魏京生

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魏京生
Wei Jjingsheng.JPG
プロフィール
出生: 1950年5月20日(64歳)
出身地: 中華人民共和国の旗 中国
職業: 民主化運動家
各種表記
繁体字 魏京生
簡体字 魏京生
拼音 Wèi Jīngshēng
和名表記: ぎ きょうせい
発音転記: ウェイ ジンシェン
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魏 京生(ぎ きょうせい、ウェイ・ジンシェン、1950年5月20日 - )は、中華人民共和国の民主運動家。王丹らとともに「民主闘士」と称される、中国民主化運動のシンボル的存在。

中華人民共和国国内の活動[編集]

1950年北京人民解放軍退役軍人の子として生まれる(省籍は安徽省)。文化大革命期は中国人民大学附属中学で紅衛兵として活動。1969年から兵役1973年から北京動物園で電気技術者として勤務しつつ、北京大学で歴史を学ぶ。

「北京の春」[編集]

1976年4月5日に起きた第1次天安門事件を契機とし、以降、民主運動が高まっていった。これは「北京の春」といわれ、魏はその主導者の1人となった。

1978年秋には北京の西単で「民主の壁」運動が盛んになり、この運動は、1978年12月18日から12月22日にかけて開かれた、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(三中全会)にも影響を与えたとされる。同会議では文化大革命の清算及び改革開放路線が決定された。同会議に先立つ12月5日、「民主の壁」に「金生」という署名で「第五の近代化-民主およびその他」と題する壁新聞が張り出された。中国共産党による30年間の独裁と、自由も民主的でもない現状を見つめるよう訴えたものだった[1]。この「金生」が魏京生であった。

「民主の壁」に参加していた市民らは「四五論壇」「民主の壁」「群衆参考消息」といった自費雑誌を発行していた。魏京生も1979年1月8日、雑誌『探索』を編集発刊し、さらに厳家祺が同1979年1月に発刊した雑誌に「北京の春」と名付けた[2]。これは1968年の「プラハの春」にちなんだもので、以後、1978年秋以降盛り上がった「民主の壁」の運動は「北京の春」と呼ばれる。

1979年1月18日から4月3日まで開かれた「理論会議(理論工作務虚会)」で、中央政治局委員の胡耀邦は、それまでタブーとされてきた人々や文芸作品の名誉回復を図った。

他方、北京市公安局は1979年1月18日に、北京西単の壁に壁新聞を張り「飢餓と迫害に反対し、民主と人権を要求する」デモを計画した疑いで傳月華という女性運動家を逮捕したことで、傳月華の釈放を求める運動が展開していく。なお、この1979年1月には、中国政府は一人っ子政策を発表し、さらに2月17日からは中越戦争を開始している。

魏京生は壁新聞で鄧小平の改革路線を批判していた。当時の共産党の標語「四つの近代化」に対し、第五の近代化(政治の近代化=民主化)を提唱していた。

華国鋒を追い詰めるために利用した「民主の壁」運動は鄧小平にとってすでに不要で邪魔なものであったといわれる[3]

1979年3月29日、北京市党委員会は、集会・デモ・壁新聞の掲示等を規制する通告を発布。プロレタリア独裁、社会主義、中国共産党による指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想に反対する壁新聞の張り出しや出版物の出版を禁止した。同3月29日、魏京生は反革命罪で逮捕された。

翌日の3月30日、鄧小平は、胡耀邦の理論会議で「四つの基本原則を堅持する」という演説を行った。「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つの原則を堅持する、というものだった[4]。魏京生の逮捕とこの「四つの基本原則」の宣言により、「民主の壁」(北京の春)運動は終息した。


魏京生はさらに10月16日、軍事情報漏洩罪・反革命煽動罪として懲役15年の刑に処され、1993年に仮釈放されるまで14年半もの間、服役する。

仮出所後[編集]

仮出所後は外国要人・メディアとの会談などで、積極的に中華人民共和国の政治や第2次天安門事件、人権問題などを批判したため、再び共産党から睨まれ、1994年4月に再逮捕。翌年12月政府転覆陰謀罪により再び懲役14年の判決を受ける。しかし、獄中の虐待により重病となったとの情報が流れ、以前から釈放運動を行っていたアムネスティ・インターナショナルなどの人権団体や外国メディアからも釈放要求が高まったため、1997年11月16日、病気療養を名目として再び仮釈放。2度の入獄、18年の服役を経験した。

亡命[編集]

事実上の国外追放処分となったため、渡米。以後はアメリカ合衆国を拠点として内外の民主化運動と連携し、活発な民主化運動を行っている。人権問題のみならず政治・外交でも積極的に中華人民共和国批判を行い、またたびたび中華民国を訪問して与野党幹部と会談し、北京による中華民国(台湾)併合の動きに警鐘を鳴らしている。

1998年9月にはアムネスティ・インターナショナル日本支部の招待で日本を訪問する予定であったが、直前にパスポートの盗難に遭うという不可解な事件が起きたため、延期を余儀なくされた。2006年10月下旬に実現した日本訪問では、中華人民共和国について北朝鮮問題や経済関係だけを優先せず、貧富の格差・人権侵害・民主化といった問題について注視するよう講演会で訴えた。

2007年6月2日にはニューヨークから成田に到着したが、「ビザを保有していなかった」として日本の入国管理局が「手続きに問題はないが、上からの指示と」入国を拒否。魏京生は「このままアメリカに帰りたくない」と当局と交渉した。

脚注[編集]

  1. ^ 「文化大革命十年史」岩波書店
  2. ^ 「文化大革命十年史」岩波書店の著者でもある。
  3. ^ 「文化大革命十年史」岩波書店
  4. ^ 鄧小平文選第二巻、「四つの基本原則を堅持する」(1979年3月30日)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]