アリョーシャ・アサノビッチ
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | Vatreni Lakat(炎の肘) | |||||
ラテン文字 | Aljoša Asanović | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | クロアチア | |||||
生年月日 | 1965年12月14日(58歳) | |||||
出身地 | スプリト | |||||
身長 | 185cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
ハイドゥク・スプリト | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984-1990 | ハイドゥク・スプリト | 173 | (46) | |||
1990-1991 | メス | 35 | (13) | |||
1991-1992 | カンヌ | 28 | (7) | |||
1992-1994 | モンペリエ | 43 | (10) | |||
1994-1996 | ハイドゥク・スプリト | 33 | (8) | |||
1995-1996 | → レアル・バリャドリード (loan) | 8 | (1) | |||
1996-1997 | ダービー・カウンティ | 38 | (5) | |||
1997-1998 | ナポリ | 15 | (0) | |||
1998-2000 | パナシナイコス | 44 | (9) | |||
2000-2001 | アウストリア・ウィーン | 0 | (0) | |||
2001 | シドニー・ユナイテッド | 4 | (1) | |||
2002 | ハイドゥク・スプリト | 1 | (0) | |||
通算 | 422 | (100) | ||||
代表歴 | ||||||
1987-1988 | ユーゴスラビア | 3 | (0) | |||
1990-2000 | クロアチア | 62 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
2006-2012 | クロアチア代表(アシスタント) | |||||
2012-2013 | ロコモティフ・モスクワ(アシスタント) | |||||
2015- | DAC 1904ドゥナイスカー・ストレダ(テクニカルディレクター) | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アリョーシャ・アサノビッチ(Aljoša Asanović、1965年12月14日 - )は、ユーゴスラビア・スプリト(現・クロアチア領)出身のクロアチアの元サッカー選手。ポジションはMF。選手時代はサッカーユーゴスラビア代表、サッカークロアチア代表として選出されている。日本語では「アリョシャ・アサノヴィッチ」、「アリオシャ・アサノビッチ」と表記される事もある。
1980年代後半から1990年代に活躍した。ズボニミール・ボバンやダヴォール・シューケルらと共にクロアチア代表を、同国初のUEFA欧州選手権(1996年イングランド大会)及びFIFAワールドカップ(1998年フランスW杯)に導いた選手として名高い。
略歴
クラブ
最初は、地元のハイドゥク・スプリトのユースでキャリアをスタート。1984年に同チームのプロチームに昇格し、6シーズンに渡ってプレーした。この間173試合46得点をマークし、1986-87シーズンには最初のタイトルとなるユーゴスラビア・カップ優勝を果たした。
1990年シーズンより、フランスのリーグ・アンに移籍。メスを皮切りに、カンヌ、モンペリエに所属した。メスでは35試合13得点,カンヌでは28試合7得点,モンペリエでは43試合10得点を挙げ、4シーズンで106試合30得点と活躍した。
1994年シーズンより古巣のハイドゥク・スプリトに復帰。チームは1994-95シーズンの国内リーグ戦と国内カップ戦の2冠を達成した。国内リーグ戦優勝により出場したUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95では、予選でレギア・ワルシャワ(ポーランド)相手に2ndレグで2得点を挙げる活躍(この試合は4-0で圧勝)を見せ、クロアチアのクラブ史上初の本戦出場を果たした。本戦のグループリーグでもベンフィカ(ポルトガル)に次ぐ2位で突破し、準々決勝でアヤックス(オランダ)に1stレグで0-0と善戦するも、2ndレグで0-3と敗れたが、これまたクロアチアのクラブ史上初の8強入りを果たした。この大会での活躍が認められ、1995-96シーズンの途中にはリーガ・エスパニョーラのレアル・バリャドリードにレンタル移籍した。
1996年シーズン以降は、各国のクラブを転々とした。プレミアリーグのダービー・カウンティを皮切りに、セリエAのナポリ,ギリシャ・スーパーリーグのパナシナイコス,ブンデスリーガ (オーストリア)のアウストリア・ウィーンを経て、2001年シーズンには初めてUEFA外で、Aリーグのシドニー・ユナイテッドでプレーした。2002年に、古巣・ハイドゥク・スプリトに3度目の復帰をして1試合だけ出場し、現役生活に終止符を打った。
代表
1987年にユーゴスラビア代表に選出され、1988年までに3試合出場した。但し、ユーゴスラビア代表では得点することはできなかった。
1990年にクロアチア代表にも選出。10月17日にスタディオン・マクシミール(ザグレブ)で行われたアメリカ代表との親善試合で先制ゴールを挙げ、これが自身の代表初ゴールとなった。1998年フランスW杯では、中心選手としてチームの3位に貢献した。
日本代表及び日本とは浅からぬ縁があった。1997年6月8日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた、キリンカップサッカーの日本代表戦では、0-3でリードされた後半31分と後半40分(PK)に連続して得点を挙げた[1](試合結果は3-4で敗れた)。そして、1998年フランスW杯では6月20日の日本戦(スタッド・ド・ボージョワール〈ナント〉)で、後半32分に日本のDF・中西永輔を振り切って正確なセンタリングを上げ、これをシューケルが合わせて先制ゴール。この試合の勝利(1-0)の立役者[2]となった[3]。これらの試合を見たジュビロ磐田のフロントが、1999年にACヴェネツィア(セリエA)に移籍した名波浩の穴埋めに、アサノヴィッチを獲得しようとした(当時のジュビロ監督だった桑原隆が「現行戦力で戦う」と拒否したため、獲得を断念。その後チームは不振に陥り、わずか1年で桑原は監督を退任した)。日本では浅野という名前が比較的有名であり、日本戦でもしばしば活躍した事から、日本でも知名度の高いクロアチア選手の一人である。
クロアチア代表には2000年まで招集され、62試合3得点(先の1990年・アメリカ戦と1997年・日本戦〈2得点〉)という成績を残している。
引退後
引退後は、2006年よりクロアチア代表のアシスタントコーチを務め、2006年ドイツW杯出場に貢献した。その後、2012年~2013年にはロコモティフ・モスクワ(ロシア)のアシスタントコーチをやった後、2015年よりDAC 1904ドゥナイスカー・ストレダ(スロバキア)のテクニカルディレクターに就いている。
所属クラブ
- 1984-1990 ハイドゥク・スプリト
- 1990-1991 メス
- 1991-1992 カンヌ
- 1992-1994 モンペリエ
- 1994-1996 ハイドゥク・スプリト
- 1995-1996 → レアル・バリャドリード (loan)
- 1996-1997 ダービー・カウンティ
- 1997-1998 ナポリ
- 1998-2000 パナシナイコス
- 2000-2001 アウストリア・ウィーン
- 2001 シドニー・ユナイテッド
- 2002 ハイドゥク・スプリト
獲得タイトル
- ユーゴスラビア・カップ優勝:1回 (1986-87)
- プルヴァHNL優勝:1回 (1994-95)
- フルヴァツキ・ノゴメトニ・クプ優勝:1回 (1994-95)
脚注、出典
- ^ 日本 vs クロアチア - 1997年6月8日サッカー日本代表データベース
- ^ 同時に、日本代表の当大会での敗退が決定した。
- ^ ベンゲル、日本の戦いを振り返る。Number傑作選。1998年7月号、2010年5月14日配信。
外部リンク
- アリョーシャ・アサノビッチ – FIFA主催大会成績 (英語)
- アリョーシャ・アサノビッチ - National-Football-Teams.com (英語)
- Aljoša Asanović profile at Reprezentacija.rs (セルビア語)
- 日本対クロアチア戦 後半 フランスW杯 - Youtube。アサノヴィッチのアシストのシーンが含まれている。