010年8月。

関連項目

近隣情報

外部リンク