マーク I 戦車
基礎データ | |
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全長 | 9.9 m |
全幅 |
雄型:4.19m 雌型:4.36m |
重量 |
雄型:28t 雌型:27t |
乗員数 | 8名 |
装甲・武装 | |
装甲 | 6-12mm |
主武装 |
オチキス 6ポンド(57mm)砲×2(雄型。他に、副武装としてオチキス .303(7.7mm)軽機関銃×3) ヴィッカース .303(7.7mm)水冷式重機関銃×4(雌型。他に、副武装としてオチキス .303(7.7mm)軽機関銃×1) |
機動力 | |
速度 | 5.95km/h |
エンジン |
デイムラー ナイト スリーブバルブ 16,000cc 水冷直列6気筒ガソリンエンジン 105 hp |
行動距離 | 23.6マイル |
出力重量比 | 約3.8 hp/t |
データの出典 | 『世界の「戦車」がよくわかる本』 |
マークI戦車(Mark I tank)は、イギリスが第一次世界大戦中に開発、使用した世界初の実用戦車である。
概要
第一次世界大戦最中の西部戦線における、塹壕と機関銃の圧倒的優位を打破するために誕生した世界初の近代的な実用戦車である。ウィリアム・トリットン、ウォルター・ゴードン・ウィルソンが設計を担当し、製造はウィリアム・フォスター社が行った。その形状から菱形戦車とも呼ばれる。
イギリス海軍の主導によりリトル・ウィリーの試作を経て、1916年にビッグ・ウィリーが公開試験に成功。量産化が決定し、「Mark I」との正式名称が与えられた。1916年9月15日のソンムの戦いにおける第3次攻勢にて初めて戦闘に投入されたが、機械的信頼性の低さや当初から乗員の居住性・操縦性が劣悪であるなどの問題を孕み続けた。また、歩兵の連携を得られないなど、それに見合う戦果を残すことができなかったとされる。
後に改良を加えたマークII・III、IVなどが開発されて行くことになる。
開発史
前史
第一次世界大戦最中の西部戦線において塹壕戦が始まり、各陣営共に長大な塹壕を掘り進めた結果、戦線は膠着状態に陥ってしまう。機関銃などの投入により、事態打破の為の歩兵による突撃は簡単に阻止される、防御優位の状態となった。
この状況を打開するため、各国では新しい戦術や兵器の考案が始められた。
その中でイギリス陸軍のアーネスト・ダンロップ・スウィントン中佐(Sir Ernest Dunlop Swinton 1868-1951)は、アメリカのホルト社(現キャタピラー社)が実用化に成功した無限軌道式トラクター(元は1908年にイギリスのホーンズビー社で開発された物だが、どこも関心を示さず、アメリカのホルト社に設計が売却された)をヒントに、これに装甲を施した戦闘室を搭載した戦闘車輌を着想する[1]。このアイディアは陸軍では却下されてしまうが、海軍が関心を持ち、超壕兵器「陸上軍艦(Landship)」の開発が始まった[1]。
試作・試験
陸上軍艦の試験車輌は、1915年9月に完成し、開発担当者の名前から「トリットン・マシン」と呼ばれた[1]。だが、この試験車輌は軍が要求した超壕課題こそクリアしたものの、所定の段差を越えることができず、また足回りのトラブルも多かった[2]。そこで、市販品を流用した車輌を見直し、専用設計を行い製作されたのが、1915年12月に完成したリトル・ウィリーである[2]。だが、リトル・ウィリー自体は塹壕や不整地を走破する能力が低く、兵器としての実用に耐える物ではなかったことから、履帯が車体側面全体を回る形の菱形戦車の開発が進められる[2]。
開発された菱形戦車の新型試作車輌ビッグ・ウィリーは、1916年1月に政府・軍関係者の前でデモンストレーションを行い、丘、小川、鉄条網、塹壕といった課題をクリアした[3]。デモンストレーションは成功をおさめ、ビッグ・ウィリーの量産化が決定し、制式名称を「マークI」とした[4]。また、40輌(すぐに100輌へ増加)の生産が決まった[4]。なお、この試作車輌は全ての戦車の原点としてマザー(Mother)と呼ばれる事となる[4]。
実戦投入
マークIのデビュー戦は、1916年9月15日のソンムの戦いにおける第3次攻勢となった[5]。
三個戦車中隊の計60輌のマークIが投入を予定していたが、輸送時のトラブルや移動中の故障から脱落する車輌が相次ぎ、用意されたのは49両、稼働できたのは18両だけだった。また、前進を開始するとエンジントラブルや砲弾孔に落ちて破損するなどの問題が発生し、従来の作戦通り歩兵を先導して敵陣地に突撃できたのはわずか5輌だけだった。だが、有効な対抗兵器を持たない前線のドイツ軍兵士は、鉄条網を超えて進んでくる謎の新兵器にパニックに陥った[6]。この日の戦いで、イギリス軍は目標としていたフレール一帯の丘陵地帯の占領に成功する[6]。それでも、長大な戦線からすれば、投入した車輌の数の少なさから効果は一部に留まってしまい、何より戦車の信頼性の低さが問題となった[6]。だが、戦車という兵器の研究・開発は各国で進められることになる[6]。
特徴
基本構造
マークIは菱形の車体で、泥地の塹壕でも乗り越えられるだけの低い重心と履帯を備えている。車体前面に車長・操縦手の為のキューポラがそれぞれ張り出し、車体側面には「スポンソン」と呼ばれる張り出し砲郭が設置されている[5]。現行の主力戦車と比べてまったく異なる形状・武装・装甲であるが、これは戦車に敵陣地・塹壕・鉄条網を突破し、歩兵進撃を支援することが第一に求められていた為である。
また、全長9.9mという大きさは現在の主力戦車を上回る。これは小型化ができるほど技術が進んでいなかったこともあるが、なにより超壕性が優先されたことによる[5]。なお、当初無線機は搭載されず、後方との連絡は伝書鳩が用いられた。無線機の搭載が行われたのは1917年後半からで[5]、150輌製造された[7]。
武装
マーク Iの武装は、左右の車外側面に張り出した砲郭(スポンソン)が設置され、このスポンソンに、
- 主武装にオチキス QF 6ポンド(57mm)砲2門(他に、副武装としてオチキス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃3挺)を搭載する車輌が「雄型(Male)」、
- 主武装にヴィッカース .303(7.7mm)水冷式重機関銃4挺(他に副武装としてオチキス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃1挺)を備えた車輌が「雌型(Female)」、
と呼ばれる[5]。
機関銃についてはよく誤解されがちだが、雌型の主武装がヴィッカース .303(7.7mm)水冷式重機関銃で、雄型と雌型の副武装がオチキス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃(オチキス M1909軽機関銃(オチキス Mk.IともM1909 ベネット・マーシーとも呼ばれる。オリジナルは8mmレベル弾)の.303(7.7mm)バージョン)である。
2種類の車輌が開発されたのは、雄型が塹壕を突破し、その雄型を攻撃しようとする敵歩兵を雌型の機関銃で撃退する、という運用が考えられていた為である[5]。ただ、やはり全周砲塔を搭載しない為、前方への火力投射能力は低い[5]。
装甲
側面の装甲厚は8mmで、小火器の攻撃に耐えられるようにしたものだが、同時期にドイツで開発された小銃/機関銃用徹甲弾「SmK弾」[8]には貫通されてしまった。また、歩兵に包囲されて制圧されたり、手榴弾で攻撃されたりする危険性もあった。イギリスは、SmK弾に対抗するために、装甲をより厚くした(鋼板の質を変えたともされる)改良型の「マーク IV 戦車」を開発投入し、手榴弾の攻撃に対処するために、上記写真のように車体上部に切妻屋根状の構造物を載せた。それに対してドイツは口径13mmの対戦車ライフルである「マウザー M1918」を開発し、手榴弾の威力を高めるため棒状の手榴弾を束ねた「収束装薬」(geballte Ladung)などを生み出している。
エンジン
28 t前後の車体を駆動するエンジンは、ナンバー1 リンカーン・マシンと同じく、デイムラー ナイト(Daimler-Knight、ナイトはエンジン名)水冷直列6気筒ガソリンエンジン 105 hpを搭載した。
乗員
乗員8名の内、4名は砲手や機関銃手(ガンナー)で、砲座や銃座につき、残り4名は操縦関係で、1名はブレーキ操作を行うブレーキ手(ブレークスマン)で車長(コマンダー)が兼任し、1名はプライマリー・ギアボックス(前進2段、後進1段)の操作を行う操縦手(ドライバー)。2名は左右で別々になっているセカンダリー・ギアボックス(変速2段)の操作をそれぞれが担当して行う変速手(ギアーズマン)。
操縦性
マークIの操縦は非常に困難であったと言われている。針路の変更は、左右どちらかの履帯を止めるか速度を落とすかのいずれかによって行われた。
エンジンを動かしている間は騒音で耳を塞がれ、操縦手がプライマリー・ギアボックスを設定した後は手信号でギアーズマンに調整するよう伝えるが、車内が火器のフラッシュや硝煙で視界が悪い時にはスパナでエンジン部を叩くなどして注意をひくこともあった。
エンジンがエンストを起こした場合、ギアーズマンがエンジンとギアボックスの間にある大きなクランクを回してエンジンを始動させるが、ほとんどのマークIは停止した際に砲撃を受けて破壊された。
マーク Iからマーク IVまでの菱形戦車前期型は、操行装置に難を抱えていたので進路の変更ですら困難であり、車体尾部にトリットン・マシン以来の、超壕補助兼操行補助用の大型尾輪(ステアリング・ホイール)を装備していた。わずかな針路変更であれば、この尾輪で行うことができた。この尾輪は鋼鉄製のケーブル操作により片側づつ回転を止めることができ、これにより回転を止めた車輪の側に車体全体が横滑りして向きを変える、というわけである。ただ、この尾輪は戦闘中に破損してしまう事が多く、搭載されなくなった[4]。
安全性・居住性
構造上サスペンションは一切考慮されず乗り心地は最悪であった[4]。また車体の内部は分割されておらず、乗員はエンジンと同じスペースに乗り込んでいた。
換気を考慮されていない構造であったため、有毒な一酸化炭素、気化した燃料やオイルの臭気、火器から生じる硝煙などによって車内は劣悪な環境であった。その上、エンジンから発生する熱によって摂氏50度に達することもあった。乗員はこれらの問題に対応するため、ヘルメットとゴーグルを常備し、塹壕戦で一般化したガスマスクを装備することもあった。
改良
この節の加筆が望まれています。 |
マークIは超壕性を求めた結果、搭乗員の安全性や居住性・操縦性能などに問題を抱えていた。これらは実戦投入により得られた戦訓を反映し、II・III・IVと改良が施されるごとに改善が図れた。
マークII
ハッチが増設されるなど細部に改良が施されたが、基本構造に変更はない。ウイリアム・フォスター社によって50輌が製造された[7]。
マークIII
主に搭載する武装の改良が図られ、雄型が搭載する砲の短身化(マーク I・IIの40口径から23口径へ)、雌型は銃座の小型化が行われた。メトロポリタン・キャリッジ&ワゴン社によって50輌が製造された[7]。マーク IIよりも装甲を一部強化。
マークIV
マークII・IIIに続き各所改良が施され、搭乗員の居住性等の改善も含めて、前期型菱形戦車の集大成となったのがマーク IVである。ドイツの小銃/機関銃用徹甲弾SmK弾に対抗するために装甲が厚くなった。左右のスポンソンは鉄道輸送の便のために取り外しが可能となった。燃料タンクが車体後部に移され、戦闘室と隔壁で分離された。排気管に消音機がつけられ、実用性が高まった。A7Vとの初の戦車戦を経験。武装は、雄型が23口径6ポンド砲×2とルイス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃×3、雌型がルイス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃×5。日本陸軍も1918年(大正7年)にマーク IV 戦車の雌型を1輌輸入している。
マークV
基礎データ | |
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全長 | 8.05 m |
全幅 | 4.12 m |
全高 | 2.64 m |
重量 | 29.5 t(戦闘重量) |
乗員数 | 8名 |
装甲・武装 | |
装甲 | 8-16 mm |
主武装 |
雄型=23口径6ポンド砲×2 |
機動力 | |
速度 | 7.4 km/h(最高速度:路上) |
エンジン |
リカード 19,000cc 水冷直列6気筒ガソリンエンジン 150 hp/1200 rpm |
行動距離 | 72.4 km |
データの出典 | 『世界の戦車FILE』 |
装甲兵員輸送車であるマーク IXを除いて、大戦中に量産された菱形戦車の最終型にして完成形。
1918年1月から生産開始。主に、エンジンの換装やトランスミッション系などの改良が行われた型で、ギアーズマン2名とブレークスマン(ブレーキ手、それまで車長が兼任していた)1名が不要になり、それまで4人がかりだった戦車の操縦が、操縦手1名のみで可能になるという、抜本的な改良が行われた。これにより実用性が大きく向上した。乗員は8名で、車長(専任)1名と、操縦手1名と、砲手や機関銃手6名。さらにそれまでの菱形戦車に比べてエンジン出力が向上し、足回りの改良と相まって機動性が向上した。
また、装甲はマーク IVよりもさらに厚くなり、操行装置の改良により、車体尾部の超壕補助兼操行補助用の大型尾輪(ステアリング・ホイール)は不要となり廃止された。加えて、乗員の視界が改善されている。 武装に関しては、ガンナーが増えたことや邪魔な尾輪が無くなったことで、マークVからは雄雌型それぞれ軽機関銃が車体後面に1挺ずつ増えている。更なる改良型であるマーク V*、V**(*はスターと読む)も存在する。
マークVI
アメリカ陸軍の要請で設計・開発がスタート。マーク Vを小型軽量化し、武装が側面から前方へと移されるなどの設計変更が行われたが、マーク VIII計画のために、開発は中断し、量産には至らなかった。
マークVII
マーク V*やV**戦車と同じく、マーク Vの車体を延長し、越壕能力と操縦性能を向上させた型。試作車1輌のみで開発は打ち切りになった。
マークVIII
菱形戦車の最終型。イギリス、フランス、アメリカの共同開発。イギリスが設計し、大量生産技術に優れたアメリカの主導で、フランス国内の工場で1500輌生産して、三国に配備する計画だった。1919年以降の連合軍による大攻勢で使われるはずだったが、開発途中にドイツが降伏し、製造された100輌分の部品をアメリカが引き取り、独自に組み上げ、アメリカ陸軍の重戦車「リバティ重戦車」として制式採用し、アメリカ国内に配備した。エンジンはリバティ 液冷V型12気筒ガソリン 338 hp。
マークIX
基礎データ | |
---|---|
全長 | 9.7 m |
全幅 | 2.5 m |
全高 | 2.64 m |
重量 | 27 t |
乗員数 | 4名(車長、操縦手、機関手、機関銃手)+歩兵 30~50名 |
装甲・武装 | |
主武装 | .303(7.7mm)軽機関銃×2 |
機動力 | |
速度 | 6.9km/h(最大速度) |
エンジン |
リカード 水冷直列6気筒ガソリン 150 hp |
歩兵30~50名、もしくは10 tの荷物を運搬可能な大型輸送車両で、世界初の装甲兵員輸送車でもある。少数生産のみ(休戦時に3輌完成。計34輌製造)に終わる。
エンジンを車体前方に配置した後輪駆動で(そのため内部空間にドライブシャフトが通っている)、車体中央に歩兵や荷物の搭載用の内部空間を作っているが、歩兵用の座席は無かった。側面に左右2つずつ、計4つの乗降扉がある。車体側面には乗車戦闘を可能とする歩兵用のガンポートが設けられていた。
なお、ドイツのA7Vには、戦車型と兵員・弾薬輸送車型があり、兵員・弾薬輸送車型(Überlandwagen、ウーバーラントヴァーゲン)は30輌が完成しており、こちらが世界初の装甲兵員輸送車とされることもあるが、乗員を保護する天板や装甲は無い。
A1E1 インディペンデント重戦車
塹壕突破用戦車として1925年に開発された、菱形戦車の正統な後継車。
TOG 1重戦車
菱形戦車を開発したメンバー(ジ・オールド・ギャング)と企業が第二次世界大戦初期に開発した、菱形戦車の直系の重戦車。設計思想が第一次世界大戦時のまま。
出典・脚注
- ^ a b c 『世界の「戦車」がよくわかる本』p170
- ^ a b c 『世界の「戦車」がよくわかる本』p171
- ^ 『世界の「戦車」がよくわかる本』p172
- ^ a b c d e 『世界の「戦車」がよくわかる本』p173
- ^ a b c d e f g 『世界の「戦車」がよくわかる本』p174
- ^ a b c d 『世界の「戦車」がよくわかる本』p175
- ^ a b c 『世界の戦車FILE』p153
- ^ タングステン鋼弾芯の小銃弾。本来は長距離狙撃用の特殊弾だった
参考文献
- 『世界の「戦車」がよくわかる本』 株式会社レッカ社 ISBN 978-4-569-67338-7
- 『[決定版]世界の戦車FILE』 Gakken ISBN 978-4-05-404936-9
関連項目
- 戦車
- 主力戦車
- リトル・ウィリー
- ルノー FT-17 軽戦車 - 以降の戦車の基本形となった同時期の戦車。
- ガンキャリアー マークI