せりあ丸

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せりあ丸
船歴
起工 1944年昭和19年)3月11日
進水 1944年(昭和19年)5月9日
竣工 1944年(昭和19年)6月30日
就役 1944年(昭和19年)7月13日
解体 1963年(昭和38年)2月
性能諸元
総トン数 10,238トン
垂線間長 148.0メートル
型幅 20.4メートル
吃水 12メートル
機関 甲50型蒸気タービン機関1基
出力 5,000馬力
最大速 15ノット

せりあ丸(せりあまる)は、太平洋戦争大東亜戦争)中に建造された日本タンカーである。戦争末期に日本本土への石油輸送に成功したことで知られる。

建造からヒ船団への就航まで

せりあ丸は三菱長崎造船所で建造された2TL型戦時標準船の8番船で、起工からわずか121日で完成している。2TL型とは、第二次戦時標準船として計画されたうちの大型タンカー(T:タンカー、L:大型)を意味する。船名はブルネイにある石油の産出地、セリアに由来する。

竣工後すぐの1944年昭和19年)7月13日にせりあ丸はヒ船団のヒ69船団に加わって門司を出港した。ヒ69船団は台湾高雄を経由してシンガポールへ向かうもので、航空母艦海鷹が護衛につく大規模なものであった。ヒ69船団は7月31日に全ての船がシンガポールに到着し、無事任務を果たすことができた。せりあ丸はシンガポールで航空機用ガソリン重油を積んだ後、ヒ70船団に加わって日本へ向かい、8月15日に日本に無事到着した。

9月8日、せりあ丸はヒ75船団の一隻として門司を出港し、9月22日にシンガポールに到着。ここで再びガソリンと重油を積んで、10月2日にヒ78船団に加わりシンガポールを出港、11月1日に門司に帰着することができた。当時、シンガポールと日本を結ぶ南方の交通路はアメリカ海軍潜水艦によって遮断されており、船団が全船無事に往復できることは奇蹟的とまで言われていた。

12月19日、せりあ丸はヒ85船団に加わって門司を出港した。せりあ丸は翌1945年(昭和20年)1月7日に無事シンガポールに到着し、17000トンの航空機用ガソリンが積まれたが、帰路の安全が保障されないためにせりあ丸は待機を余儀なくされた。

神機突破輸送隊(ヒ88A船団)

出港まで

1月15日、せりあ丸船長浦部毅は南方軍総司令部から呼び出しを受けた。そこで南方軍の参謀より、せりあ丸を特攻船『神機突破輸送隊』と命名して、日本に航空機用ガソリンを輸送せよとの命令を受ける。当時の日本軍は、南号作戦の名の下に石油の強行輸送を計画していた。軍は当初、船団に低速船を加えようとしたため、浦部船長は幹部船員との協議の末、会議のときに以下の提案を軍にした。

  1. 改2A型貨物船を同行させないこと。
  2. 護衛艦は2隻つけること。
  3. 指揮権と航路選定権はせりあ丸側に任せること。
  4. 軍機海図を貸与すること。

そのため会議は紛糾したものの、最終的に3以外は受け入れられ、3についても指揮権は護衛艦の先任艦長にあるが船長にも行動の自由が認められることとなった[1][2]

出港時のせりあ丸

乗組員74名、陸軍船舶砲兵隊員44名、海軍警備隊員51名、便乗者8名、計177名

航海

1月20日午前10時、せりあ丸は2隻の駆潜艇とともにシンガポールを出港した。シンガポールを出港した船団はマレー半島東岸を通り、タイ王国シンゴラ沖に仮泊した。シンゴラからはタイ湾を一気に横断し、1月23日フランス領インドシナサンジャックに到着した。サンジャックでは駆潜艇2隻と別れる代わりに第41号海防艦と第205号海防艦がせりあ丸と合流し、1月24日に出港。1月25日、船団は米軍の哨戒飛行艇に発見され、通報を受けた潜水艦の雷撃を受けるも、無事に回避した。

1月27日に船団はチョンメイ湾で仮泊した。ここから先、ほとんどの船はトンキン湾を横断して海南島の南岸を通過していたが、船団は敢えてその航路をとらず大陸の海岸沿いに進んだ。その後1月29日海南海峡1月30日には香港の沖合を通過し、2月3日に船団は上海の沖合に到着した。ここで護衛の船が再び交代し、の2隻の駆逐艦が護衛についた。

駆逐艦と合流後、2月4日山東半島に接近した船団はここで東に変針して黄海を横断し、2月6日朝鮮鎮海に到着した。船団はここでさらに海防艦2隻を加え、2月7日午後4時半に門司港外の六連島泊地に到着した。

門司に着いた後、せりあ丸は和歌山県下津港の石油基地に17000トンの航空機用ガソリンを陸揚げし、その任務を完了した。日本陸軍はせりあ丸の輸送作戦の成功を称え、「武功旗」を贈った。

これ以降、日本への石油輸送に成功した船は、翌3月に到着した「東城丸」「東亜丸」「富士山丸」「光島丸」の4隻に過ぎず、以後南方航路は途絶した。

沈没

その後もせりあ丸はシンガポールに向かうべく準備を行っていたが、沖縄戦によって日本船が東シナ海を航行できなくなったために派遣は中止された。石油の輸送が不可能になったため、せりあ丸は貨物船に改造される計画が持ち上がり、兵庫県にある播磨造船所の近くである生島附近で碇泊していた。

1945年昭和20年)7月28日瀬戸内海の残存艦船の掃討に来襲した米機動部隊艦載機がせりあ丸を発見した。せりあ丸は3発の命中弾を受け、船尾機関部から炎上した。消火は不可能と判断されたため乗組員は退船し、船体は半没状態のまま放棄された。

なお、この時の空襲で6名の乗組員が犠牲となった。

戦後

終戦時、せりあ丸は船体の後部を焼失した状態で生島の沖合で放置されたままとなっていた。

1948年昭和23年)5月日本油槽船株式会社によって船体の調査が行われ、せりあ丸は修理不可能と判断されて業者に売却された。そのため、せりあ丸はスクラップにされるために浮揚されたが、浮揚後改めてせりあ丸の船体を調査した結果、一転して修理可能と判断された。この結果を受け、日本油槽船株式会社は同年12月にせりあ丸の船体を買い戻し、大阪日立造船桜島造船所で修理が行われることになった。

修理が完了したのは1949年(昭和24年)5月のことで、せりあ丸は修理後すぐに日本と中東バーレーンの間で石油輸送に従事した。1960年(昭和35年)、せりあ丸はアラビア石油に売却され、カフジ製油所の沖合で石油貯蔵タンクとして使われるようになるが、老朽化のために解体されることが決まり、1963年(昭和38年)2月にシンガポールの解体業者に売却され解体された。

脚註

  1. ^ 土井、pp.154-155
  2. ^ 船舶砲兵、245-246ページ

参考文献

  • 大内健二『戦う民間船―知られざる勇気と忍耐の記録』 光人社、2006年、ISBN 476982498X
  • 土井全二郎『撃沈された船員たちの記録―戦争の底辺で働いた輸送船の戦い』 光人社、2008年、ISBN 9784769825692
  • 駒宮真七郎、『船舶砲兵―血で綴られた戦時輸送船史』、出版協同社、1977年

関連項目