ウィアード・テイルズ

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1934年9月号表紙。マーガレット・ブランデージ画。

ウィアード・テイルズWeird Tales)は、1923年に創刊されたアメリカパルプ・マガジンである。怪奇小説、ファンタジー小説、SF小説の専門誌。

歴史

エドウィン・ベアードの時代(創刊号~1924年4月号)

ウィアード・テイルズを創刊したのはジェイコブ・C・ヘネバーガー。 1923年3月、『ディテクティヴ・テイルズ』誌の出版に伴い、姉妹誌として刊行された。

初代編集長エドウィン・ベアード(en:Edwin Baird)は執筆陣として、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトクラーク・アシュトン・スミスシーベリイ・クインなどの作家を擁していた。彼らは後に同誌最高の作家との評価を得た逸材たちであった。

しかし伝統的なゴースト・ストーリーが中心であったこと、ごく短い作品が多くストーリーの発展性に乏しかったことなどが原因で部数が伸び悩み、 40,000ドル(60,000ドルの説もある)の負債を抱えることとなり、第13号の発刊の後、ベアードは解雇された。

ファーンズワース・ライトの時代(1924年5月号~1940年4月号)

2代目編集長ファーンズワース・ライト(en:Farnsworth Wright)は、同誌の看板編集長となった。

ライトは、ベアードよりも多くの作家、多くの選択肢を持っていたにもかかわらず、ラヴクラフト、スミス、クインの作品を掲載し続けた。但し、ラヴクラフトの代表作である「狂気の山脈にて(At the Mountains of Madness)、「インスマウスの影(Shadow Over Innsmouth)」、「クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)」は掲載を拒否され、スミスの描くヒロイック・ファンタジー「ハイパーボリアもの」の多くもまた同様に掲載を拒否されている。このこともあってラヴクラフトのライトに対する評価は低く、商業主義者と断じていたこともある。

ライトは新たな作家として、ハリー・フーディーニロバート・ブロックロバート・E・ハワードC・A・スミスフランク・ベルナップ・ロングオーガスト・ダーレスエドモンド・ハミルトンなどを起用した。

また彼は脚本家テネシー・ウィリアムズの作品を最初に出版したことでも知られる。

なかでも特筆すべきは、1933年から同誌の表紙画家として、ファッション・デザイナー兼イラストレーターマーガレット・ブランデージen:Margaret Brundage)を起用したことである。彼女はセミヌードもしくは裸体であるかのように見える刺激的なポーズのうら若き美女(そしてもちろん怪物や悪漢たち)をモチーフにし、「Damsel in distress」のテーマのもと、多くの素晴らしいイメージを作り出した。彼女の作品はあまりに扇情的過ぎるとして大論争を起こした一方、同誌の売れ行きに大いに貢献した。

更にライトはファンタジーアート史上重要な2人のアーティスト、ヴァージル・フィンレイハネス・ボクを世に出したことでも知られる。

しかし、1936年6月にハワードが自殺し、翌1937年3月にはラブクラフトが病没、1939年2月にライバル誌『ストレンジ・ストーリーズ』、3月に『アンノウン』が参入したことなど不運が続き、1940年6月には持病であったパーキンソン病によってライト自身が死去。『ウィアード・テイルズ』の第二期は終焉を迎える。

ドロシー・マックルレイスの時代(1940年5月号~終刊号)

1940年4月から三代目編集長ドロシー・マックルレイス(en:Dorothy Mcllwraith)の下で、より新しい作家たち(レイ・ブラッドベリM・W・ウェルマンフリッツ・ライバーヘンリー・カットナーC・L・ムーアシオドア・スタージョンジョセフ・ペイン・ブレナンジャック・スノーマーガレット・セント・クレアなど)の参入が始まった。またオーガスト・ダーレスら、いわゆるラヴクラフト・サークルの作品も度々掲載された。

大部分のパルプ誌と同様に、ウィアード・テイルズは、第二次世界大戦中の紙不足に苦しめられた。戦後になるとまた、他のコミック誌(アメリカン・コミックス)、ラジオドラマテレビ、安価なペーパーバックの小説との競争に苦しむこととなり、その結果、1954年9月の第279号をもって廃刊となった。

復活

ウィアード・テイルズは、続く10年間に幾度か短命な再生を遂げている(サム・モスコウィッツ編集、レオ・マルグリース(Leo Margulies)発行による1970年代初期の4号を含む)。

ロバート・ワインバーグとヴィクター・ドリックス(Victor Dricks)は、マルグリースの死後、「ウィアード・テイルズ」の名前を購入し、1981年から1983年にかけて、リン・カーター編集による4冊のペーパーバック版アンソロジーを刊行した。

その後ウィアード・テイルズは、出版・編集者としてジョージ・H・シザース(George H. Scithers)、ジョン・グレゴリー・ベタンコート(John Gregory Betancourt)、ダレル・シュバイツァー(Darrell Schweitzer)を迎え、1988年に290号から復活、再スタートを果たした。 復活したウィアード・テイルズは、商業的成功を収めた(あくまでフィクション系の雑誌の範疇であるが)。また現代の著名作家(タニス・リーブライアン・ラムレイトーマス・リゴッティ(en:Thomas Ligotti)など)の作品を掲載・発表した。

ウィアード・テイルズは、2000年の前後数年においては、DNAパブリケーション・チェーン(DNA Publications chain)の一部となり、また2005年には、かつての副編集者ベタンコートの所有するワイルドサイド・プレスに売却され、隔月刊誌となった。

2007年初頭、ワイルドサイド・プレスは、新たなクリエイティブ・ディレクター兼フィクション・エディターとしてステファン・シーガル(Stephen Segal)、ノンフィクション・エディターとしてアン・ヴァンダーミーア(Ann VanderMeer)を迎えるというウィアード・テイルズの改造を発表した。 シザースとシュバイツァーは貢献者(contributor)、ベタンコートは出版者(publisher)として残留された。新体制で刊行される2007年4-5月号は、75年におよぶ同誌の歴史の中でも、まったく新規なデザインのものとされる予定とされた。

本誌に寄稿した主な作家

関連事項

出典

  • 「ウィアード・テイルズ 別巻」1985(那智史郎、宮壁定雄、国書刊行会)

外部リンク