「ナスル朝」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==

=== 建国 ===
=== 建国 ===
[[1237年]]、ムハンマド1世が都を正式に[[グラナダ]]に定めた。当時、[[カスティーリャ王国]]に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた。
13世紀初め、それまで[[アンダルス]]を支配していた[[ムワッヒド朝]]が、新たに勃興した[[ハフス朝]]、[[マリーン朝]]との抗争に追われることとなり、アンダルスから事実上の撤退といった状況となった<ref name="佐藤健太郎_p115">佐藤健太郎 (2008)、p.115</ref>。これにより、アンダルスは「第三次ターイファ」と呼ばれる時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団の指導者の政権が乱立した<ref name="佐藤健太郎_p115"/>。その中で、1232年アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世(ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル)){{#tag:ref|預言者ムハンマドの教友の後継者とも<ref>佐藤次高 (1997)、p.336</ref>、[[マディーナ]]のハズラジュ族の後裔ともいわれる<ref>ヒッティ (1983)、p.394</ref>。|group=*}}が[[ハエン]]近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファの1国となった<ref name="佐藤健太郎_p119">佐藤健太郎 (2008)、p.119</ref>。[[1237年]] (1238年ともいわれる<ref name="私市_p255">私市 (2002)、p.255</ref>。)、ムハンマド1世が都を正式に[[グラナダ]]に定めた<ref name="私市_p255"/>。この後、さらに[[アルメリア]]、[[マラガ]]へ進出し、[[アンダルス]]南部に勢力を確立した<ref name="佐藤健太郎_p119"/>。当時、[[カスティーリャ王国]]に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた<ref name="関_p162">関 (2008)、p.162</ref>。そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった<ref>ヒッティ (1983)、pp.394-395</ref>


ナスル朝成立当初、ムハンマド1世はハフス朝に従っていたが、その宗主権を認める相手を[[アッバース朝]]、[[ムワッヒド朝]]と状況に合わせて変えながら、周囲の勢力の間をぬって国を発展させていった<ref name="佐藤健太郎_p119"/>。キリスト教徒とも関係を持ち、1232年のカスティーリャ王[[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]による[[コルドバ]]征服にも協力した<ref name="佐藤健太郎_p119"/>。けれども、フェルナンド3世が根拠地ハエンの攻略を開始したことから、ムハンマド1世は臣従と貢納金の支払いを行なうことなり、さらには1246年ハエン一帯をカスティーリャ王に割譲することとなった<ref name="佐藤健太郎_p119"/>。このため、ムハンマド1世はムスリム君主でありながらカスティーリャ王の封建的家臣という立場となり<ref name="関_p162"/>、その征服事業にも軍を派遣した<ref name="佐藤健太郎_p119"/>。
そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった。しかし、このナスル朝も、カスティーリャ王国に定期的な貢納を強いられたほか、時には同王国の[[コルテス (身分制議会)|コルテス]](身分制議会)のメンバーに参加するなど、王国としての独立的地位は建国当初より厳しいものであった。


[[グアダルキビール川]]流域のハエン一帯を割譲したことにより、領土の損失は大きかったものの、山岳地帯のグラナダ周辺を主とする領土となり、守るには有利な状況となった<ref name="佐藤健太郎_p120">佐藤健太郎 (2008)、p.120</ref>{{#tag:ref|ムハンマド1世の保有する兵力では、ハエン一帯まで含めた防衛は不可能であった<ref name="余部_p327">余部 (1992)、p.327</ref>。|group=*}}。また、フェルナンド3世への臣従により平和が続き、内政に専念することができたため、アンダルス各地から知識人、手工業者の流入があり、その後の繁栄をみることとなった<ref name="佐藤健太郎_pp119-120">佐藤健太郎 (2008)、pp.119-120</ref>。
13世紀後半になると、カスティーリャ王国の要求はさらに激化し、[[ジブラルタル]]などの割譲を要求されるようになった。そのため、イベリア半島対岸の[[モロッコ]]にあるイスラーム王朝である[[マリーン朝]]に接近し、外交政策を通じてカスティーリャ王国に対抗することを図った。しかし、マリーン朝との関係も必ずとも良好なわけではなく、カスティーリャ王国とマリーン朝の[[勢力均衡]]を図りつつ巧みな外交を展開する必要があった。

==== アシキールーラ家の反乱とムデハル反乱 ====
アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリー{{#tag:ref|アラブのキンダ族の出自と称していた<ref name="余部_p325">余部 (1992)、p.325</ref>。|group=*}}はムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守{{#tag:ref|「代官」とも訳される<ref name="余部_p327"/>。|group=*}}でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。

1264年、カスティーリャ王国のアンダルシーア地方(ヘレス、アルコス及び[[ムルシア]]など<ref name="佐藤健太郎_p120"/>)では再植民運動により入植した民衆と、ムデハル{{#tag:ref|信仰と自治権を認められ農村あるいは一部都市に残留を認められたムスリム<ref name="関_p166">関 (2008)、p.166</ref>。|group=*}}の農民、手工業者との軋轢が高じてきていた<ref name="関_p166"/>。この状況からムデハルは、[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]の再征服運動の拡大に危機感を抱いたムハンマド1世の支援のもと反乱を起こした<ref name="佐藤健太郎_p120"/><ref name="関_p166"/>。これにより、ムハンマド1世はアルフォンソ10世の宗主権を離れ、マリーン朝{{#tag:ref|余部 (1992)、p.325 では、ムルシアに独力でアシキールーラ家を差し向け占領したとされる。|group=*}}に援軍を求めカスティーリャ王国とは戦争状態となった<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。

1266年、アシキールーラ家はマラガと[[グアディクス]]で反乱を起こした<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。この反乱の原因は、1257年ムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと<ref name="佐藤健太郎_p120"/>、あるいはムハンマド1世及び2世が[[マーリク派]]法学を支持していたのに対し、神秘主義([[スーフィズム]])を奉じていたアシキールーラ家が対立したこと<ref name="余部_p327"/>が考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はカスティーリャ王アルフォンソ10世に救援を求め、ムハンマド1世と対立した<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった<ref name="佐藤健太郎_pp120-121">佐藤健太郎 (2008)、pp.120-121</ref>。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。

この間、ムハンマド1世はムデハルの反乱に乗じ、一時はカスティーリャ王国領のヘレス及びムルシアを手中にした<ref name="佐藤健太郎_p120"/>。けれども、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結びヘレス及びムルシアを放棄した<ref name="佐藤健太郎_pp120-121"/>。これにより、カスティーリャ王国はナスル朝の介入を排除し、[[アラゴン王国]]の支援{{#tag:ref|アラゴン王国への反乱の波及を恐れた[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ジャウマ1世]]により支援が行なわれた<ref name="関_p166"/>。|group=*}}を受けムデハル反乱を鎮圧した<ref name="関_p166"/>。

=== カスティーリャ王国とマリーン朝との間での動き ===
13世紀後半になると、[[ジブラルタル海峡]]を押さえる[[アルヘシラス]]、[[ジブラルタル]] [[ロンダ]]及び海峡周りの諸都市が攻防の対象となった<ref name="佐藤健太郎_p121">佐藤健太郎 (2008)、p.121</ref>。ここで、マリーン朝のアンダルスへの介入が活発化し、[[ジブラルタル海峡]]をめぐりマリーン朝、カスティーリャ王国間の戦いが度々行なわれた<ref name="佐藤健太郎_p121"/>。1275年以降マリーン朝の[[アブー・ユースフ・ヤアクーブ|アブー・ユースフ]]はカスティーリャ王国の内紛{{#tag:ref|アルフォンソ10世とその子サンチョとの対立があった<ref name="佐藤健太郎_p121"/>。|group=*}}に乗じアンダルスへの介入を行なった<ref name="佐藤健太郎_p121"/>。その子[[アブー・ヤアクーブ・ユースフ|アブー・ヤアクーブ]]も1291年に侵攻を行なったが、ナスル朝の離反により失敗し、さらに翌1292年には[[タリファ]]をカスティーリャ王国に奪われてしまった<ref name="佐藤健太郎_p121"/>。

14世紀に入り、マリーン朝の内紛と隣国との抗争による弱体化を受け、ナスル朝のムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧をもくろみ[[セウタ]]攻略を図ったものの、周囲のカスティーリャ王国、[[アラゴン王国]]、マリーン朝の包囲を受け撤退した<ref name="佐藤健太郎_pp121-122">佐藤健太郎 (2008)、pp.121-122</ref>。14世紀のナスル朝での軍事力の中心は、マリーン朝の政治抗争に敗れナスル朝に逃れたベルベル系部族集団であった<ref name="佐藤健太郎_p122">佐藤健太郎 (2008)、p.122</ref>。これら軍事集団はその力を基にナスル朝宮廷の内紛に干渉し、その不安定をもたらす要因となった<ref name="佐藤健太郎_p122"/>。


=== 最盛期 ===
=== 最盛期 ===
[[ファイル:Iberian Kingdoms in 1400.svg|thumb|250px|1400年頃[[イベリ半島]]]]
[[ファイル:Alhambra-petit.jpg|thumb|300px|グラナダ市南東に連なる丘上にそびえるルハンブラ宮殿]]
[[14世紀]]半ば、マリーン朝がカスティーリャ王国に戦闘で敗れ、両国間の勢力均衡が崩れた。このことは、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態であった。しかし、この時期(14世紀半ば)よりヨーロッパ全域を襲った[[ペスト]](黒死病)によりカスティーリャ王国も大打撃を被ったこと、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国と[[アラゴン王国]]の対立、さらにカスティーリャ王国の内紛などが重なり、レコンキスタのさらなる進展に足止めがかかった。こうした状況下で、ナスル朝はその命脈を保つとともに、徐々に国力を発展させていった。イタリアの[[ジェノヴァ]]商人などとの交易活動も、経済的繁栄の一因となった。
[[14世紀]]半ば、マリーン朝の内紛を収拾したアブー・アルハサン・アリーはイベリア半島への[[ジハード]]を開始した<ref name="佐藤健太郎_p122"/>。このマリーン朝、ナスル朝連合軍がカスティーリャ、ポルトガル連合軍対する戦闘(サラード川の戦い{{enlink|Battle of Río Salado}})で敗れ、両国間の勢力均衡が崩れた<ref name="佐藤健太郎_p122"/>。このことは、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態であった<ref name="佐藤健太郎_p122"/>けれども、この時期(14世紀半ば)ヨーロッパ全域を襲った[[ペスト]](黒死病)によりカスティーリャ王国も大打撃を被ったこと、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国とアラゴン王国の対立、さらに[[第一次カスティーリャ継承戦争|カスティーリャ王国の内紛]]などが重なり、レコンキスタのさらなる進展に足止めがかかった<ref name="佐藤健太郎_pp122-123">佐藤健太郎 (2008)、pp.122-123</ref>。また、マリーン朝はこの後大規模な軍をアンダルスに派遣することがなくなり{{#tag:ref|この侵攻を行なったマリーン朝[[アブー・アルハサン・アリー]]王の後アブー・イナーン・ファーリス王末期からマリーン朝は内乱が続き、衰退していった<ref>那谷 (1984)、pp.194-196</ref>。|group=*}}、ナスル朝への介入もなくなった<ref name="佐藤健太郎_pp122-123"/>。こうした状況下で、ナスル朝はその命脈を保つとともに、徐々に国力を発展させていった<ref name="佐藤健太郎_p123">佐藤健太郎 (2008)、p.123</ref>。イタリアの[[ジェノヴァ]]商人などとの交易活動も、経済的繁栄の一因となった<ref name="佐藤健太郎_pp125-126">佐藤健太郎 (2008)、pp.125-126</ref>


14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、ナスル朝はその最盛期を迎えた。一時喪失していたジブラルタル、[[アルヘシラス]]を奪回する一方で、地中海外交を積極的に展開し、エジプトの[[マムルーク朝]]と外交関係樹立した。文化面おいても13世紀造営されていた[[アルハンブラ宮殿]]に大規模な改修われ首都グナダ繁栄に彩り与えた。
14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、ナスル朝はその最盛期を迎えた<ref name="佐藤健太郎_p123"/>ムハンマド5世、マリーン朝からはアンダルスにおける拠点となっていた[[ロンダ (スペイン)|ロンダ]]及びジブラルタルを獲得する一方でカスティーリャ王国からは[[アルヘシラス]]を奪回し、[[エンリケ2世]]とは和約結んで貢納金の支払いも停止した<ref name="佐藤健太郎_p123"/>これよりマリーン朝の介入を完全排除し、さらには内紛の続くマリーン朝への介入まで行なううになった<ref name="佐藤健太郎_p123"/>。またムハンマド5世は、ムハンマド1世のときから造営されていた[[アルハンブラ宮殿]]に、先代ユースフ1世に続いて大規模な改修ないイスーム美術到達点示す宮殿群を築い<ref>余部 (1999)、p.69</ref>


=== 衰退から滅亡 ===
=== 衰退から滅亡 ===
[[ファイル:Iberian Kingdoms in 1400.svg|thumb|250px|1400年頃の[[イベリア半島]]]]
しかし[[15世紀]]に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラが[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|アラゴン王フェルナンド1世]]の攻撃により陥落し、またこの頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた<ref name="佐藤健太郎_p126">佐藤健太郎 (2008)、p.126</ref>。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の[[地中海]]沿岸などに強力なイスラム国家は存在せず、友好的なイスラム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた<ref name="佐藤健太郎_p127">佐藤健太郎 (2008)、p.127</ref>

[[ポルトガル]]による[[セウタ]]占領(1415年)、カスティーリャによるジブラルタル占領(1462年)によりジブラルタル海峡がキリスト教徒のものとなり、ナスル朝にとっては貿易のみならず、兵力の調達が困難となった<ref name="佐藤健太郎_p127"/>。また、政情不安にともなってジェノヴァ商人の足もナスル朝から遠のき、経済的にも影響が大きかった<ref name="佐藤健太郎_p126"/>。さらに、ナスル朝内部でも王族間では君主位をめぐる対立や、[[マラガ]]、[[グアディクス]]での王族の割拠による分裂があった<ref name="佐藤健太郎_p126"/>。また、有力家門の間でも王族を巻き込んだ政治闘争が続き、一時はカスティーリャ王国もこれに巻き込まれたこともあった{{#tag:ref|ユースフ4世が王となる際に、カスティーリャ王[[フアン2世 (カスティーリャ王)|フアン2世]]の支援を受けた<ref name="佐藤健太郎_p127"/>。|group=*}}<ref>佐藤健太郎 (2008)、pp.126-127</ref>。また、カスティーリャ王国と[[アラゴン王国]]の連合が成立し、[[カトリック両王]]による攻勢が強まっていった<ref>余部 (1992)、p.334</ref>。

このような内紛と外寇の続くなかで、アブルハサン・アリーはカスティーリャ王国への貢納を拒否するだけでなく、攻撃を開始した<ref name="ヒッティ_p399">ヒッティ (1983)、p.399</ref>。戦闘は、同王国の報復を招いただけで、ナスル朝を利することはなかった<ref>ヒッティ (1983)、pp.399-401</ref>。さらにアブルハサン・アリーは、息子[[ボアブディル|ムハンマド11世(ボアブディル)]]{{#tag:ref|従来ムハンマド12世(ボアブディル)とされてきた世数は、新たなアラビア語史料の公刊により訂正されなければならないとされる<ref name="佐藤健太郎_p135">佐藤健太郎 (2008)、p.135</ref>。|group=*}}が反乱を起こし1482年にグラナダを奪ったため<ref name="ヒッティ_p399"/>、[[マラガ]]へ撤退し国は二分されてしまった<ref name="余部_p335">余部 (1992)、p.335</ref>。翌1483年ムハンマド11世は[[ルセナ]]に対し攻撃を行なったものの敗れ、カトリック両王の捕虜となってしまった<ref name="ヒッティ_p399"/>。このため、彼の父アブルハサン・アリーが2年間復位した後に、その弟ムハンマド12世がアルメリアで即位した<ref name="ヒッティ_p399"/><ref name="余部_p335"/>。捕虜となったムハンマド11世は釈放され{{#tag:ref|カトリック両王はムハンマド11世を正統政権とし、1483年に休戦協定を結んでいる<ref>大内 (2008)、p.259</ref>。|group=*}}、叔父ムハンマド12世とは一旦は1486年にその即位を認める事態があったものの、抗争を繰り返した<ref name="余部_p335"/>。同じ1486年には、ムハンマド11世がムハンマド12世のいるグラナダの一部を占拠し、この間マラガ、アルメリアなど次々にムハンマド12世の勢力圏の主要都市がキリスト教徒に攻略されていくなかで、ムハンマド12世はグラナダでカスティーリャ軍との戦いに敗れ[[トレムセン|ティリムサーン]]に落ち延びた<ref>ヒッティ (1983)、p.400</ref>。この状況にあっても、ムハンマド11世は対抗するムハンマド12世の勢力への援軍を送らなかった<ref name="佐藤健太郎_p128">佐藤健太郎 (2008)、p.128</ref>。

==== 滅亡とその後 ====
[[ファイル:BoabdilFerdinandIsabella.jpg|thumb|300px|グラナダの開城]]
[[ファイル:BoabdilFerdinandIsabella.jpg|thumb|300px|グラナダの開城]]
キリスト教徒の征服が差し迫った1487年、グラナダの法学者たちはムハンマド11世に対し、[[マムルーク朝]]に使節を派遣し救援を求めるよう迫ったが、マムルーク朝の援軍は派遣されず、グラナダ攻略の見合わせを求めるキリスト教修道士([[聖墳墓教会]])2名がカトリック両王に派遣されただけであった<ref name="佐藤健太郎_p128"/>。
しかし[[15世紀]]に入ると再びナスル朝は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の[[地中海]]沿岸などに強力なイスラム国家は存在せず、友好的なイスラム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。


1491年春にフェルナンド2世の1万騎の軍勢によりグラナダは包囲され、年末には籠城側の窮乏は限界となった<ref>ヒッティ (1983)、p.401</ref>。1491年末にムハンマド11世と[[カトリック両王]]間で降伏協定が結ばれ、1492年1月2日にグラナダは無血開城しレコンキスタが完了した<ref name="佐藤健太郎_p128"/> {{#tag:ref|この時の協定では、ムスリムに対し、残留する者には信仰と財産の保全が許され、イベリア半島から退去する者にはその財産処分の自由が与えられた<ref name="佐藤健太郎_p128"/>。|group=*}}。最後のナスル朝君主であったムハンマド11世は、一旦は開城時の協定により与えられた[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラネバダ山中]]の所領(アブ・バシァラート{{#tag:ref|スペイン語でアルプジャッラス。シエラネバダの南方地中海までの山岳地帯<ref>ヒッティ (1983)、p.411</ref>。|group=*}})に退いたものの、後に[[フェズ王国|フェズ]]へと亡命し、ナスル朝は滅亡した<ref>ヒッティ (1983)、p.402</ref>。
15世紀前半、[[ポルトガル]]の[[エンリケ航海王子]]がアフリカ西岸の航海を支援して影響力を行使するようになったことは、これらの地域でも貿易に従事していたナスル朝の経済にとって打撃となった。また、政情不安にともなってジェノヴァ商人の足もナスル朝から遠のき、経済的にも孤立を深めることになった。さらに、ナスル朝内部の政治闘争が続いたことで一貫した対内、対外政策がとれず、場当たり的なカスティーリャ王国との戦闘は、同王国のレコンキスタの機運を強めさせるだけで、ナスル朝を利することはなかった。


1492年3月末にスペイン王国の[[ユダヤ教徒]]に対して改宗か国外退去を命じるユダヤ人追放令が出された<ref name="大内_p257">大内 (2008)、p.257</ref>。これはコンベルソ(キリスト教へ改宗したユダヤ教徒)のカトリック信仰を徹底するためのもので、これの障害となるユダヤ教徒との接触を根絶するためのものであった<ref name="大内_p257"/>。1499年10月にグラナダに赴任した枢機卿[[フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス|シスネロス]]は[[ムデハル語|ムデハル]](キリスト教徒支配下のイスラーム教徒)に対し強制的な手法([[クルアーン]]の焼却など)を用いたために反乱を招くこととなった<ref name="大内_p258">大内 (2008)、p.258</ref>。この反乱を開城時の協定に対する違反と見たカトリック両王は、1502年にカスティーリャ王国(この段階でのスペイン帝国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指す{{#tag:ref|ナスル朝の領域はカスティーリャ王国組み込まれた<ref name="大内_p258"/>。|group=*}})でムデハルに改宗を迫る法令を出し、後にスペイン全域にまで拡大された<ref>大内 (2008)、pp.258-259</ref>。
[[1492年]]1月2日、[[グラナダの戦い]]によって、既にカスティーリャ王国とアラゴン王国の合併([[カトリック両王|イサベラ1世とフェルナンド2世の結婚、カトリック統治]])で成立していたスペイン帝国は、グラナダを無血開城させてレコンキスタを完了させた。最後のナスル朝君主であった[[ボアブディル|ムハンマド12世]]は[[フェズ王国|フェズ]]へと亡命し、ナスル朝は滅亡した。


== 社会、文化及び経済 ==
レコンキスタの熱狂は、宗教的に寛容な姿勢を許さなかった。同年中に[[ユダヤ教徒]]に対して改宗か国外退去が命じられ、1502年にはカスティーリャ王国(この段階でのスペイン帝国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指す)でイスラム教徒にも改宗を迫る法令が出され、のちにスペイン全域にまで拡大した。
=== 社会構造 ===
ナスル朝以前の、ムラービト朝、ムワッヒド朝では、その建国の理念が半島のキリスト教勢力に対する、イスラーム共同体の防衛であった<ref name="佐藤健太郎_p118">佐藤健太郎 (2008)、p.118</ref>{{#tag:ref|成立過程が似ているムラービト朝とムワッヒド朝の宗教理念はまったく異なり、ムラービト朝では正統的[[マーリク派]]法学を理念としたのに対し、ムワッヒド朝ではマーリク法学からすると異端とされるような[[ザーヒル派]]法学、哲学、[[スーフィズム]]などの要素をとりまぜた独自の[[タウヒード]]神学を理念とした<ref>佐藤健太郎 (2008)、p.113</ref>。|group=*}}。そのため、ナスル朝にいたるまでの間に非ムスリムの改宗、流出が進んだ<ref name="佐藤健太郎_p118"/>。さらに、ナスル朝がイベリア半島における最後のイスラーム王朝となったため、キリスト教徒支配地域からの大量のムスリム住民が流入し、わずかのユダヤ教徒と貿易関係の外国人を除き、住民はほぼムスリムという社会となった<ref name="佐藤健太郎_p124">佐藤健太郎 (2008)、p.124</ref>。流入した住民には、知識人、手工業者も含まれ<ref name="佐藤健太郎_pp119-120">佐藤健太郎 (2008)、pp.119-120</ref>、これにより、ナスル朝の人的資源が豊富となり、経済発展、軍事力強化の基礎となった<ref name="余部_p327"/>。


また、カスティーリャ王国で政争に敗れナスル朝亡命し、キリスト教から改宗するという場合があった<ref name="佐藤健太郎_pp124-125">佐藤健太郎 (2008)、pp.124-125</ref>。逆にナスル朝内部で失脚してカスティーリャ王国に亡命し、キリスト教に改宗する者もいた<ref name="佐藤健太郎_pp124-125"/>。
== 歴代君主一覧 ==

=== 信仰、学術及び芸術 ===
ムハンマド1世及び2世は[[マーリク派]]法学を支持し、建国の盟友であった神秘主義([[スーフィズム]])を奉じるアシキールーラ家との対立の一因ともなった<ref name="余部_p327"/>。ムハンマド2世は[[ファキーフ]]([[イスラーム法学者]])とも称されるほどにマーリク派法学を奨励した<ref>余部 (1992)、p.328</ref>。

ナスル朝期全体としては、スーフィズムが特に非都市部を中心に社会全体に浸透していった<ref name="佐藤健太郎_p125">佐藤健太郎 (2008)、p.125</ref>。[[スーフィー]]教団の活動で歌舞音曲を通じた修行や過度の農地等に対する[[ワクフ (イスラム)|ワクフ]](マグリブあるいはアンダルスでは「ハブス」という<ref>佐藤健太郎 (2008)、p.123</ref>。)設定が法学者からの批判を受けることもあった<ref name="佐藤健太郎_p125"/>。けれどもスーフィズムは法学とならびイスラームにおいて重要な信仰の柱とされ、法学者であると同時にスーフィーであるという者も多くいた<ref name="佐藤健太郎_p125"/>。さらには、イスラーム君主としてスーフィーの保護は重要なこととなっていった<ref name="佐藤健太郎_p125"/>。

ナスル朝は住民がほぼムスリムという状況となり、半島内におけるイスラーム信仰の中心となっていた<ref name="佐藤健太郎_p124"/>。これにより、キリスト教徒支配下のムデハルとの交渉も存在し、領外のムデハルからグラナダのイスラーム法学者に対して[[ファトワー]]の発給が求められることもあった<ref name="佐藤健太郎_p124"/>。

グラナダには[[マドラサ]](「大学」と訳される<ref>ヒッティ (1983)、p.424</ref><ref>余部 (1992)、p.330</ref>)がユースフ1世によって設立され、神学、法学、医学、化学、哲学及び天文学の学科が開設されていた<ref>ヒッティ (1983)、pp.424-425</ref>。国外からもこのマドラサへ学生が来ていた<ref>ヒッティ (1983)、p.425</ref>。

学問にあっては、ナスル朝期は大きな発展がなかったと評される<ref>余部 (1992)、p.331</ref>。

ナスル朝期の学者として知られるのは、歴史家で詩人の[[イブン・アルハティーブ|イブン・アル=ハティーブ]]が知られ、[[ワズィール]]としてユースフ1世とムハンマド5世に仕え、グラナダの歴史をはじめとする60冊余りの著作があった<ref name="ヒッティ_p432">ヒッティ (1983)、p.432</ref>。また、歴史家の[[イブン・ハルドゥーン]] が1362年からムハンマド5世に仕え、重用されてカスティーリャ王国に使節として派遣されてもいる<ref name="ヒッティ_p432"/>。彼はその後、イブン・アル=ハティーブとの仲が険悪となり、マグリブへもどった<ref name="ヒッティ_p432"/>。

文学では、ムハンマド・イブン・ユースフ・アブ・ハイヤーンが[[ムワッシャフ]](アンダルスで開発、発展した押韻反復句の舞踏詩(抒情詩)<ref>ヒッティ (1983)、p.421</ref>)の作家として著名であった<ref>ヒッティ (1983)、p.422</ref>。

==== アルハンブラ宮殿 ====
[[ファイル:PatioDeLosLeones.jpg|thumb|300px|アルハンブラ宮殿のライオンの中庭]]
[[ファイル:PatioDeLosLeones.jpg|thumb|300px|アルハンブラ宮殿のライオンの中庭]]
{{main|アルハンブラ宮殿}}

==== 陶器 ====
イベリア半島への[[ラスター彩]]陶器の作陶技法が伝わった時期は明確にはなっていないものの、12世紀には半島北東部に工房が存在したとの記録がある<ref name="桝屋_p119">桝屋 (2009)、p.119</ref>。ナスル朝期以降もラスター彩陶器は製作され続けていて、この時期には銅成分の多い顔料が使われており、赤味の多いものとなっている<ref name="桝屋_p119"/>。

この時期で有名なものとしては、「アルハンブラの壺」といわれる1mを超える高さのラスター彩の壺がある<ref name="桝屋_p119"/>。この壺の特徴は、長い頸部、平たく羽を広げたような把手、全体に施されたラスター彩色があげられる<ref name="桝屋_p119"/>。

ラスター彩陶器は、1492年のナスル朝滅亡後もイベリア半島にとどまった[[モリスコ]]陶工により作陶が続けられ、「イスパノ・モレスク陶器{{enlink|Hispano-Moresque ware}}」と呼ばれた<ref name="桝屋_p119"/>。
<gallery>
ファイル:Jarrón tipo Alhambra (M.A.N. Madrid) 01.jpg|スペイン国立考古学博物館所蔵「アルハンブラの壺」
ファイル:Granada Alhambra gazelle Poterie 9019.JPG|スペイン・イスラム美術館所蔵「アルハンブラの壺」の[[ガゼル]]の文様</gallery>

=== 貿易 ===
ナスル朝期には既に地中海貿易においてアンダルス商人の活躍はみられず、ジェノヴァ商人をはじめとするキリスト教徒がその多くを担うようになった<ref name="佐藤健太郎_p125"/>。ナスル朝では王族自身がイタリアとの絹貿易<ref>ヒッティ (1983)、p.397</ref>、サトウキビなどの商品作物栽培に関与したことから、販路確保のためジェノヴァ商人には特権が与えられマラガ、グラナダに常駐し、その産物をヨーロッパ各地に輸出した<ref name="佐藤健太郎_pp125-126"/>。輸入品としては、フランドル、イングランド産の毛織物、東地中海からの香辛料、マグリブからの金、黒人奴隷があった<ref name="佐藤健太郎_p126"/>。ナスル朝期の輸入品で特に重要だったのがマグリブからの穀物で、これは大量に流入してきた都市住民の需要をグラナダの後背地だけでは満たすことができなかったものであった<ref name="佐藤健太郎_p126"/>。15世紀に入ってからは、グラナダの政情不安からジェノヴァ商人がグラナダから撤退するようになり、グラナダ経済にとって大きな打撃となった<ref name="佐藤健太郎_p126"/>。

== 歴代君主一覧 ==
*ムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)
*ムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)
*ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)
*ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)
100行目: 156行目:
*ユースフ4世(Yusuf IV、1431-1432)
*ユースフ4世(Yusuf IV、1431-1432)
*ユースフ5世(Yusuf V、1445-1446, 1462)
*ユースフ5世(Yusuf V、1445-1446, 1462)
*ムハンマド10世(Muhammed X、1446-1448)
*ユースフ6世(従来、ムハンマド10世とされてきた<ref name="佐藤健太郎_p135"/>。Yusuf VI、1446-1448)
:従来「ムハンマド10世」とされてきた王は、新たなアラビア語史料の公刊により「ユースフ」に訂正されている<ref name="佐藤健太郎_p135"/>。
*ムハンマド11世(Muhammed XI、1453-1454)
*ムハンマド10世(Muhammed XI、1453-1454)
*サード(Said、1454-1464)
*サード(Said、1454-1464)
*[[アブルハサン・アリー (ナスル朝)|アブルハサン・アリー]](Abu l-Hasan Ali、1464-1482, 1483-1485)
*[[アブルハサン・アリー (ナスル朝)|アブルハサン・アリー]](Abu l-Hasan Ali、1464-1482, 1483-1485)
*[[ボアブディル|ムハンマド11世(ボアブディル)]] (1482-1483、1487-1492) <ref name="佐藤健太郎_p128"/>(従来ムハンマド12世(ボアブディル)とされてきた<ref name="佐藤健太郎_p135"/>。)
*[[ボアブディル|ムハンマド12世(Abu 'abd Allah Muhammad XII, known as Boabdil]]、1482-1492)
*ムハンマド12世(ザガル) (1485-1487) <ref name="佐藤健太郎_p128"/>(従来ムハンマド13世(ザガル)とされてきた<ref name="佐藤健太郎_p135"/>。)

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 私市正年 「第3章 西アラブ世界の展開」『西アジア史 1 : アラブ』 佐藤次高編、[[山川出版社]]、<新版 世界各国史>8巻、2002年、pp.186-255 ISBN 4-634-41380-9
* 佐藤健太郎 「第3章 イスラーム期のスペイン」『スペイン史 1 : 古代 - 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、[[山川出版社]]、<世界歴史大系>、2008年、pp.70-135 ISBN 978-4-634-46204-5
* 関哲行 「第4章 カスティーリャ王国」『スペイン史 1 : 古代 - 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、[[山川出版社]]、<世界歴史大系>、2008年、pp.136-197 ISBN 978-4-634-46204-5
* 大内一 「第6章 カトリック両王の時代」『スペイン史 1 : 古代 - 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、[[山川出版社]]、<世界歴史大系>、2008年、pp.248-276 ISBN 978-4-634-46204-5
* 佐藤次高 『イスラーム世界の興隆』 [[中央公論社]]、<世界の歴史>8巻、1997年、ISBN 4-12-403408-3
* {{Cite book|和書|last = ヒッティ|first = フィリップ・K |translator = 岩永博|title = アラブの歴史|edition = 初版|year = 1983|publisher = [[講談社]]|series = [[講談社学術文庫]]|isbn = 4-06-158592-4 |volume = 下}}
* 那谷敏郎 『紀行 モロッコ史』 [[新潮社]]、<[[新潮選書]]>、1984年、ISBN 4-10-600260-4
* 余部福三 『アラブとしてのスペイン』 [[第三書館]]、1992年、ISBN 4-8074-9216-0
* 余部福三 「第3章 アル・アンダルス」『スペイン学を学ぶ人のために』 牛島信明、川成洋、坂東省次編、[[世界思想社]]、1999年、pp.49-70、ISBN 4-7907-0756-3
* 桝屋友子 『すぐわかるイスラームの美術』 [[東京美術]]、2009年、ISBN 978-4-8087-0835-1


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年10月7日 (金) 11:56時点における版

ナスル朝
بنو نصر
ムワッヒド朝 1232年 - 1492年 スペイン帝国
グラナダ王国の国旗 グラナダ王国の国章
(国旗) (国章)
グラナダ王国の位置
公用語 アル・アンダルス=アラビア語ムデハル語など
首都 グラナダ
君主
1232年 - 1273年 ムハンマド1世(初代)
1464年 - 1482年アブルハサン・アリー(第26代)
1482年 - 1492年ムハンマド11世(ボアブディル)[1] (最後)
変遷
成立 1232年
滅亡1492年

ナスル朝アラビア語: بنو نصر‎(Banū Naṣri)、スペイン語: La dinastía Nazarí、またはLa dinastía nasríナスリー朝)、は、イベリア半島最南部に13世紀から15世紀末まで存在していたイスラム王朝1492年、この王朝がスペイン帝国に征服されたことで、キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)が完了した。

グラナダに首都を置いたため、グラナダ王国英語表記では、Kingdom of Granada)、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。

歴史

建国

13世紀初め、それまでアンダルスを支配していたムワッヒド朝が、新たに勃興したハフス朝マリーン朝との抗争に追われることとなり、アンダルスから事実上の撤退といった状況となった[2]。これにより、アンダルスは「第三次ターイファ」と呼ばれる時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団の指導者の政権が乱立した[2]。その中で、1232年アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世(ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル))[* 1]ハエン近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファの1国となった[5]1237年 (1238年ともいわれる[6]。)、ムハンマド1世が都を正式にグラナダに定めた[6]。この後、さらにアルメリアマラガへ進出し、アンダルス南部に勢力を確立した[5]。当時、カスティーリャ王国に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラーム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた[7]。そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった[8]

ナスル朝成立当初、ムハンマド1世はハフス朝に従っていたが、その宗主権を認める相手をアッバース朝ムワッヒド朝と状況に合わせて変えながら、周囲の勢力の間をぬって国を発展させていった[5]。キリスト教徒とも関係を持ち、1232年のカスティーリャ王フェルナンド3世によるコルドバ征服にも協力した[5]。けれども、フェルナンド3世が根拠地ハエンの攻略を開始したことから、ムハンマド1世は臣従と貢納金の支払いを行なうことなり、さらには1246年ハエン一帯をカスティーリャ王に割譲することとなった[5]。このため、ムハンマド1世はムスリム君主でありながらカスティーリャ王の封建的家臣という立場となり[7]、その征服事業にも軍を派遣した[5]

グアダルキビール川流域のハエン一帯を割譲したことにより、領土の損失は大きかったものの、山岳地帯のグラナダ周辺を主とする領土となり、守るには有利な状況となった[9][* 2]。また、フェルナンド3世への臣従により平和が続き、内政に専念することができたため、アンダルス各地から知識人、手工業者の流入があり、その後の繁栄をみることとなった[11]

アシキールーラ家の反乱とムデハル反乱

アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリー[* 3]はムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった[9]。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守[* 4]でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった[9]

1264年、カスティーリャ王国のアンダルシーア地方(ヘレス、アルコス及びムルシアなど[9])では再植民運動により入植した民衆と、ムデハル[* 5]の農民、手工業者との軋轢が高じてきていた[13]。この状況からムデハルは、アルフォンソ10世の再征服運動の拡大に危機感を抱いたムハンマド1世の支援のもと反乱を起こした[9][13]。これにより、ムハンマド1世はアルフォンソ10世の宗主権を離れ、マリーン朝[* 6]に援軍を求めカスティーリャ王国とは戦争状態となった[9]

1266年、アシキールーラ家はマラガとグアディクスで反乱を起こした[9]。この反乱の原因は、1257年ムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと[9]、あるいはムハンマド1世及び2世がマーリク派法学を支持していたのに対し、神秘主義(スーフィズム)を奉じていたアシキールーラ家が対立したこと[10]が考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はカスティーリャ王アルフォンソ10世に救援を求め、ムハンマド1世と対立した[9]。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった[14]。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた[9]

この間、ムハンマド1世はムデハルの反乱に乗じ、一時はカスティーリャ王国領のヘレス及びムルシアを手中にした[9]。けれども、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結びヘレス及びムルシアを放棄した[14]。これにより、カスティーリャ王国はナスル朝の介入を排除し、アラゴン王国の支援[* 7]を受けムデハル反乱を鎮圧した[13]

カスティーリャ王国とマリーン朝との間での動き

13世紀後半になると、ジブラルタル海峡を押さえるアルヘシラスジブラルタル ロンダ及び海峡周りの諸都市が攻防の対象となった[15]。ここで、マリーン朝のアンダルスへの介入が活発化し、ジブラルタル海峡をめぐりマリーン朝、カスティーリャ王国間の戦いが度々行なわれた[15]。1275年以降マリーン朝のアブー・ユースフはカスティーリャ王国の内紛[* 8]に乗じアンダルスへの介入を行なった[15]。その子アブー・ヤアクーブも1291年に侵攻を行なったが、ナスル朝の離反により失敗し、さらに翌1292年にはタリファをカスティーリャ王国に奪われてしまった[15]

14世紀に入り、マリーン朝の内紛と隣国との抗争による弱体化を受け、ナスル朝のムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧をもくろみセウタ攻略を図ったものの、周囲のカスティーリャ王国、アラゴン王国、マリーン朝の包囲を受け撤退した[16]。14世紀のナスル朝での軍事力の中心は、マリーン朝の政治抗争に敗れナスル朝に逃れたベルベル系部族集団であった[17]。これら軍事集団はその力を基にナスル朝宮廷の内紛に干渉し、その不安定をもたらす要因となった[17]

最盛期

グラナダ市南東に連なる丘の上にそびえるアルハンブラ宮殿

14世紀半ば、マリーン朝の内紛を収拾したアブー・アルハサン・アリーはイベリア半島へのジハードを開始した[17]。このマリーン朝、ナスル朝連合軍がカスティーリャ、ポルトガル連合軍に対する戦闘(サラード川の戦い (Battle of Río Salado)で敗れ、両国間の勢力均衡が崩れた[17]。このことは、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態であった[17]。けれども、この時期(14世紀半ば)にヨーロッパ全域を襲ったペスト(黒死病)によりカスティーリャ王国も大打撃を被ったこと、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国とアラゴン王国の対立、さらにカスティーリャ王国の内紛などが重なり、レコンキスタのさらなる進展に足止めがかかった[18]。また、マリーン朝はこの後大規模な軍をアンダルスに派遣することがなくなり[* 9]、ナスル朝への介入もなくなった[18]。こうした状況下で、ナスル朝はその命脈を保つとともに、徐々に国力を発展させていった[20]。イタリアのジェノヴァ商人などとの交易活動も、経済的繁栄の一因となった[21]

14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、ナスル朝はその最盛期を迎えた[20]。ムハンマド5世は、マリーン朝からはアンダルスにおける拠点となっていたロンダ及びジブラルタルを獲得する一方で、カスティーリャ王国からはアルヘシラスを奪回し、エンリケ2世とは和約を結んで貢納金の支払いも停止した[20]。これにより、マリーン朝の介入を完全に排除し、さらには内紛の続くマリーン朝への介入まで行なうようになった[20]。またムハンマド5世は、ムハンマド1世のときから造営されていたアルハンブラ宮殿に、先代ユースフ1世に続いて大規模な改修を行ない、イスラーム美術の到達点を示す宮殿群を築いた[22]

衰退から滅亡

1400年頃のイベリア半島

しかし15世紀に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラがアラゴン王フェルナンド1世の攻撃により陥落し、またこの頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた[23]。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた[24]

ポルトガルによるセウタ占領(1415年)、カスティーリャによるジブラルタル占領(1462年)によりジブラルタル海峡がキリスト教徒のものとなり、ナスル朝にとっては貿易のみならず、兵力の調達が困難となった[24]。また、政情不安にともなってジェノヴァ商人の足もナスル朝から遠のき、経済的にも影響が大きかった[23]。さらに、ナスル朝内部でも王族間では君主位をめぐる対立や、マラガグアディクスでの王族の割拠による分裂があった[23]。また、有力家門の間でも王族を巻き込んだ政治闘争が続き、一時はカスティーリャ王国もこれに巻き込まれたこともあった[* 10][25]。また、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合が成立し、カトリック両王による攻勢が強まっていった[26]

このような内紛と外寇の続くなかで、アブルハサン・アリーはカスティーリャ王国への貢納を拒否するだけでなく、攻撃を開始した[27]。戦闘は、同王国の報復を招いただけで、ナスル朝を利することはなかった[28]。さらにアブルハサン・アリーは、息子ムハンマド11世(ボアブディル)[* 11]が反乱を起こし1482年にグラナダを奪ったため[27]マラガへ撤退し国は二分されてしまった[29]。翌1483年ムハンマド11世はルセナに対し攻撃を行なったものの敗れ、カトリック両王の捕虜となってしまった[27]。このため、彼の父アブルハサン・アリーが2年間復位した後に、その弟ムハンマド12世がアルメリアで即位した[27][29]。捕虜となったムハンマド11世は釈放され[* 12]、叔父ムハンマド12世とは一旦は1486年にその即位を認める事態があったものの、抗争を繰り返した[29]。同じ1486年には、ムハンマド11世がムハンマド12世のいるグラナダの一部を占拠し、この間マラガ、アルメリアなど次々にムハンマド12世の勢力圏の主要都市がキリスト教徒に攻略されていくなかで、ムハンマド12世はグラナダでカスティーリャ軍との戦いに敗れティリムサーンに落ち延びた[31]。この状況にあっても、ムハンマド11世は対抗するムハンマド12世の勢力への援軍を送らなかった[32]

滅亡とその後

グラナダの開城

キリスト教徒の征服が差し迫った1487年、グラナダの法学者たちはムハンマド11世に対し、マムルーク朝に使節を派遣し救援を求めるよう迫ったが、マムルーク朝の援軍は派遣されず、グラナダ攻略の見合わせを求めるキリスト教修道士(聖墳墓教会)2名がカトリック両王に派遣されただけであった[32]

1491年春にフェルナンド2世の1万騎の軍勢によりグラナダは包囲され、年末には籠城側の窮乏は限界となった[33]。1491年末にムハンマド11世とカトリック両王間で降伏協定が結ばれ、1492年1月2日にグラナダは無血開城しレコンキスタが完了した[32] [* 13]。最後のナスル朝君主であったムハンマド11世は、一旦は開城時の協定により与えられたシエラネバダ山中の所領(アブ・バシァラート[* 14])に退いたものの、後にフェズへと亡命し、ナスル朝は滅亡した[35]

1492年3月末にスペイン王国のユダヤ教徒に対して改宗か国外退去を命じるユダヤ人追放令が出された[36]。これはコンベルソ(キリスト教へ改宗したユダヤ教徒)のカトリック信仰を徹底するためのもので、これの障害となるユダヤ教徒との接触を根絶するためのものであった[36]。1499年10月にグラナダに赴任した枢機卿シスネロスムデハル(キリスト教徒支配下のイスラーム教徒)に対し強制的な手法(クルアーンの焼却など)を用いたために反乱を招くこととなった[37]。この反乱を開城時の協定に対する違反と見たカトリック両王は、1502年にカスティーリャ王国(この段階でのスペイン帝国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指す[* 15])でムデハルに改宗を迫る法令を出し、後にスペイン全域にまで拡大された[38]

社会、文化及び経済

社会構造

ナスル朝以前の、ムラービト朝、ムワッヒド朝では、その建国の理念が半島のキリスト教勢力に対する、イスラーム共同体の防衛であった[39][* 16]。そのため、ナスル朝にいたるまでの間に非ムスリムの改宗、流出が進んだ[39]。さらに、ナスル朝がイベリア半島における最後のイスラーム王朝となったため、キリスト教徒支配地域からの大量のムスリム住民が流入し、わずかのユダヤ教徒と貿易関係の外国人を除き、住民はほぼムスリムという社会となった[41]。流入した住民には、知識人、手工業者も含まれ[11]、これにより、ナスル朝の人的資源が豊富となり、経済発展、軍事力強化の基礎となった[10]

また、カスティーリャ王国で政争に敗れナスル朝亡命し、キリスト教から改宗するという場合があった[42]。逆にナスル朝内部で失脚してカスティーリャ王国に亡命し、キリスト教に改宗する者もいた[42]

信仰、学術及び芸術

ムハンマド1世及び2世はマーリク派法学を支持し、建国の盟友であった神秘主義(スーフィズム)を奉じるアシキールーラ家との対立の一因ともなった[10]。ムハンマド2世はファキーフイスラーム法学者)とも称されるほどにマーリク派法学を奨励した[43]

ナスル朝期全体としては、スーフィズムが特に非都市部を中心に社会全体に浸透していった[44]スーフィー教団の活動で歌舞音曲を通じた修行や過度の農地等に対するワクフ(マグリブあるいはアンダルスでは「ハブス」という[45]。)設定が法学者からの批判を受けることもあった[44]。けれどもスーフィズムは法学とならびイスラームにおいて重要な信仰の柱とされ、法学者であると同時にスーフィーであるという者も多くいた[44]。さらには、イスラーム君主としてスーフィーの保護は重要なこととなっていった[44]

ナスル朝は住民がほぼムスリムという状況となり、半島内におけるイスラーム信仰の中心となっていた[41]。これにより、キリスト教徒支配下のムデハルとの交渉も存在し、領外のムデハルからグラナダのイスラーム法学者に対してファトワーの発給が求められることもあった[41]

グラナダにはマドラサ(「大学」と訳される[46][47])がユースフ1世によって設立され、神学、法学、医学、化学、哲学及び天文学の学科が開設されていた[48]。国外からもこのマドラサへ学生が来ていた[49]

学問にあっては、ナスル朝期は大きな発展がなかったと評される[50]

ナスル朝期の学者として知られるのは、歴史家で詩人のイブン・アル=ハティーブが知られ、ワズィールとしてユースフ1世とムハンマド5世に仕え、グラナダの歴史をはじめとする60冊余りの著作があった[51]。また、歴史家のイブン・ハルドゥーン が1362年からムハンマド5世に仕え、重用されてカスティーリャ王国に使節として派遣されてもいる[51]。彼はその後、イブン・アル=ハティーブとの仲が険悪となり、マグリブへもどった[51]

文学では、ムハンマド・イブン・ユースフ・アブ・ハイヤーンがムワッシャフ(アンダルスで開発、発展した押韻反復句の舞踏詩(抒情詩)[52])の作家として著名であった[53]

アルハンブラ宮殿

アルハンブラ宮殿のライオンの中庭

陶器

イベリア半島へのラスター彩陶器の作陶技法が伝わった時期は明確にはなっていないものの、12世紀には半島北東部に工房が存在したとの記録がある[54]。ナスル朝期以降もラスター彩陶器は製作され続けていて、この時期には銅成分の多い顔料が使われており、赤味の多いものとなっている[54]

この時期で有名なものとしては、「アルハンブラの壺」といわれる1mを超える高さのラスター彩の壺がある[54]。この壺の特徴は、長い頸部、平たく羽を広げたような把手、全体に施されたラスター彩色があげられる[54]

ラスター彩陶器は、1492年のナスル朝滅亡後もイベリア半島にとどまったモリスコ陶工により作陶が続けられ、「イスパノ・モレスク陶器 (Hispano-Moresque ware」と呼ばれた[54]

貿易

ナスル朝期には既に地中海貿易においてアンダルス商人の活躍はみられず、ジェノヴァ商人をはじめとするキリスト教徒がその多くを担うようになった[44]。ナスル朝では王族自身がイタリアとの絹貿易[55]、サトウキビなどの商品作物栽培に関与したことから、販路確保のためジェノヴァ商人には特権が与えられマラガ、グラナダに常駐し、その産物をヨーロッパ各地に輸出した[21]。輸入品としては、フランドル、イングランド産の毛織物、東地中海からの香辛料、マグリブからの金、黒人奴隷があった[23]。ナスル朝期の輸入品で特に重要だったのがマグリブからの穀物で、これは大量に流入してきた都市住民の需要をグラナダの後背地だけでは満たすことができなかったものであった[23]。15世紀に入ってからは、グラナダの政情不安からジェノヴァ商人がグラナダから撤退するようになり、グラナダ経済にとって大きな打撃となった[23]

歴代君主一覧

  • ムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)
  • ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)
  • ムハンマド3世(Muhammed III、1302-1309)
  • ナスル(Nasr、1309-1314)
  • イスマーイール1世(Ismail I、1314-1325)
  • ムハンマド4世(Muhammed IV、1325-1333)
  • ユースフ1世(Yusuf I、1333-1354)
  • ムハンマド5世(Muhammed V、1354-1391)
  • イスマーイール2世(Ismail II、1359-1360)
  • ムハンマド6世(Muhammed VI、1360-1362)
  • ユースフ2世(Yusuf II、1391-1392)
  • ムハンマド7世(Muhammed VII、1392-1408)
  • ユースフ3世(Yusuf III、1408-1417)
  • ムハンマド8世(Muhammed VIII、1417-1419, 1427-1429)
  • ムハンマド9世(Muhammed IX、1419-1427, 1430-1431, 1432-1445, 1448-1453)
  • ユースフ4世(Yusuf IV、1431-1432)
  • ユースフ5世(Yusuf V、1445-1446, 1462)
  • ユースフ6世(従来、ムハンマド10世とされてきた[1]。Yusuf VI、1446-1448)
従来「ムハンマド10世」とされてきた王は、新たなアラビア語史料の公刊により「ユースフ」に訂正されている[1]

脚注

注釈

  1. ^ 預言者ムハンマドの教友の後継者とも[3]マディーナのハズラジュ族の後裔ともいわれる[4]
  2. ^ ムハンマド1世の保有する兵力では、ハエン一帯まで含めた防衛は不可能であった[10]
  3. ^ アラブのキンダ族の出自と称していた[12]
  4. ^ 「代官」とも訳される[10]
  5. ^ 信仰と自治権を認められ農村あるいは一部都市に残留を認められたムスリム[13]
  6. ^ 余部 (1992)、p.325 では、ムルシアに独力でアシキールーラ家を差し向け占領したとされる。
  7. ^ アラゴン王国への反乱の波及を恐れたジャウマ1世により支援が行なわれた[13]
  8. ^ アルフォンソ10世とその子サンチョとの対立があった[15]
  9. ^ この侵攻を行なったマリーン朝アブー・アルハサン・アリー王の後アブー・イナーン・ファーリス王末期からマリーン朝は内乱が続き、衰退していった[19]
  10. ^ ユースフ4世が王となる際に、カスティーリャ王フアン2世の支援を受けた[24]
  11. ^ 従来ムハンマド12世(ボアブディル)とされてきた世数は、新たなアラビア語史料の公刊により訂正されなければならないとされる[1]
  12. ^ カトリック両王はムハンマド11世を正統政権とし、1483年に休戦協定を結んでいる[30]
  13. ^ この時の協定では、ムスリムに対し、残留する者には信仰と財産の保全が許され、イベリア半島から退去する者にはその財産処分の自由が与えられた[32]
  14. ^ スペイン語でアルプジャッラス。シエラネバダの南方地中海までの山岳地帯[34]
  15. ^ ナスル朝の領域はカスティーリャ王国組み込まれた[37]
  16. ^ 成立過程が似ているムラービト朝とムワッヒド朝の宗教理念はまったく異なり、ムラービト朝では正統的マーリク派法学を理念としたのに対し、ムワッヒド朝ではマーリク法学からすると異端とされるようなザーヒル派法学、哲学、スーフィズムなどの要素をとりまぜた独自のタウヒード神学を理念とした[40]

出典

  1. ^ a b c d e f 佐藤健太郎 (2008)、p.135
  2. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、p.115
  3. ^ 佐藤次高 (1997)、p.336
  4. ^ ヒッティ (1983)、p.394
  5. ^ a b c d e f 佐藤健太郎 (2008)、p.119
  6. ^ a b 私市 (2002)、p.255
  7. ^ a b 関 (2008)、p.162
  8. ^ ヒッティ (1983)、pp.394-395
  9. ^ a b c d e f g h i j k 佐藤健太郎 (2008)、p.120
  10. ^ a b c d e 余部 (1992)、p.327
  11. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、pp.119-120
  12. ^ 余部 (1992)、p.325
  13. ^ a b c d e 関 (2008)、p.166
  14. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、pp.120-121
  15. ^ a b c d e 佐藤健太郎 (2008)、p.121
  16. ^ 佐藤健太郎 (2008)、pp.121-122
  17. ^ a b c d e 佐藤健太郎 (2008)、p.122
  18. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、pp.122-123
  19. ^ 那谷 (1984)、pp.194-196
  20. ^ a b c d 佐藤健太郎 (2008)、p.123
  21. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、pp.125-126
  22. ^ 余部 (1999)、p.69
  23. ^ a b c d e f 佐藤健太郎 (2008)、p.126
  24. ^ a b c 佐藤健太郎 (2008)、p.127
  25. ^ 佐藤健太郎 (2008)、pp.126-127
  26. ^ 余部 (1992)、p.334
  27. ^ a b c d ヒッティ (1983)、p.399
  28. ^ ヒッティ (1983)、pp.399-401
  29. ^ a b c 余部 (1992)、p.335
  30. ^ 大内 (2008)、p.259
  31. ^ ヒッティ (1983)、p.400
  32. ^ a b c d e f 佐藤健太郎 (2008)、p.128
  33. ^ ヒッティ (1983)、p.401
  34. ^ ヒッティ (1983)、p.411
  35. ^ ヒッティ (1983)、p.402
  36. ^ a b 大内 (2008)、p.257
  37. ^ a b 大内 (2008)、p.258
  38. ^ 大内 (2008)、pp.258-259
  39. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、p.118
  40. ^ 佐藤健太郎 (2008)、p.113
  41. ^ a b c 佐藤健太郎 (2008)、p.124
  42. ^ a b 佐藤健太郎 (2008)、pp.124-125
  43. ^ 余部 (1992)、p.328
  44. ^ a b c d e 佐藤健太郎 (2008)、p.125
  45. ^ 佐藤健太郎 (2008)、p.123
  46. ^ ヒッティ (1983)、p.424
  47. ^ 余部 (1992)、p.330
  48. ^ ヒッティ (1983)、pp.424-425
  49. ^ ヒッティ (1983)、p.425
  50. ^ 余部 (1992)、p.331
  51. ^ a b c ヒッティ (1983)、p.432
  52. ^ ヒッティ (1983)、p.421
  53. ^ ヒッティ (1983)、p.422
  54. ^ a b c d e 桝屋 (2009)、p.119
  55. ^ ヒッティ (1983)、p.397

参考文献

  • 私市正年 「第3章 西アラブ世界の展開」『西アジア史 1 : アラブ』 佐藤次高編、山川出版社、<新版 世界各国史>8巻、2002年、pp.186-255 ISBN 4-634-41380-9
  • 佐藤健太郎 「第3章 イスラーム期のスペイン」『スペイン史 1 : 古代 - 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、山川出版社、<世界歴史大系>、2008年、pp.70-135 ISBN 978-4-634-46204-5
  • 関哲行 「第4章 カスティーリャ王国」『スペイン史 1 : 古代 - 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、山川出版社、<世界歴史大系>、2008年、pp.136-197 ISBN 978-4-634-46204-5
  • 大内一 「第6章 カトリック両王の時代」『スペイン史 1 : 古代 - 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、山川出版社、<世界歴史大系>、2008年、pp.248-276 ISBN 978-4-634-46204-5
  • 佐藤次高 『イスラーム世界の興隆』 中央公論社、<世界の歴史>8巻、1997年、ISBN 4-12-403408-3
  • ヒッティ, フィリップ・K 著、岩永博 訳『アラブの歴史』 下(初版)、講談社講談社学術文庫〉、1983年。ISBN 4-06-158592-4 
  • 那谷敏郎 『紀行 モロッコ史』 新潮社、<新潮選書>、1984年、ISBN 4-10-600260-4
  • 余部福三 『アラブとしてのスペイン』 第三書館、1992年、ISBN 4-8074-9216-0
  • 余部福三 「第3章 アル・アンダルス」『スペイン学を学ぶ人のために』 牛島信明、川成洋、坂東省次編、世界思想社、1999年、pp.49-70、ISBN 4-7907-0756-3
  • 桝屋友子 『すぐわかるイスラームの美術』 東京美術、2009年、ISBN 978-4-8087-0835-1

関連項目