第6軍管

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第6軍管(だいろくぐんかん)は、1873年から1888年まであった日本陸軍の管区で、全国に7つあった軍管の一つである。熊本鎮台が管轄し、九州地方を範囲とした。

軍管以前の鎮西鎮台の管轄地[編集]

陸軍の管轄地が法定されたのは、明治4年8月(1871年9月から10月)である[1]。全国4つの鎮台に管地が割り当てられ、熊本に置かれた鎮西鎮台が現在の九州地方と中国地方の西部(現在の岡山県西部(備中国)と島根県より西)を範囲とした。琉球は含まれない。当時の府県は改廃の頻度が高く、境界は国(令制国)で示された。

第6軍管の設置[編集]

1875年の第6軍管。南の濃い水色が熊本の第13師管、北の薄い水色が小倉の第14師管。境界線は当時の府県のもの。
1885年から1888年の第6軍管。南が第11師管、北が第12師管。境界線は国(令制国)のもの。

1873年7月19日、明治6年太政官布告第255号によって鎮台条例が改正され、鎮台が管轄する地域を軍管と呼ぶことになった[2]。また、鎮台の数が6に増え、それまで鎮西鎮台の分営があった広島に広島鎮台が置かれた。鎮西鎮台は熊本鎮台と改称し、琉球を含めた九州地方一円を範囲とした。

1875年(明治8年)4月7日改正の「六管鎮台表」での範囲も九州一円に及ぶが、琉球が除かれた。ただ、管内の営所の一つに琉玖があり、正確な扱いは不明である[3]

1885年の改正[編集]

1885年5月18日、明治18年太政官達第21号によって鎮台条例がふたたび全面改正され、軍管の区割りも変更になった[4]。師管の番号は振り直され、従来の第13師管が第11師管に、第14師管が第12師管に変わった。師管の境界では、現在の大分県地方が南から北に移った。分営は福岡にのみ置かれた。

1888年に廃止[編集]

1888年5月14日、明治21年勅令第27号(5月12日制定、14日公布)に師団司令部条例が制定されて鎮台は廃止になり、かわりに師団が常設されることになった[5]。あわせて陸軍管区表が制定され、それまでの軍管は師管と改称し、常設の師団の管轄地になった[6]。第6軍管の管轄地は、第6師管に引き継がれた。範囲は同じである。

脚注[編集]

  1. ^ 『太政類典』第2編第205巻(兵制4・武官職制4)、「鎮台ヲ諸道ニ置キ管所ヲ定ム」。
  2. ^ 『太政類典』第2編第205巻(兵制4・武官職制4)「鎮台条例改定」。
  3. ^ 『公文録』第41巻、「六管鎮台表国事兵額並配分表刻成届」。琉「玖」の字も同じ表による。
  4. ^ 『公文類]』第9編第6巻(兵制門・兵制総・陸海軍管制・庁衙及兵営城堡附・兵器馬匹及艦舩・徴兵)、「鎮台条例ヲ改正ス」の七軍管疆域表、リンク先の8コマめ。太政官文書局『官報』第561号(明治18年5月18日発行)
  5. ^ 『官報』 第1459号(明治21年5月14日)。リンク先の4コマめ。
  6. ^ 『官報』 第1459号(明治21年5月14日)、陸軍管区制定の件。リンク先の7 - 9コマめ。

参考文献[編集]