勝興寺

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勝興寺
本堂
本堂
所在地 富山県高岡市伏木古国府17-1
位置 北緯36度47分32秒 東経137度03分10秒 / 北緯36.792348度 東経137.052713度 / 36.792348; 137.052713座標: 北緯36度47分32秒 東経137度03分10秒 / 北緯36.792348度 東経137.052713度 / 36.792348; 137.052713
山号 雲龍山
宗旨 浄土真宗
宗派 本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 1471年文明3年)
開基 蓮如
別称 ふるこはん
文化財 本堂、総門、唐門、鼓堂ほか全12棟、紙本金地著色洛中洛外図(重要文化財
法人番号 4230005006395 ウィキデータを編集
勝興寺の位置(富山県内)
勝興寺
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勝興寺(しょうこうじ)は、富山県高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は雲龍山。本尊は阿弥陀如来。12棟の重要文化財建造物を含む多くの文化財を有することで知られる。地元の人からは「ふるこはん」の愛称で親しまれている。2015年平成27年)4月24日、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡-人、技、心-」の構成文化財として日本遺産に認定される。

歴史

勝興寺の起こりは1471年文明3年)、蓮如越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に創建した土山御坊で、蓮如の四男蓮誓が置かれた。その後1494年明応3年)に蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転。火災による焼失後、1517年永正14年)、佐渡にあった順徳天皇御願寺勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興、寺号を相続して「勝興寺」 と称した。1519年(永正16年)には安養寺村(小矢部市末友)に移転、蓮誓の次男実玄安養寺城を建てた。

勝興寺は戦国時代瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るったが、1581年天正9年)、5代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちされた。1584年(天正12年)、佐々成政古国府城の土地を越中一向一揆に寄進、顕幸が移ったこの地が現在の勝興寺である。

佐々成政が富山の役で敗退した後も、前田藩前田家の庇護を受けて境内が整備された。第10代前田藩主の前田治脩は、藩主を継ぐ以前の若年期に一時出家しており、ここで得度している。

かつては報恩講の際に御示談(僧侶と門徒が教義や信心について議論・質疑応答を行うこと)が熱心に行われていたが、布教使の質の低下に伴い廃止されると、参詣者も減少の一途を辿った。報恩講の際に灯される大蝋燭は名物として現在も受け継がれている。

平成の大修理

1998年(平成10年)より国の補助を受け、江戸時代の姿をよみがえらせるべく大規模な修理が行われた。痛みのひどい箇所は半解体修理を行うなど、復元保存修理を進めた。第1期に当たる本堂の修理が2004年(平成16年)に完了し、2005年(平成17年)以降第2期工事に着手。2020年令和2年)1月に総門を残しほぼ完了し、同年7月20日の総門の修理完了によって20年以上にわたった工事がすべて完了した。その後、境内の景観整備などを進め、2021年令和3年)3月末に完工[1]。同年4月9日より完成イベントが開催され、4月11日に竣工式が行われた[1]。修理総額は約70億円である[2][3][4][5]。完工を記念し、同年1月に第45期棋聖戦挑戦手合七番勝負第二局が開催された。

境内

敷地は土塁・空濠で囲まれており、越中の国府跡という伝承がある。境内は東を正面とし、総門、唐門を入った敷地南寄りに大規模な本堂が建ち、北寄りには大広間、書院、台所など寺僧の居住・接客用の建物群が軒を列ねる。近世建立の堂舎群がまとまって残り、近世寺院の景観を残す点に価値が認められる。

建造物は本堂と唐門の2棟が1988年昭和63年)国の重要文化財に指定。総門を含む10棟が1995年(平成7年)にに追加指定された[2]

本堂
1795年寛政7年)建立。間口39.3m、奥行き37.4m、高さ23.5mの大型の仏堂で、国宝・重要文化財の建造物の中で、本堂では全国8番目の規模を誇る[6]。屋根は亜鉛合板葺きである。元々は鉛葺きの屋根だったものが明治時代に瓦葺きになったが、1998年から2004年まで行われた本堂の大修復で、環境に配慮し鉛葺きに色合い、光沢が近い亜鉛合板葺きとなった[7][8]
総門
1840年天保11年)建立。高さ8.7m、桁行5.5m、梁間3.1mの高麗門。重要文化財指定の高麗門としては最大級の門である[9][8]
唐門
1769年明和6年)建立。前後の軒に唐破風が付く間口6mの門[9]1893年明治26年)京都興正寺より2艘の北前船を利用し移建。2014年平成26年)まで行われた修復で、銅板葺きから檜皮(ひわだ)葺きに復元された[10][2]
鼓堂
1733年享保18年)建立。総門をくぐった正面、掘割に面して建つ2層の入母屋造りの建物で、城郭の櫓(やぐら)に似た外観をもつ[2]。2階には時を告げる太鼓が保存されている。長年使用されず傷んでいたが、建築物の平成の大修理に合わせ、2021年(令和3年)3月末までに住民有志によって修理された[8]
経堂
1805年文化2年)建立。
宝蔵
江戸時代末期建立。
御霊屋
1810年(文化7年)建立。
式台門
1775年安永4年)建立。
大広間及び式台
1692年(元禄5年)建立。現存する建築物で最も古い[8]
台所
1863年文久3年)建立。
書院及び奥書院
1671年寛文11年)建立。奥書院の壁やふすまには金箔が張られており「金の間」と呼ばれる[8]
御内仏
1688年(天保元年)建立。

文化財

洛中洛外図左隻(右京隻)

重要文化財

  • 勝興寺(建造物)12棟 - 解説は既出。
    • 本堂 - 国宝に指定予定(官報告示を経て正式指定となる)[11]
    • 総門
    • 唐門
    • 鼓堂
    • 経堂
    • 宝蔵
    • 御霊屋
    • 式台門
    • 大広間及び式台 - 国宝に指定予定(官報告示を経て正式指定となる)[11]
    • 台所
    • 書院及び奥書院
    • 御内仏
  • 紙本金地著色洛中洛外図六曲一双
勝興寺本。高岡市美術館寄託。筆者は狩野孝信及びその周辺の絵師か。

富山県指定文化財

勝興寺宝物
工芸品28品、絵画14点、彫刻1点、書跡13点、古文書180点。

七不思議

  • 実ならずの銀杏
  • 天から降った石
  • 水の枯れない池
  • 屋根を支える猿
  • 魔除けの柱
  • 雲龍の硯
  • 三葉の松

脚注

  1. ^ a b “平成の大修理400人祝う 高岡・勝興寺で竣工式 国宝化に期待”. 富山新聞. (2021年4月13日). オリジナルの2021年4月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210413091252/https://www.hokkoku.co.jp/articles/tym/383497 2021年4月13日閲覧。 
  2. ^ a b c d 『高岡 勝興寺「平成の大修理」令和に完結 よみがえる江戸期の姿』北日本新聞 2020年1月4日付22面、23面
  3. ^ 『勝興寺総門 修復完了』北日本新聞 2020年7月21日付1面
  4. ^ 『勝興寺 大修理完工祝う 伏木』北日本新聞 2021年4月13日1面
  5. ^ 『伏木の宝 未来へつなぐ 勝興寺 「平成の大修理」 完工』北日本新聞 2021年4月13日32面
  6. ^ 『ふるこはん 令和に輝く 勝興寺・平成の大修理完工(2) 』北日本新聞 2021年4月4日26面
  7. ^ 北日本新聞: p. 34. (2011年7月23日) 
  8. ^ a b c d e 『破格の規模 高い評価 国重文 江戸期の12棟』北日本新聞 2021年4月9日16、17面
  9. ^ a b 雲龍山 勝興寺 伽藍配置
  10. ^ 勝興寺「唐門」の修復が完了 - 高岡市、2014年9月
  11. ^ a b 国宝・重要文化財(建造物)の指定(文化庁報道発表、2022年10月12日)。

参考文献

目録
  • 財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団編集・発行 『雲龍山 勝興寺絵画目録』 2010年3月
  • 財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団編集・発行 『雲龍山 勝興寺文書目録』 2012年3月
展覧会図録
  • 富山県高岡市教育委員会文化財課編集 『重要文化財勝興寺本堂落慶記念 勝興寺宝物展図録』 勝興寺、財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団、高岡市発行、2005年10月
  • 高岡市民文化振興事業団高岡市美術館学芸課編 『高岡の名宝展 鳳凰鳴き文化の華ひらく 前田家と瑞龍寺・勝興寺を中心に』 高岡の名宝展実行委員会、2009年9月
雑誌記事
  • 「文化財の新指定」『月刊文化財』292号、1988年
  • 「新指定・新選定の文化財」『月刊文化財』388号、1996年

外部リンク