一人息子 (映画)

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一人息子
The Only Son
監督 小津安二郎
脚本 池田忠雄
荒田正男
原作 ゼームス・槇
製作 松竹大船撮影所
出演者 飯田蝶子
日守新一
音楽 伊藤宣二
撮影 杉本正次郎
配給 日本の旗 松竹キネマ
公開 日本の旗 1936年9月15日
上映時間 87分[1] / 現存 83分[2]
製作国 日本の旗 日本
言語 日本の旗 日本語
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一人息子』(ひとりむすこ)は、1936年(昭和11年)製作・公開、小津安二郎監督による日本の長篇劇映画、現代劇である。デビュー以来、サイレント映画を撮り続けた同監督の初のトーキー作品である[1][2][3]松竹蒲田撮影所が同社のトーキー第1作『マダムと女房』(1931年)以来採用していた「土橋式トーキー」ではなく、小津番のカメラマン茂原英雄が開発した「茂原式トーキー」を採用した[2]。茂原は撮影を杉本正次郎に任せ[1]、初めて録音技師に回った[4]

略歴・概要

小津安二郎が「ゼームス・槇」名義で書き下ろしたストーリーを池田忠雄荒田正男が脚色した[1]。録音技師を務めた茂原英雄に代わり、撮影技師を務めた杉本正次郎は、1933年(昭和8年)に小津の監督作『出来ごころ』を手がけた技師である[5]。松竹蒲田撮影所では、1931年(昭和6年)の日本初の本格トーキー劇映画『マダムと女房』(監督五所平之助)を発表以来、土橋武夫の「土橋式トーキー」を採用していたが、小津はその後もサイレント映画を発表し続け、本作が初のトーキーとなった[2]。1929年(昭和4年)の『学生ロマンス 若き日』以来、カメラマン茂原の助手として小津組に参加してきたのちの小津番カメラマン厚田雄春[6]は、本作ではチーフ撮影助手を務めた[1]

本作は、1936年(昭和11年)1月15日に蒲田撮影所が閉鎖されて大船に移転しており[3]松竹大船撮影所製作とされている[1][3]が、録音助手を務めた、茂原の弟子でのちの録音技師・熊谷宏の回想によれば、実際は、小津組以外だれもいない蒲田撮影所で撮影が行われたという[7]。茂原がトーキーの新システム「SMSシステム」(スーパー・モハラ・サウンド・システム)、通称「茂原式トーキー」の開発を蒲田の花街に事務所を構えて行っていたからで[7]、茂原の妻であり本作に主演した飯田蝶子をはじめ、出演した女優の坪内美子吉川満子らが夜食の炊き出しを行い、アットホームな撮影現場であったという[7]。事実上、小津にとっても、松竹キネマにとっても、最後の「蒲田撮影所作品」となった[3][7]

本作は、1936年(昭和11年)9月15日、松竹キネマの配給によって、東京・浅草公園六区帝国館をフラッグシップに全国公開された[1]

本作の上映用ポジプリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターが7,383.12フィート(2,250.4メートル)の35mmフィルム、2,968.11フィート(904.7メートル)の16mmフィルムの2ヴァージョン、いずれも82分の尺長のものを所蔵している[8]。2003年(平成15年)11月22日、松竹がリリースした『小津安二郎 DVD-BOX 第三集』に収録された。

スタッフ・作品データ

クレジットおよびデータは日本映画データベースの本項参照[1]。スタッフクレジットのカッコ内は現在の職能名称。

キャスト

  1. ^ a b c d e f g h 一人息子、日本映画データベース、2010年3月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e 小津安二郎の藝術東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月3日閲覧。
  3. ^ a b c d 日本映画発達史 II 無声からトーキーへ』、田中純一郎中公文庫、1976年1月10日 ISBN 4122002966, p.300-302.
  4. ^ 茂原英雄、日本映画データベース、2010年3月2日閲覧。
  5. ^ 杉本正次郎、日本映画データベース、2010年3月3日閲覧。
  6. ^ ある日常化された「奇跡」について -小津安二郎と厚田雄春-蓮實重彦デジタル小津安二郎東京大学、2010年3月3日閲覧。
  7. ^ a b c d 『松竹大船撮影所秘話 トーキー映画本格始動 古畳で防音を図り撮影』、森田郷平神奈川新聞、2006年2月20日付記事。
  8. ^ 所蔵映画フィルム検索システム、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月3日閲覧。

外部リンク