ヴァスコ・ダ・ガマ
ヴァスコ・ダ・ガマ | |
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ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama) | |
生誕 |
1469年頃 ポルトガル・シーネス |
死没 |
1524年12月24日 インド・ゴア |
職業 | 探検家、航海者 |
ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469年頃 - 1524年12月24日)は、ポルトガルの航海者で、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマとも。
1993年に発行された5000エスクード紙幣に肖像が印刷されていた。
家族
- 親
- 兄弟
第1次航海
1497年7月8日、リスボンを出航した4隻
- サン・ガブリエル, São Gabriel:ヴァスコ・ダ・ガマ 指揮、キャラック船、178トン、全長27m、幅8.5m、ドラフト2.3m、帆372m²、船員数:150名
- サン・ラファエル, São Rafael:パウロ・ダ・ガマ 指揮、サン・ガブリエルとほぼ同型
- Berrio (キャラベル船):ニコラウ・コエリョ Nicolau Coelho 指揮、上記2船よりやや小さい、後に "サン・ミゲル" と命名される
- 貨物船(船名不明):Gonçalo Nunes 指揮、アフリカ東岸, Bay of São Brás 近くで失う
ポルトガル王マヌエル1世によるインド航路開拓の命を受け、ダ・ガマ率いる4隻の船団は1497年7月8日にリスボンを出航した。1497年11月22日、アフリカ南端の喜望峰を通過し、当時はアラブ人支配下にあった現在のモザンビークに到達する。当時はアラブ人がインド洋のアフリカ東岸の貿易を支配しており、ダ・ガマはここで水先案内人イブン・マージドを雇い入れて、1498年5月20日、インド南西のカリカットに到達した。
当時のカリカットはアラブ人との貿易で潤っており、ヨーロッパ人のダ・ガマとアラブ人商人とは対立関係にあったが、カリカットのサモリン王は双方との取引を望み、いささか不明瞭ながら貿易許可状を与えた。
3ヶ月現地に滞在した後、ダ・ガマは数人のポルトガル人を残して帰路につく。帰路は生鮮食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、180人の船員の内30~100人がこの病気に罹って死亡した。ダ・ガマの兄パウロも死亡し、乗員の足りなくなった船一隻を放棄するなど苦しい航海が続いたが、1499年にザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航した後、9月にポルトガルに帰還した。
第2次航海
「インド洋提督」の称号を得たダ・ガマは1502年2月12日に20隻の船団を率いて再びインドへ航海した。アラブ商人に対してカリカットでのポルトガルの貿易権を獲た功績をもって、帰国後伯爵に序せられた。インド洋航路の開拓は富をもたらし、ヨーロッパ諸国の通商圏を大幅に拡大させた。なお彼は、モガディシオにて、伝説の王国プレスター・ジョンを発見したと伝えられている。
2度目にカリカットを訪れた際には、要求を通すためにカリカット近くを通りかかった船を拿捕し、乗組員を処刑してマストにぶら下げた。また砲撃で大型船を拿捕し人が乗ったまま火をつけたとの記録もある。
第3次航海
1524年、インド総督として赴任のため3度目の航海を行ったが、ゴアに到着して間もなくマラリアに感染し、クリスマス・イヴの12月24日に死亡した。
邦文書籍
- ドン・ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海記(野々山ミナコ訳 増田義郎注) 大航海時代叢書 岩波書店、1965
- 香辛料の国インドをめざす バスコ・ダ・ガマ,アルブケルケ 冒険者たちの世界史劇画 ミシェル・ド・フランス編 榊原晃三訳 タイムライフブックス, 1983.7.
- ヴァスコ・ダ・ガマ 東洋の扉を開く 生田滋 原書房, 1992.11.
関連項目
外部リンク
- 略史(英語)