タンジャーヴール・ナーヤカ朝

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タンジャーヴール・ナーヤカ朝
チョーラ朝
ヴィジャヤナガル王国
1532年 - 1673/5年 タンジャーヴール・マラーター王国
タンジャーヴール・ナーヤカ朝の位置
タンジャーヴール・ナーヤカ朝の版図
公用語 テルグ語
タミル語
首都 タンジャーヴール
元首等
1532年 - 1580年 セヴァッパ・ナーヤカ
1560年 - 1614年アチュタッパ・ナーヤカ
1600年 - 1634年ラグナータ・ナーヤカ
1634年 - 1673年ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカ
1673年 - 1675年アラギリ・ナーヤカ
変遷
建国 1532年
滅亡1673/5年

タンジャーヴール・ナーヤカ朝(タンジャーヴール・ナーヤカちょう、英語:Thanjavur Nayaka dynasty)とは、南インドタミル地方(現タミル・ナードゥ州)に存在したヒンドゥー王朝16世紀 - 1673年あるいは1675年)。ナーヤカ朝の一つでもある。首都タンジャーヴール(タンジョール)。

歴史[編集]

ヴィジャヤナガル王国の忠臣として[編集]

タンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院
ゴーヴィンダ・ディークシタルとその妻

16世紀頃から、タンジャーヴールにおいて、ヴィジャヤナガル王国ナーヤカ(ヴィジャヤナガル王国の領主層)として仕えていた有力な一族の支配がみられるようになった。

このタンジャーヴール・ナーヤカ朝の君主たちは、首都タンジャーヴールにあるブリハディーシュヴァラ寺11世紀チョーラ朝の王ラージャラージャ1世の命で建設されたシヴァ寺院)を居城の一つとした。

ヴィジャヤナガル王国最盛期の王クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの記録や、その弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤの記録などがある。

このナーヤカ一族は、ヴィジャナガル王国で地方長官クラスの大ナーヤカあったことも知られ、セヴァッパ・ナーヤカ(在位:1532年 - 1580年)が初期の君主として知られている。

1560年以降、セヴァッパ・ナーヤカは、息子のアチュタッパ・ナーヤカ(在位:1560年 - 1614年)と共同統治を行うようになった(アチュタッパ・ナーヤカの名は、ヴィジャヤナガル王アチュタ・デーヴァ・ラーヤの名のとって名付けられたものである)。

1565年、アチュタッパ・ナーヤカの治世、ヴィジャヤナガル王国がターリコータの戦いにおいて敗北した後、ほかのナーヤカは独立の動きを見せ、事実上半独立の立場をとったが、タンジャーヴール・ナーヤカは王国に忠実だった。

この間、1580年にセヴァッパ・ナーヤカは死に、アチュタッパ・ナーヤカが単独で統治するようになった。

アチュタッパ・ナーヤカの治世は、共同統治もあわせると54年にもおよび、その間に有能な宰相ゴーヴィンダ・ディークシタルの補佐もあり、王国は平和が保たれていた。

また、主家のヴィジャヤナガル王国を助け、反抗的なナーヤカや、ビジャープル王国ゴールコンダ王国の侵略軍との戦いでも、援軍として活躍した。

ラグナータ・ナーヤカの活躍[編集]

ティルチラーッパッリのシュリーランガム寺院。ラグナータ・ナーヤカの保護を受けた。

1600年以降、アチュタッパ・ナーヤカは、息子ラグナータ・ナーヤカ(在位:1600年 - 1634年)と共同統治をはじめるようになった。

このラグナータ・ナーヤカという人物は、即位以前からヴィジャヤナガル王ヴェンカタ2世を助け、ゴールコンダ王国との戦いで尽力して名をあげるなど、歴戦の勇士だった。

1614年に共同統治者である父王アチュタッパ・ナーヤカは死亡し、この年にヴィジャヤナガル王国でもヴェンカタ2世が死亡して、王国は跡目を争って内乱に陥った。

ラグナータ・ナーヤカは、ヴェンカタ2世の甥シュリーランガ2世に協力したが、同年にシュリーランガ2世は、ヴェンカタ2世の息子ジャッガ・ラーヤに殺されてしまった。

1616年末、シュリーランガ2世の遺児ラーマ・デーヴァ・ラーヤが挙兵すると、ラグナータ・ナーヤカはこれに味方し、1617年初頭のトップールの戦いでは、ジャッガ・ラーヤの大軍を破り、ラーマ・デーヴァ・ラーヤを王位につけることに成功している。

サラスヴァティー・マハル図書館

ラグナータ・ナーヤカの治世、国内では彼の保護により文学などの学術研究が発展し、ラグナータ・ナーヤカの妃ラーマバドラーンバーも、教養高く才能ある詩人であり、ゴーヴィンダ・ディークシタルの息子ヤージュ・ナーラーヤナは、ラグナータ・ナーヤカの統治に関して記録を残している。

ラグナータ・ナーヤカ自身も、サンスクリット語テルグ語の学者かつ音楽家でもあり、テルグ語で書物や音楽をいくつか書いたとされている。

また、ラグナータ・ナーヤカは学者らが書いた書籍を集め、首都タンジャーヴールに、サラスヴァティー・マハル図書館を建設したことでも有名である。

衰退と滅亡[編集]

ラージャゴーパーラ・スワーミー寺院。ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカによって建てられた。
タンジャーヴールの宮殿

1634年にラグナータ・ナーヤカが死に、その息子ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカ(在位:1634年 - 1673年)の治世になると、王朝は衰運をたどった。

1646年にヴィジャナガル王国の首都ヴェールールが、ビジャープル王国に包囲され陥落し、シュリーランガ3世が首都タンジャーヴールに亡命してくると、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカは彼を保護した。

しかし、1649年にビジャープル王国の軍は、首都タンジャーヴールを包囲し、これを陥落させ、シュリーランガ3世はマイソールへと亡命した。

首都タンジャーヴールはビジャープル王国の軍に占領され、シュリーランガ3世は逃げ、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカも避難を余儀なくされたが、タンジャーヴールは市民によって奪還され、戻ることに成功した。

その後、タンジャーヴール・ナーヤカ朝は存続したが、国土はすっかりビジャープル王国に荒らされており、こののち隣国マドゥライ・ナーヤカ朝の圧迫を受けるようになっていった。

やがて、マドゥライ・ナーヤカ朝はタンジャーヴール・ナーヤカ朝と婚姻関係を結ぼうと、娘を差し出すように要求したが、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカは拒否したため、1673年9月、マドゥライ・ナーヤカ朝の軍に首都タンジャーヴールを包囲された。

マドゥライ・ナーヤカ朝の軍は首都タンジャーヴールを包囲したが、その指揮官ヴェンカタ・クリシュナッパ・ナーヤカは和平の道を考えて、「勝負はもうついており、こちらは無益な血を流すつもりもなく、そもそも原因は娘を差し出さなかったそちらにあり、降伏して差し出せば撤退する。」という旨を使者に伝えさせた。

だが、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカはこれを拒否し、敵将ヴェンカタ・クリシュナッパ・ナーヤカにこう伝えるよう使者に言った。

「たとえ王国が滅び、全てが消えても、娘は渡さない。我々が恐怖によって屈服すると思うのはもってのほかだ。誇りは、命を引き替えにしても守らねばならない。来て闘うのだ!」

ヴェンカタ・クリシュナッパ・ナーヤカは総攻撃を命じ、タンジャーヴールに敵軍が侵入し、宮廷にまで迫りつつあると、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカは娘たちを自害させ、ハーレムを爆破した。

その後、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカは敵軍に突撃し、壮絶な戦死を遂げて、首都タンジャーヴールは制圧され、この時点で王朝は事実上滅亡した。

滅亡後[編集]

タンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院

タンジャーヴール・ナーヤカ朝を滅ぼしたのち、マドゥライ・ナーヤカ朝の王チョッカナータ・ナーヤカは、王弟アラギリ・ナーヤカ(在位:1673年 - 1675年)をタンジャーヴールに配置して、その統治にあたらせた

だが、アラギリ・ナーヤカは独立の道を歩むようになり、チョッカナータ・ナーヤカはこれを認めざるを得なかった。

一方、ヴィジャヤ・ラーガヴァ・ナーヤカの息子チェンガマラ・ダースは、タンジャーヴール陥落の際に逃げ延びており、王位を奪還するために、ビジャープル王国の宮廷に援軍を求めた。

1675年、ビジャープル王国は援軍として、シヴァージーの弟ヴィヤンコージーを指揮官に遠征軍を送り、アラギリ・ナーヤカを倒し、タンジャーヴールを占領した。

しかし、ヴィヤンコージーは、ビジャープル王国に命じられていたにもかかわらず、チェンガマラ・ダースを王位につけずに、自らがタンジャーヴールのラージャ(王)だと宣言した。

これにより、ヴィヤンコージーを祖とするタンジャーヴール・マラーター王国が、南インドのタミル地方に成立したが、タンジャーヴール・ナーヤカ朝の居城だったブリハディーシュヴァラ寺とその宮殿は、1855年までマラーター王の居城の一つとして使用された。

参考文献[編集]

関連項目[編集]