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二十六年式拳銃

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二十六年式拳銃
二十六年式拳銃
二十六年式拳銃
概要
種類 軍用回転式拳銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 東京砲兵工廠
性能
口径 9mm
銃身長 120mm
ライフリング 4条
使用弾薬 二十六年式拳銃実包
装弾数 6発
作動方式 ダブルアクション
全長 230mm
重量 927g
銃口初速 150m/s [1]
166~194m/s [2]
有効射程 100m
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二十六年式拳銃(にじゅうろくねんしきけんじゅう)とは、日本陸軍1893年(明治26年 [3] )に制式とした国産回転式拳銃 [4] である。

開発

創設間もない日本陸海軍で最初に制式とされたS&W No.3 回転式拳銃 [5] は強力な弾薬を使用でき、壊れ難い頑丈な構造を有していたが、その重量・サイズの大きさやシングル・アクション(S/A)専用で片手での連射に難のあった点が欠点とされ、ダブル・アクション(D/A)機構を有する拳銃が待望されていた。

既に村田銃の国産化に成功していた日本陸軍は、1886年(明治19年)にフランス軍用MAS 1873拳銃を入手 [6] し、陸軍戸山学校において国産化研究を始めたが、維新以来の技術的な蓄積により模倣が比較的容易だったグラース銃 [7] とは異なり、日本とは桁違いに高いフランスの工業水準を背景に、より新しい技術で製造されていたMAS 1873拳銃の模倣は困難をきわめた。

MAS 1873拳銃は銃身と一体化したフレーム内に弾倉が固定されている構造だったため、中折れ式よりも頑丈(=高圧の弾薬に耐え得る)だったが、中折れ式のS&W No.3に比べて排莢・再装填に時間がかかる点が嫌われ、中折れ式の継承を望んでいた騎兵科からの上申により、.38口径で中折れ式とD/A機構を兼備した“スミスウエソン五連発拳銃”(S&W .38 Double Action拳銃[5])の採用が、この時期に検討された記録も残されている。 [8]

また、MAS 1873拳銃は黒色火薬を用いた弾薬を使用していたが、同時期に欧州で製品化されたばかりの無煙火薬採用が追加して求められるなど、東京砲兵工廠での国産化計画は1893年に至っても具体的成果を挙げられないまま難航した。

国産化の試行開始から7年を経た1893年に至り、MAS 1873拳銃を模倣するプランは放棄 [9] され、世界中に多くの銃器を輸出して日本の銃器開発とも密接な関係のあった、ベルギー製“9mm Belgian Nagant M1878”[6]と、その弾薬である“9mmx22R”弾[7]をモデル [10] [11] に、S&Wの中折れ式機構を足した独自設計の拳銃が急遽開発され、 これが陸軍の新制式拳銃として採用[3]された。

メカニズム

二十六年式拳銃がモデルとしたNagant M1878は、サイド・プレート(機関部側面の蓋)を簡単に取り外す事ができる構造となっていたが、二十六年式拳銃はこれを継承・発展させて蝶番状にサイド・プレートを開いて、日常的なメンテナンスを簡単に実施できる構造 [12] となっていた。

拳銃に狙撃能力は必要ないとの判断から、S/A機能および撃鉄の指かけ部が削除されてD/A [13] のみとされ、照準は固定式で製品によってバラつきがあった事が記録 [1] されている。

また、シリンダー(蓮根状の弾倉)が勝手に回転するのを防ぐ部品(シリンダー・ストップ)が付いておらず、引き鉄を絞るとその一部がせり上がってシリンダー・ノッチ(窪み)に嵌合して、撃発時のみシリンダーの動きを止める構造となっているのも二十六年式拳銃の特徴である。 [14]

銃身

二十六年式拳銃の銃身は、9mmx22R弾薬の弾頭外径が9.10mm [15] であるのに対して、腔線(ライフリング)の深さを0.15mmとして谷径を9.30mmまで彫り [16] [17] [18] 、意図的にライフリング谷底の間隙から前方へガス漏れを発生させる構造とされた。

この手法は現代銃器のH&K VP70にも継承されており、同銃も二十六年式拳銃と同様に深彫りライフリングを用いて腔圧を下げる工夫が施されているが、腔圧を下げた代償として初速が低下するデメリットでも知られ、特に二十六年式拳銃では端的な低威力 [1] [15] の原因となっている。

弾薬

二十六年式拳銃用の専用弾薬である9mmx22R弾薬[8] [1] [2] [15] は、.38 S&Wに近いサイズの薬莢 [19] を用いていたが、その内部構造は現代式の無煙火薬を用いる弾薬とは若干異なっており、火薬と弾頭の間には2枚の厚紙で上下を挟まれた蝋板があり防湿と火薬蓋を兼ねているなど、旧来の弾薬から継承されたデザインで製造されていた。

同弾薬のエネルギー値は、当初の模倣対象だったフランス軍用MAS 1873拳銃に使用されていた11mm Mle 1873弾薬 [20] に準じたエネルギー値となっていた [21]

弾頭が被甲されていないため、人体に命中すると変形するダムダム弾(軟頭弾・ソフトポイント弾)と認識される可能性があったが、束ねた新聞紙・杉板・砂に対して同弾を撃ち込んだ実験 [1] の際には、初速が非常に低いため弾頭の著しい拡張・変形現象は発生せず、ハーグ陸戦条約には抵触しない水準のものとして、そのままの形状で使用され続けた [22]

その後

世界各国の軍用拳銃は自動拳銃の採用へ進みはじめ、早くも日露戦争から陸軍内で南部式大型自動拳銃が使用 [23] されていたが、当時の用兵では拳銃の用途は限定されたものであり、拳銃を主装備とした騎兵科の衰退とともに長年その更新が省みられる事はなく、回転式で故障も少ない二十六年式拳銃はそのまま使用され続けた。 [24]

二十六年式拳銃の生産は、十四年式拳銃より小型で安価な九四式拳銃が採用された1930年代後半に終了したと考えられているが、操作が容易で扱い易かったため太平洋戦争の終結まで愛用された。

エピソード

  • 日露戦争に従軍した軍人によって『戦地でを見つけて二十六年式拳銃で撃ったところ、鼻に当たった弾が潰れてポトリと落ちた』との笑い話が伝えられている。
  • 二・二六事件で襲撃された鈴木貫太郎は、二十六年式拳銃で至近距離から3発も銃撃されながら死を免れたため、これをして同銃の低威力さへの例証とする意見もある。[25]
  • 明治後期から二十六年式拳銃は一般に市販されており、銃が22円(現在の44,000円程度)、弾薬が100発3円(現在の6,000円程度)と手頃な価格だった。
  • 全ての製造期間において美しい仕上げが施されていたため、戦後に進駐した米兵の間でも二十六年式拳銃は戦利品として人気があり、多数が残されているため価格も手頃である。
  • 現代の米国ではType 26と呼ばれており、9mmx22R弾薬を自作して本銃の射撃を楽しんでいる人達も存在し、弾薬の入手・再現に苦労させられ、製作された当時の苦肉の策だった安全策のため高いパフォーマンスは得られないものの、比較的安全かつ楽しく射撃できるアンティーク的な指向の銃器として認識されている。[26]

登場作品

注釈

  1. ^ a b c d e Refcode:C02030552600
    『26年式及南部式拳銃射撃表送付の件』
    陸軍省大日記 大正12年 「陸普綴 正 参謀本部 庶務課」
    陸軍省副官 松木直亮 大正12年3月3日 参謀本部庶務課長 川田明治
    「附属品添附 陸普第七三九号 庶布第三二号 3月6日 26年式及南部式拳銃射撃表
    送付ノ件通牒 大正12年3月3日 陸軍省副官 松木直亮 参謀本部庶務課長 川田明治 首題ノ射撃表別紙配賦表ノ通及送付候也 参謀本部 拳銃射撃表 二部 内訳 本部一、 大学校 一、 26年式拳銃 南部式大型拳銃 南部式小型拳銃 射撃表 大正11年8月 陸軍技術本部編」
    「~本拳銃ノ照準線ハ厳密ニ製作セラレアラスシテ各銃ニ付キ●大ナル差異アリ、然レトモ大約十五米ノ距離ニテ弾着点ト照準点カ一致スル如キモノヲ基準トスルカ故ニ上表ニ於テハ此ノ場合ノ弾道高ヲ示セリ」
    (画像資料より実包重量/弾頭重量・初速の数値を抜粋し、エネルギー値を再計算)
    9mm(二十六年式) 11.5g/9.8g 150m/s 111J
    7mm南部弾 7g/3.65g 280m/s 144J
    8mm南部弾 9g/6.5g 315m/s 324J
    尚、海軍陸戦隊MP18モーゼルC96で使用された各弾薬の値は以下の通りである。
    7.65x21mm 6g 365m/s 400J ←8mm南部弾とほぼ同寸
    7.63x25mm 5.6g 430m/s 508J (5.5g 525m/s 760J)
    9x19mm 8g 360m/s 518J (7.45g 390m/s 570J)
    9x25mm 8.3g 450m/s 840J
    .45 ACP 15g 250m/s 477J (13g 330m/s 702J)
    ( )内の数値は第二次世界大戦中にサブマシンガンに使用された強装弾薬
  2. ^ a b RELOADING DATA: 9mm JAPANESE REVOLVER(Midway Arms, Inc.)
    弾径: 9.017mm (.355in)
    弾重: 9.721g (150gr)
    薬量: 0.194~0.24g (3.0~3.7gr)
    弾速: 166.1~194.2m/s (545~637fps)
    エネルギー: 135~184J
    注:本データ中の弾径は二十六年式拳銃の銃身内ライフリング山径とほぼ同一である。
  3. ^ a b 二十六年式拳銃が実際に形となって生産が始まるのは1894年(明治27年)以降の事であり、同時期に民間で製造された桑原製軽便拳銃と、ほぼ一緒にデビューを迎えている。
    Refcode:C08070404100
    『東京砲兵工廠 二六年式拳銃制式図』
    陸軍省大日記 陸軍大臣伯爵大山巌 明治27年6月20日
    「陸逹第六十号 二十六年式挙銃制式別紙図面ノ通定ム 明治二十七年六月二十日 陸軍大臣伯爵大山巌 二十六年式挙銃(1/2)(1/4)」
  4. ^ 1853年ペリー来航時に徳川家慶に献上された米国製のドラグーン型回転式拳銃が、積極海防派の代表的人物だった徳川斉昭治下の水戸藩で国産化されていたため、二十六年式拳銃の登場以前から国産の回転式拳銃が存在していた。
    水戸藩で製造されたドラグーン拳銃は、1860年に発生した桜田門外の変において、水戸浪士の多くがこの拳銃を携帯して襲撃に参加していた、との口伝を子孫が伝えているほか、その現物も残されており、当時の日本には近代工業基盤が存在しなかったため、製造技術水準が低く銃身内にライフリングが刻まれていなかった事も判明している。
  5. ^ 初期の日本陸軍では、針打(センター・ファイア)式のS&W No.3および、蟹目打ち(ピン・ファイア)式の各拳銃を、銃身長や装弾数の違いにより一番形二番形三番形として分類し、各々制式としていた。
    Refcode:C04029053800
    『蟹目3番形ヒストル銃其他代価の受取方申入』
    陸軍省大日記 陸軍省総務局 陸軍歩兵中佐児島@@ 明治13年4月29日
    「総水局第三三二号 形@蟹目三番形ピストル銃三挺 但目弾薬四@発添 五連針打三番形ピストル銃三挺 但目弾薬百発添 右砲兵第二方面ニ於ケル売却@代価@局可相納ニ付御@@@此段申入候也 十三年四月二十九日 陸軍歩兵中佐児島@@ 会計局 長官御中」
  6. ^ 当時のフランス軍インドシナなど高温多湿な熱帯植民地を獲得しており、弾薬の防湿性の低さと発火の不確実さに悩まされ続け、1879年のトライアルで採用されたGaupillatによる改良型弾薬によって、ようやくその解決を見ていた。(12 mm French for 1873 Navy revolver, HISTORIA DEL CARTUCHO)こうした情報は第二次仏軍軍事顧問団を通じて既にもたらされており、研究用拳銃の入手に際しては、ゴービヤ(Gaupillat)拳銃(またはゴーピ式拳銃)の入手が、フランス駐在武官の鶴田砲兵大尉に対して求められている。
    Refcode:C03030092300
    『仏国日本公使館、シャーテルロー銃器工作物の儀に付照会』
    陸軍省大日記 戸山学校長 茨木惟昭 明治19年7月
    「シャーテルロー銃器工作場拳銃買遣シ方如此申込 蜂須賀公使ヘ御照会案 先般シャーテルロー銃器工作場ノ改良ニ係ル拳銃等買入方之義及御依頼候処過ル四月十六日付ヲ以テ該銃ハ士官用ニ不適当既ニ廃棄属シ候趣@ニ御回答之趣領承就而ハ右代品トシテ@@ゴービヤ拳銃外弾薬筒及ビラベーステレメートル外三点購入致度此ハ御地在留鶴田陸軍砲兵大尉ヘ申遣置候得共尚於貴館購入回送方等可然同人ヘ御指揮相成旨此如再応及御依頼候也~」
    Refcode:B07090253700
    『11. 戸山学校ニ於テ入用ノ拳銃買入代金ノ件』
    陸軍大臣侯爵大山巌 明治20年2月18日
    「一一、 受第一六七〇号 在仏国原代理公使ヘ之別紙電報通信方可然御取計相成度此段及御依頼候也 明治二十年二月十八日
    陸軍大臣侯爵大山巌 外務大臣侯爵井上馨殿 戸山@子校ニ於テ入用之巻銃等買入代金之@リ之仏国ゴービヤ拳銃@葉@更ニ七千五百@買入送付スベキ@@田大@@@有タシ~」
    “To Mr.Hara Japanese Legation, Paris, France.
    Inform Captain Tsuruda to buy ●●● 7500 cartridge of Gaupillat pistol more with the remainder of the expense on pistol etc. bought for Toyamagakko, and send them.
    Oyama Minister of war
  7. ^ グラース銃は、幕末に輸入されたシャスポー銃とほぼ同じものであり、西南戦争前から国産化が検討されて、これが実現したものが村田銃である。
  8. ^ Refcode:C06081864500
    『騎兵隊下士卒携帯拳銃改定の件 陸軍省大日記 明治26年6月9日
    「第一〇五号 受領番号二十三年貳第三〇七号砲兵会議へ御達案 騎兵隊下士携帯拳銃之義ハ其会議意見之通「ゴピー」式拳銃ニ改定ノ条不置く品審査スへシ 陸軍省送達送乙第一〇一五号 監軍部送達甲第九四二号 騎兵隊下士携帯拳銃改定之義別紙甲号之通リ騎兵監具申候ニ就キ砲兵会儀ニ於テ審査セシメ候處別冊乙号~
    ~今回スミスウエソン五連發拳銃ヲ以て騎兵隊用拳銃トシテ定相成度●拳銃ハ軽便ニシテ適當ノモノト~」
    同銃の中折れ構造は二十六年式拳銃にも導入されたほか、後に姉妹品である.32口径版が桑原製軽便拳銃として民間でコピー生産され、二十六年式拳銃より強い威力を持ちながら小型で安価だったため大変な好評を博している。
  9. ^ Refcode:C06081734000
    『火薬箱製作受授達並ゴピ-式拳銃製作受授取消の件』
    陸軍省大日記 軍務局長 明治26年2月9日
    「二第二二四号 火薬箱製作受授御達並ゴピー式拳銃製作受授取消之儀御達並通牒之件 東京砲兵工廠ヘ御達案 火薬箱 右至急製作之上砲兵第一方面ヘ引渡代価ハ同方面ヘ請求スヘシ 砲兵第一方面ヘ御達案 品目員数前同断 右至急製作引渡方東京砲兵工廠ヘ達相成候条受領スヘシ 送乙第一七二号 高級副官ヨリ東京砲兵工廠並砲兵第一、第二文局ヘ通牒案 客年七月送乙第二一一一号ヲ以テ製作引渡方御達相成候兵器弾薬ノ内ゴピー式拳銃同実包及空包ノ三点今般取消相成候条此段及御通牒候也 送乙第一七三号 (但砲兵第一方面ヘハ「製作引渡」ヲ受領送達」ニ砲兵第二方面ヘハ「受領」ニ@ユ) 明治二十六年二月九日 軍務局長
  10. ^ A 9 m/m Belgian Nagant cartridge, Belgian Nagant Revolvers
  11. ^ Mosin-Nagant小銃の設計者としても知られるNagant兄弟のデザインに基づく回転式拳銃の完成形は、ロシア帝国軍に採用されたNagant M1895(独自のガス・シール機構を持つ)となった事で知られている。
    尚、日露戦争で日本軍と交戦した極東のロシア軍は、欧州に比べて装備の更新が遅れていたため、S&W ロシアン・モデルを使用していた事が知られている。
    同銃はS&W No.3のロシア向け輸出バージョンだったが、日露戦争ではこの銃が大量に鹵獲された。
    その後、鹵獲品のS&W ロシアン・モデルは、日本軍から退役した多数のS&W No.3とともに倉庫に眠っていたが、1938年に日本が後援して成立させた汪精衛政権軍に供与された。
    日本の敗戦と汪精衛政権の崩壊により、これら旧式拳銃多数も国民党軍によって接収されたが、近年になって台湾の倉庫で眠っていたものが発見された例が知られている。
  12. ^ 二十六年式拳銃のモデルとして良く誤解されているのがLebel M1892だが、同銃と二十六年式拳銃の共通点はサイド・プレート(機関部側面の蓋)が蝶番状に開ける点だけで、その方向にも用心鉄の用い方にも、全く共通点は無い。
  13. ^ 二十六年式拳銃のD/A機構は、後のS&W社製品のような洗練されたものではなく、重い引き鉄を力まかせに引くものである。
    S&W社のD/A機構であれば、引き鉄を絞って行くと最後のひと詰め直前でシリンダーの動きが止まるため、このタイミングで照準を定めてから射撃する事ができる。このため、しばらく空撃ち練習を続けていれば、D/AでもS/Aと同じように精密な射撃が可能になる。
    幕末のエンフィールド銃に始まり村田銃へと続く驚異的な進化を続けていた小銃に比べて、命中精度が極端に低く射程も短い拳銃は威力・精度の面で取り残された存在となっていた。
    当時の軍用拳銃は歩兵部隊の火力として重要な存在ではなく、騎乗しながら射撃する騎兵を除けば、戦闘中に脱走しかねない部下の兵士達を牽制する用途が主であり、滅多に起きない至近距離での白兵戦や、匪賊の銃殺時にしか用いられない銃器であり、実用性以上に象徴的な存在としての意味が大きかった。
  14. ^ ノッチ部分を切削する事でシリンダーが肉薄となり、発射時の圧力に耐えられず穴が開いてしまう事故を防ぐために、段差が付けられたシリンダー構造も、Nagantから二十六年式拳銃に継承された特徴であり、両者の外見を良く似たものとしている。
  15. ^ a b c 二十六年式拳銃用の9mmx22R弾薬諸元(サイズ)は以下[1]の通り
    全長 30.47mm
    莢長 21.85mm
    弾径 9.10mm
    莢頭外径 9.52mm
    莢後外径 9.80mm
    莢縁外径 11.10mm
    莢縁厚 0.80mm
  16. ^ Refcode:C08070648500
    『砲兵課 26年式拳銃保存法制定の件』
    陸軍省大日記 陸軍大臣 寺内正毅 明治36年11月14日
    「二十六年式拳銃保存法 陸達第九十四号 二十六年式拳銃保存法別冊ノ通定ム 明治三十六年十一月十四日 四軍大臣寺内正毅
    二十六年式拳銃保存法目次 第一部 構造 一丁 銃身 一丁 弾巣 二丁 撃発機 四丁 銃床 七丁 属品 九丁 弾薬 十一丁 第二部 分解結合法 十一丁 第三部 取扱法及拭産争法 十八丁 取扱法 十八丁 拭浄法 二十二丁
    二十六年式拳銃保存法 第一部 構造 銃身 第一 銃身 鋼製ニシテ外部ヲ染共ス銃腔ノ全長百二十密米口径九密米腔綫ハ四条ニシテ其ノ深サ零密米一五ナリ 第二 銃身延長部ノ後端ハ凸字形ニ削開シ愛ニ鎖鉤ヲ其ノ駐螺ヲ以テ装著シ又此ノ削開部ノ前端ニ接シテ矩形ノ室ヲ設ケ游頭及同発条~」
    尚、三八式歩兵銃をはじめとする各種6.5mm口径の火器(メトフォード式腔線)においても、弾径6.7mmに対して山径6.5mm・腔線深さ0.15mmとされていた。
    Refcode:C02030848300
    『小銃及機関銃腔線経始制式改正の件』
    陸軍省大日記 陸軍技術審査部 大正7年2月~大正7年4月
    「軍務局各課連帯 砲三第六号 軍歩第一五号 工3月4日 騎三第一四号 @@@第二九号 三第一二六号 陸軍技術審査部 小銃及機関銃腔綫経始制式改正ノ件 主務局長 銃三第二三号 大正7年2月25日 大正7年4月9日 陸普 通牒 副官ヨリ陸軍技術審査部長ヘ 首題ノ件本年2月22日附甲第三二号上申ノ通可被定候条該図面各銃毎ニ左記ノ通調製送付相成度候也 左記 陸普第七五八号 3月13日 一、三八式歩兵銃、七二通 一、三八式騎銃 七二通 一、四四式騎銃、五六通 一、三八式機関銃 七二通 一、3年式機関銃、七二通 右図面送付アリタル后左案決行相成度候 陸普 同官ヨリ各師団(第七ハ留守部経由)参謀長 朝鮮駐剳軍参謀長」
    文書11頁の附図中に山径:6.5mm、腔線深さ:0.15mmの記載がある。
  17. ^ 19~20世紀のフランスでは、小銃用銃身を製造した際に、かなりの割合で発生していた不合格品を用いて拳銃用の銃身を製造していたため、拳銃の口径は小銃の口径に合わされていた。
    この過程でフランス軍用小銃に用いられていた腔線深さ0.2~0.15mmという数値が輸入された。
  18. ^ 例として、現代で最も一般的な拳銃弾である9x19mmの弾頭と銃身内のサイズは下記の通りであり、前方へのガス漏れを防ぐために銃身内径より弾頭の外径が若干大きめに作られている。
    弾径:9.03mm
    山径:8.82mm
    谷径:9.02mm
    腔線深さ:0.1mm
  19. ^ 米国のユーザ[2]によれば、二十六年式拳銃に.38 S&Wの薬莢底部を削って改造した弾薬を用いており、弾頭は.38 S&Wのものをそのまま流用しているという。
    .38 S&Wの弾径は.361インチ(9.17mm)と、二十六年式拳銃用の9mmx22R弾薬のそれ(9.10mm)よりも若干大きいが、二十六年式拳銃はライフリングの谷径が9.30mmもあるため問題なく発射でき、初速183m/s(弾頭重量9.5g 160J≒.32 S&Wと同程度)と、オリジナルの9mmx22R弾薬より良好なパフォーマンスを示しているという。
  20. ^ 11mm Mle 1873弾薬は、二十六年式拳銃が採用される4年前に改修されてMle 1873/90弾薬となっており、エネルギー値は2倍近くまで強化されていたが、二十六年式拳銃にはこの改修が反映されることはなく、終戦まで使用され続けた。
    “豚と二十六年式拳銃”(後述)のエピソードなど、日露戦争の頃から低威力な拳銃として認識されており、二十六年式拳銃の採用からわずか8年後に登場した南部式自動拳銃(軍用としては弱装である)は強力な拳銃(エネルギーは二十六年式拳銃の3倍近い)と認識されていた。
  21. ^ 9mmx22R弾薬(小銃薬または小粒薬(共に黒色火薬)を使用)と、MAS 1873拳銃に使用された11mm Mle 1873およびMle 1873/90弾薬(共にN火薬(黒色火薬)を使用)、その後継となったLebel M1892用の8mm/92弾薬(N火薬またはB火薬(無煙火薬)を使用)等のフランス軍用拳銃弾薬のエネルギー値を比較すると下記のようになる。
    弾重 9.8g, 11.7g, 10,6g, 7.8g
    薬量 0.6g, 0.65g, 0,80g, 0.79g(N) または 0.3g(B)
    初速 150m/s, 130m/s, 190m/s, 225m/s
    エネルギー 111J, 98.1J, 196.2J, 196J
    注:数値は左から、9mmx22R、11mm Mle 1873、Mle 1873/90、8mm/92
    また、二十六年式拳銃が開発された当時に使用されていた各種銃器・弾薬のエネルギー値は下記の通りである。
    51 Navy 260J前後 幕末期の9mm口径前装式拳銃
    .44 Russian 420J 前制式のS&W No.3用の弾薬
    .41 Rimfire 70J デリンジャー用の弾薬
    .32 S&W 126~156J 桑原製軽便拳銃用の弾薬
    .38 S&W 240~280J  9mmx22Rとほぼ同寸の弾薬
  22. ^ 日露戦争に際しては、ロシア軍からの鹵獲弾薬のなかからダムダム弾(軟頭弾・ソフトポイント弾)が発見され、これに日本軍が抗議しているが、日本軍将校が私物で携行したモーゼルC96用弾薬として、ダムダム弾が市販されている事が判明したとして、注意を喚起した文書も残されている。
    『陸軍次官 拳銃携帯出征の者軟頭弾携行せさるの注意の件』 陸軍省大日記 大本営陸軍副官管 陸軍次官 石本新六 明治37年8月4日 「滿密第一三四九号 大本営陸副臨第一六二六号第一 通牒 明治三十七年八月四日 陸軍次官石本新六 曩ニ第一軍方面ニ於テ我軍ノ鹵獲セシ敵ノ携帯兵器中ニダムダム彈アリシ趣ヲ以テ第一軍司令官ヨリ報告アリ今其実物ノ到着スルニ及ヒ之ヲ審査スルニ果シテ所謂ダムダム彈ナル事ヲ明ニセリ
    然ルニモーゼル式十連発拳銃ト称シテ金丸(金丸銃砲店)大倉(大蔵商事)等ノ銃砲商ニ於テ販売スル拳銃ニハ此類ノ弾薬即チ軟頭彈(弾頭ニハ被筒ノ一部ヲ截除シ鉛ヲ露出シアリ)ト尋常彈即チ完全被套彈トヲ併用スル趣ニテ該商人等ハ往々軟頭彈ヲ供給シテ憚カラサル哉ニ聞及候ニ就テハ各自不知不識ノ間軟頭彈即チ所謂ダムダム彈ヲ携ヘ居ルモノ無キヲ保セス就テハ将校以下ヲシテ厳ニ注意セシメラレ出征ニ~」
  23. ^ 日本陸軍において最初に南部式自動拳銃の使用が確認できるのは、日露戦争中の公文書においてである。
    Refcode:C03025973300
    『12加、15臼移動砲床送付件』
    陸軍省大日記 軍務局砲兵課 明治37年11月16日~明治37年11月30日
    「~別紙之通兵器本廠ヨリ送達セシメ候条受領シ自働拳銃実包ハ第三軍砲兵部ヘ~
    ~別紙品目中自働拳銃ハ貴部ヘ宛他ハ第一攻城砲廠ヘ送付セラレ候条受領セシメラレ度~
    ~本省扣 自働拳銃実包(南部式)
  24. ^ 南部式自動拳銃は中国やタイへ輸出されるなど一定の地位を築き、1924年(大正13年)には海軍が採用し翌年には改良型の十四年式拳銃が曲折を経て念願の陸軍採用にこぎ付けたものの、十四年式拳銃は高価なわりに信頼性が低く、大きなサイズの割にはモーゼルC96の性能に敵わず、輸入品との競争において中途半端な存在だった。
    特に清朝末期からモーゼルC96が輸入され、国内でもコピー生産が行われるほど人気の高かった中国では、日本側の売り込み努力にもかかわらず二十六年式拳銃や十四年式拳銃の人気はイマイチだった。
    1935年(昭和10年)に日本が成立させた冀東防共自治政府の保安隊では、日本が代弁しての兵器購入に際してまでモーゼルの購入を要請し、不快感を示した日本軍側が「小銃で充分だろう」「二十六年式や十四年式なら在庫があるが、モーゼルなんぞない」といった反応を示したものの、結局は大蔵商事(泰平組合の出資企業で大陸への武器輸出を長年扱っていた)を経由して、モーゼルの輸入を手配する事になった、という顛末が記録されている。
    Refcode:C01003320800
    『冀東政府拳銃購入の件』 陸軍省大日記 昭和11年11月~昭和12年12月
    「満密第一四六八号 天津軍 冀東政府拳銃購入ノ件 昭和11年11月18日 昭和12年12月10日 次官ヨリ天津軍参謀長宛電報案(暗号)
    「モーゼル」拳銃購入方大倉ニ指示スベシ 陸三八三 昭和11年11月19日 満密第一四六八〇号ノ五 電報訳 11月12日午後二時五八分発 11月12日午後五時一八分著 軍務局宛 発信者 天津軍参謀長 支参三四九 専田ヨリ園田中佐ヘ 冀東側購入ヲ希望シアル「モーゼル」拳銃ハ日本製ノ26年式又ハ南部式等ヲ嫌ヒタルモノニアラスシテ御承知ノ如ク支那ニ於テハ銃ト言人ハ「モーゼル」「モーゼル」ト言人ハ即チ拳銃
    次官ヨリ天津軍参謀長宛電報票(暗号)
    ~大型拳銃ヲ要スルナラハ小銃ヲ以テ之ニ換ヘ小型拳銃ナラハ日本製ノモノヲ用フル如ク指導セラレ度 又青海馬歩芳ヨリ請求ノ歩兵銃●弾薬ハ申請ノ通リ取リ計フヘシ」
  25. ^ 兵頭二十八氏 日露戦争講演(再録) update 2004/04/02
    『見えない「精度」に投資できなかった近代日本』
    「ちょっとこの「26年式拳銃」についてもお話をしておきましょうか。
    重たい割に、弾に威力がない。しかも命中率も悪い--と、あまり評判は宜しくありませんでした。のちの「二・二六事件」で反乱軍の下士官がこの拳銃を武器庫から持ちだしまして鈴木貫太郎に向かって屋内の至近距離から3発打ち込みました。死んだと思って引き揚げたら弾はすべて体の中央を外れておりまして、やがて侍従長の傷はすっかり癒えたという。その程度の威力でございます。」
    鈴木貫太郎は左脚付根・左胸・左頭部を銃撃されたが、即死せず意識もあったが、医師の手当て中には一時心停止状態となっている。
    頭部に入った弾丸は頭蓋骨を貫通しているため、頭部の脳幹を撃てば充分に即死させられる能力があったとも考えて良い。
    尚、本講演中には下記のような事実誤認があるが、内容は概ね正しいため指摘の上で出典とした。
    • 明治19年にフランスから購入された拳銃2梃とは、Mle92ではなくMAS 1873拳銃(ゴービヤ“Gaupillat”拳銃・ゴピー式拳銃)である。
    • 明治24年当時に存在したGasser拳銃とは、ピン・ファイア式のGasser拳銃[3]を改造したGasser M1873であり、二十六年式拳銃との共通点は無い。
    • 二十六年式拳銃用の9mmx22R弾は終戦まで被甲なしの鉛弾頭で製造されている。
  26. ^ 米国における二十六年式拳銃は、アンティーク的な指向の銃器ではあっても、“1899年1月1日以前に製造され、アンティークとして法的に現代銃器に分類されない存在”ではない。[4]
    BATFによれば、製造日を示す刻印が銃器本体に残されていなければアンティークとは認定されないため、製造番号以外の製造記録が刻印されていない二十六年式拳銃は認定の対象外となるためである。
    any firearm with a frame or receiver that actually made before Jan. 1, 1899 is legally "antique" and not considered a "firearm" under Federal law. This refers to the actual date of manufacture of the receiver/frame, not just model year or patent date marked.

関連項目

 :現在、本銃を精密モデルガンとしてモデルアップしている唯一のメーカー