朝苧社

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朝苧社


朝苧社
(2014年(平成26年)2月)

地図
所在地 愛知県名古屋市緑区大高町東姥神
位置 北緯35度3分49秒 東経136度55分56.7秒 / 北緯35.06361度 東経136.932417度 / 35.06361; 136.932417 (朝苧社)座標: 北緯35度3分49秒 東経136度55分56.7秒 / 北緯35.06361度 東経136.932417度 / 35.06361; 136.932417 (朝苧社)
主祭神 火上老婆霊(ひかみうばのみたま)
創建 不詳
主な神事 祈年祭(3月17日)
新嘗祭(10月17日)
地図
朝苧社の位置(愛知県内)
朝苧社
朝苧社
朝苧社の位置(名古屋市内)
朝苧社
朝苧社
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朝苧社(あさおしゃ)は、愛知県名古屋市緑区にある神社である。熱田神宮境外末社のひとつ。

大高インターチェンジ北緯35度3分34秒 東経136度55分55.22秒 / 北緯35.05944度 東経136.9320056度 / 35.05944; 136.9320056)から直線距離で北に約400メートル、熱田神宮境外摂社である氷上姉子神社北緯35度3分41.7秒 東経136度55分48.97秒 / 北緯35.061583度 東経136.9302694度 / 35.061583; 136.9302694)から直線距離で北東に約300メートルに位置し、「姥神山(うばかみやま)」と呼ばれる標高29メートルほどの小丘陵[1]の奥まったところに小祠としてある。

概要[編集]

祭神として火上老婆霊(ひかみうばのみたま)を祀る[2]

近世史料では「火高里之大老婆(ほたかのさとのたいらううは)」[注 1]、「大老婆公(およなきみ)」[注 2]、近在では「老姥神(うばがみ)様」[2]などいくつかの呼び名で知られる祭神であるが、比定しうる神名は不詳とされ[注 3]、古くから諸説入り乱れた状態にある。

日本武尊からの預かりものである草薙神剣を斎き奉った宮簀媛命(みやすひめのみこと)が老いて世を去った後の御霊であるとも[注 4]、宮簀媛命の母神である真敷刀俾命(ましきとべのみこと)であるとも[注 5]、宮簀媛命の乳母であるともいう[注 6]。『張州雑志』は尾張大印岐の妻、すなわち宮簀媛命の祖母といい[注 7]、『社伝』は東征のために船で伊勢から尾張に上陸した日本武尊を案内した人物(船津神社(愛知県東海市名和町)の祭神という)の妻とする[注 8]。『尾張国吾湯市郡火上天神開始本伝』は大高に古くから住んでいた老婆とし[注 9]、『熱田神籬抄』は地主の神という[注 10]

朝苧の「朝」はの当て字で、「苧(を)」は繊維のことをいう[11][注 11]。氷上山で草薙神剣を鎮守していた宮簀媛命は絶えず神御衣(かんみそ)を織っていたといわれ、衣服女命(みそひめのみこと)という神名も帯びていることから[注 12]、当社は敬婦としての宮簀媛命を奉祀する側面が強い。一方で『氷上山神記』には、大老婆の宿に泊まった際に詠まれた宮簀媛命の歌といわれるものも収録されている[注 13]

上記のごとく乳母という一面もみられるためか、母乳の出ない女性の祈りに霊験があるとされ、近在においては母乳の神としての崇敬も受けている[16]

小史[編集]

創建年は不詳。ただ、1482年文明14年)の『氷上社本社末社神体本地』にその名がみえ[17]1510年永正7年)の祝詞(『朝苧社遷宮祝詞』)も現存することから[18]室町時代中期にはすでに存在していたようである。

江戸時代中頃(1745年延享2年)頃)の『氷上山之図』では天神・山神・山王の小祠を侍らせ、一基の鳥居を擁し、姥神山全体が境内地であったように描かれている[19]。かつては氷上姉子神社の第一摂社ともいわれ[注 14]、数多く存在していた摂社の中でも特に重要視されていたらしく[11]、『朝苧社遷宮祝詞』などに殿舎修繕に対して「星崎ノ御焼塩[注 15]」が供奉されたことを記している[21]。また、古くは4月13日に氷上社の神輿が当社まで神幸し、宮簀媛命が使用したという機具を神前に荘(かざ)る御衣祭(おんぞさい)[22]が執り行われたという[注 16]

姥神山と久米氏[編集]

姥神山は至近にある氷上姉子神社とのつながりが深く、宮簀媛命が老いて身のよりどころを神慮にはかった上で、隠遁した地であるといわれる[注 17]。実際には、日本武尊の東征に付き従い、宮簀媛命の近習として過ごしたのちに氷上姉子神社の初代神官となる久米直七拳脛(くめのあたいななのつかはぎ)を祖とする久米氏の古来よりの本拠地で、山麓から中腹にかけては弥生時代後期のものとみられる土師器古墳時代から奈良時代にかけての須恵器、中世の土器布目瓦が採取されており、姥神遺跡と呼ばれて古代久米氏との関連性がうかがわれるほか[25]、山頂には久米氏の代々の居館跡があり、中世には大高城が築城されるにあたって丸見えになるという理由から北麓に立ち退かされたという伝承も残る[25]。前掲の『氷上山之図』では氷上社の北に「神主 久米氏屋敷」とある場所がそれに該当し、久米氏は2018年(平成30年)現在もこの場所に居を構えている[26]

なお、姥神山の南西麓に位置する姥神公園から南へ30メートルの付近には、久米氏代々の墓所がある(北緯35度3分43.6秒 東経136度55分54秒 / 北緯35.062111度 東経136.93167度 / 35.062111; 136.93167)。かつてこの付近を大高町字屏所(びょうしょ)といったが[注 18]、屏所とは廟所の当て字で、墓所を意味する[28]。『氷上山之図』はこの付近を「真隠(マカクレ)」と記し、「御除地 神主扣之墓所也」とあるが、真隠とは(もがり)とみられる古式の神葬跡を示すという[29]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 『熱田末社尊名記』[3]
  2. ^ 『尾張国地名考』[4]
  3. ^ 「氷上郷大老婆云〻、惜哉、闕名セリ、」(『社伝』[5]
  4. ^ 「美夜受比売薨去後、諸天善神有納受悉皆御成就、於是火高大老婆号事、」(『氷上宮御本起之書紀』[6]
  5. ^ 「或人曰、宮簀媛命ノ母神、尾張ノ大印岐ヲホイミキムスメナリト云ヘリ、」(『熱田問答雑録』[7]
  6. ^ 「宮簀媛命ノ乳母ノ婆歟」(『社伝』[5]
  7. ^ 「或云大老婆尾張大忌寸妻真敷刀婢母而宮簀媛命之祖母乎」(『張州雑志』(巻第二、『氷上宮年中行事』)[8]
  8. ^ 「知多郡名和村船津明神ハ、武尊始玉トキ尾張ニ時、郷導者アンナイシヤノ由、右ノ妻ノ神歟」(『社伝』[5]
  9. ^ ソコニリノ老婆焉、ミツカラナノルレハスムコトヒサシ矣、」(『尾張国吾湯市郡火上天神開始本伝』[9]
  10. ^ 「祭神大高地主ノ神ナリ、」(『熱田神籬抄』[10]
  11. ^ 史料によっては「荢」が使われていることもある(『熱田大神宮尊名祭神記』など[12])。「朝社(あさいもしゃ)」とあったりするのは、純粋に誤謬であろうか[13]
  12. ^ 『尾張国氷上宮正縁起』[14]
  13. ^ 伊弖斯用理いてしより 比多賀能毛理袁ひたかのもりを 目邇加祁留めにかけて 許々呂多能美波こゝろたのみは 袁宇婆那理祁利をうはなりけり」(『氷上山神記』[15]
  14. ^ 『張州雑志』[8]
  15. ^ 「星崎ノ塩」は、鳴海潟(呼続・星崎・鳴海付近に広がっていた遠干潟)で生産されていた塩をいう。江戸時代には「本州前浜の塩」と呼ばれる白塩の名品として知られた[20]
  16. ^ 宮簀媛命みやすひめのみことつね斉服殿いんはたどのにまし〻て神衣かんみそをり給ふ、所謂いわゆる荒妙あらたへ和妙にきたへ金機かなはた鳴声なるこゑたへざるによりほめ申さりて、また御名みなを加へて衣服女命みそひめのみこととも申奉る 毎歳まいさい四月十三日に御衣祭おんぞまつりあり、則末社まつしや朝苧明神あさのをのみやうじんへ氷上の神輿みこし神幸みゆきして女功じよこうおん機具はたぐかざ奉幣ほうへい、其外社例しやれい諸色しよしきそなへ奉り、天下泰平たいへい国家こつか安全あんせん神事しんじあり」(『尾張国氷上宮正縁起』[23]))
  17. ^ 「宮簀媛命老耗みとしをいて退しりぞき給ハん所を神慮に懸させ玉ひて、海畔うみべたはまいでまして、火上ほたか大老婆おほばもとへ入せ給ふ、」(『尾張国氷上宮正縁起』[24]
  18. ^ 2006年(平成19年)11月17日に町名変更が行われるまで[27]。現在は名古屋市緑区大高台3丁目[27]
出典
  1. ^ 『尾張志熱田』:39ページ
  2. ^ a b 『熱田神宮』:32ページ
  3. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:229ページ
  4. ^ 『尾張国地名考』:674ページ
  5. ^ a b c 『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』:282ページ
  6. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:395ページ
  7. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』:104ページ
  8. ^ a b 『熱田神宮史料 張州雑志抄』:672ページ
  9. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:400ページ
  10. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:311ページ
  11. ^ a b 『緑区神社誌』:48ページ
  12. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:328ページ
  13. ^ 『なごやの町名』:637ページ
  14. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:409ページ
  15. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:7ページ
  16. ^ 『大高町誌』:93ページ
  17. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:388ページ
  18. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:439ページ
  19. ^ 『氷上山之図』
  20. ^ 『新修名古屋市史 第2巻』:270-271ページ
  21. ^ 『新修名古屋市史 第2巻』:271ページ
  22. ^ 御衣祭 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮(熱田神宮公式サイト、2019年(令和元年)10月11日閲覧)
  23. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:409-410ページ
  24. ^ 『熱田神宮史料 縁起由緒編』:411ページ
  25. ^ a b 『名和・大高の遺跡』:22ページ
  26. ^ 『ゼンリン住宅地図 愛知県名古屋市緑区』:93ページ
  27. ^ a b 名古屋市緑区の一部で町名・町界変更を実施(平成19年11月17日実施)(名古屋市公式ウェブサイト、2019年(令和元年)10月11日閲覧)
  28. ^ 『緑区の史蹟』:195ページ
  29. ^ 『緑区の史蹟』:108ページ

参考文献[編集]

  • 深田正韶 等編 『尾張志熱田』 愛知博文社、1892年(明治25年)7月30日
  • 『国史大系 第一巻』 経済雑誌社、1897年(明治30年)7月3日
  • 名古屋市役所 『名古屋市史 社寺編』 名古屋市役所、1915年(大正4年)7月10日
  • 大高町誌編纂委員会 『大高町誌』 大高町、1965年(昭和40年)3月20日
  • 熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 張州雑志抄』 熱田神宮宮庁、1969年(昭和44年)6月1日
  • 三渡俊一郎・池田陸介・吉村睦志 『名和・大高の遺跡』 東海市教育委員会、1975年(昭和50年)10月1日
  • 水野時二・林董一・岩崎公弥監修 『なごやの町名』 名古屋市計画局、1992年(平成4年)3月31日
  • 熱田神宮宮庁 『熱田神宮』 熱田神宮宮庁、1997年(平成9年)12月30日
  • 新修名古屋市史編集委員会 『新修名古屋市史 第2巻』 名古屋市、1998年(平成10年)3月31日
  • 榊原邦彥 『緑区の史蹟』 鳴海土風会、2000年(平成12年)10月
  • 熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 縁起由緒編』 熱田神宮宮庁、2002年(平成14年)3月17日
  • 榊原邦彥 『緑区神社誌』 鳴海土風会、2004年(平成17年)12月23日
  • 熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』 熱田神宮宮庁、2005年(平成17年)7月7日