ウードゥル県

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Iğdır ili
ウードゥル県
ウードゥル県の位置
ウードゥル県の位置
ウードゥル県の位置
概要
地方: 東アナトリア地方
県都: ウードゥル
県番号: 76
面積: 3,664 (km2)
人口: 201,314 2020年
人口密度: 55 人/km2
自治体数: 4
Location ofウードゥル県の位置
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ウードゥル県の自治体
市外局番: 0476
知事:
Hüseyin Engin Sarıibrahim
公式サイト:

ウードゥル県(ウードゥルけん、トルコ語: Iğdır iliクルド語: Parêzgeha Îdirêアゼルバイジャン語: Iğdir rayonuアルメニア語: Իգդիրի մարզ)はトルコ東アナトリア地方の県。県都はウードゥル

名称

語源としては、テュルク系のオグズ族の一支族ウードゥロール(Iğdıroğlu)が語源であるとされている。彼らはアナトリアの町や村に広がって分布しており、マラティヤやその他の県にもウードゥルという同名の街が見られる。

地理

北西をカルス、南西をアールに囲まれており、東部ではアルメニアアゼルバイジャンナヒチェヴァン自治共和国と国境を接している。

ノアの方舟が流れ着いたという伝承のあるトルコの最高峰アララト山があり、この山のふもとの平地部分がこの県の領域である。トルコで一番温暖な地域であり、綿の生育が可能である。アルメニアとの国境にはアラス川が流れる。

歴史

古代史研究ではこの地域への人類の定住はおおよそ紀元前4000年にさかのぼれるという。紀元前800年ごろにはウラルトゥ王国の一部であったとされている。ウラルトゥ王国がオロンテス朝英語版アルメニア王国の支配下に置かれてもウラルトゥ王国の彫刻は破壊されず、今も残っている。

4世紀にはセレウコス朝サーサーン朝の勢力が顕著になり、646年にはイスラムアラブ勢力に統治される。1064年からテュルクモンゴル族が400年にわたってこの地域で戦闘を行った。

黒羊朝白羊朝によってトルコ人の殖民が始まる。

1534年から1746年までのおおよそ2世紀もオスマン朝ペルシア帝国の間で戦争が起こり戦火が絶えることはなかった。現在の県の領域の多くはペルシアに割譲され、ペルシャの自治領エリヴァニ・ハン国ロシア語版に統治された。

第二次ロシア・ペルシア戦争後に締結されたトルコマーンチャーイ条約により、県北部区域はロシアの施政下に落ちた。ロシアの施政下では当初はアルメニア州とされたが、その後エリヴァニ県ロシア語版になる。南半分はオスマン朝が保持したが、露土戦争でロシアに割譲された。

第一次世界大戦後期、この地域は弱まった帝政ロシアのコントロールからはずれ、新しくできたアルメニア第一共和国のアララト県の管理下に入る。しかし、トルコ共和国軍がこの地を占領し、ソ連とのカルス条約でウードゥルはトルコ領となった。

多くのアルメニア人はこれらの戦乱の歴史の中でも生き残り、1919年から1920年までの間ウードゥルで多数派の民族になった。しかし、その後のトルコ・アルメニア戦争でその人口は激減した。

住民

今日、ウーデゥルではクルド人、トルコ人、アゼルバイジャン人などが見られる。ノウルーズと呼ばれるイランの春の祭りが広範に催される。また、農村地帯であるが、隣接した県よりも人口密度が高い。人口は微増中。

下位自治体

ウードゥル県には4つの自治体がある。

名所

ゾルの商隊宿はアルメニア人の建築家によって立てられたと考えられている。ウードゥルの南西35キロメートルの位置にあり、隣村であるゾルにちなんで名づけられた。以前は教会も立っていたと考えられているが、今日、その面影を見ることはできない。

スルメリ城は中世アルメニアの町であった場所、ウードゥルから東のツズルカまでの間の道路上にある。しかし国境への渡航制限の為に現在は行き来が難しくなっている。