暁征丸

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船歴
建造所 香港
起工 1937年
進水
竣工
その後
主要目
総トン数 750トン[1]
純トン数
排水量
長さ
深さ
機関
出力
速力 12ノット[2]
乗員
兵装 高射砲2門[2]
野砲2門
機関銃1門
爆雷16発
す号機一式
ら号機一式
同型船
備考 400トン[3]または900トン[2]とする資料もあるが、総トン数・純トン数・排水量その他のいずれか不明。

暁征丸(ぎょうせいまる)は、日本陸軍太平洋戦争中に運用した砲艦香港鹵獲した中華民国の未成砲艦を整備して船団護衛に使用した。

船歴[編集]

本船は、蔣介石政権の中華民国の砲艦として、イギリス統治下の香港の九龍ドック英語版で起工された[4][注 1][注 2]。しかし、建造中に太平洋戦争が勃発し、開戦直後の1941年(昭和16年)12月に起きた香港の戦いにおいて日本陸軍によって鹵獲された[7]。日本陸軍は本船を陸軍船舶兵(暁部隊)用の砲艦として使用することを計画し、大阪鉄工所の派遣要員により建造を続行[4]高射砲野砲などの火砲のほか、爆雷や「す号」「ら号」と称するソナーなどの対潜水艦兵装を搭載して竣工させた[2]。船名は「暁征丸」と命名された。船名に「暁」の頭文字が付くのは船舶司令部が直接管理した鹵獲船舶に共通する命名法である[8]。船種は「警備艇」と呼称されている[9]

1942年(昭和17年)11月に、同じく香港で鹵獲された「暁南丸」(東亜海運で運航)の船員を徴用して「暁征丸」の乗員へ充当することになった[9]

1944年(昭和19年)4月上旬、日本陸軍は日本海軍とは別に陸軍独自の護送船団を運航するため、船舶砲兵第2連隊に自衛船隊を新設。「暁征丸」はそのうちの第1護衛船隊へ配備された。第1護衛船隊は本船のほか「錦州丸」(370トン)、「第三警南丸」(50トン)および強力曳船「円島丸」(300トン)・「准河丸」(300トン)で構成された[2]。自衛船隊の兵装を操作する船砲隊員は船舶砲兵第2連隊の第17-19中隊(野砲中隊)と爆雷中隊の人員を主力とし、「暁征丸」の船砲隊長には前田中尉が着任した[3]

本船は同年5月下旬にシンガポールからマニラまで最初の護衛航海を実施した[4]。ついで同年6月頃に、マニラから高雄港貨物船「大倫丸」(大阪商船:6862総トン)を護衛したが、バシー海峡で時化とエンジン故障のため落伍し、後れて目的地へ着いた[7]。同年8月中旬までマニラを拠点にルソン島沿岸での護衛を担当し、8月下旬からはボルネオ島へ移動して同島アピ=サンダカン間航路を3往復した[4]。1944年後半にアメリカ軍のフィリピン反攻が迫るとさらに南へ撤退、その後はジャワ島スマトラ島方面での護衛任務に従事した[4]。例えば1945年(昭和20年)3月24日から4月11日にかけてシンガポール発・パダン経由・ジャカルタ行きの船団を「第3警南丸」と護衛した[10]。同年6月下旬にはスマトラ島東南端バリンビン沖で浮上襲撃してきた敵潜水艦と交戦し、護衛中の800トン級の輸送船を撃沈されてしまった[10]。第1護衛船隊所属船のうち「錦州丸」(南満州鉄道:238総トン)は1944年8月7日にアメリカ潜水艦「セイルフィッシュ」によって撃沈されたが[注 3]、本船は終戦まで沈没を免れた。

1945年の日本の降伏後、本船は連合国軍の指示でジャカルタからレンバン[注 4]への日本兵輸送を担当[4]。その後、オランダ軍によって鹵獲された。「ルイメス」(Hr.Ms. Luymes、音写表記は暫定)と船名を改め観測船(Opnemingsvaartuig)として使用された[12]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本陸軍が香港で拿捕した未成状態の中国艦艇として練習艦「譚綸」があり、総トン数が一致するが同一艦かは明らかでない。同艦は中国政府により税関監視船として発注され1937年(昭和12年)1月に九龍ドックで起工されたもので、中華民国海軍所属の練習艦として使用する予定だったが、工程80%以上進捗の状態で1941年12月28日に日本陸軍により捕獲された。同艦の要目は、総トン数約750トン、純トン数約500トン、主機は三連成レシプロエンジン2700馬力、速力16ノット、航続距離2000海里である[5]
  2. ^ 英語版Wikipediaのバンゴール級掃海艇英語版の項目では、イギリス軍艦「ブリュー」(HMS Beaulieu )として香港で進水し「ランタン」(HMS Lantan )と改名して建造中だった艦の後身がGyosei Maru であるとしているが、同項目では1943年にさらにShima Maru へ改名したとなっており「暁征丸」の日本語資料と整合しない。なお、福井静夫によれば、日本陸軍は香港地区で建造途中のバンゴール級掃海艇を接収した後、「暁辰丸」として完成させ、哨戒任務に使用している[6]
  3. ^ 日本側記録では「錦州丸」の沈没原因は潜水艦の魚雷であるが、アメリカ海軍の公式記録では「セイルフィッシュ」と航空機の協同戦果と認定されている[11]
  4. ^ レンパン島かジャワ島レンバン県インドネシア語版のいずれか不明。

出典[編集]

  1. ^ 海軍省 『海上交通保護用船名簿』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050059300、画像32枚目。
  2. ^ a b c d e 駒宮(1977年)、166-167頁。
  3. ^ a b 駒宮(1972年)、132-133頁。
  4. ^ a b c d e f 駒宮(1972年)、136頁。
  5. ^ 佐世保捕獲検審所 『捕獲事件記録 中華民国海軍練習船 譚綸』 JACAR Ref.A08071220100、画像13枚目。
  6. ^ 福井静夫『日本特設艦船物語』光人社〈福井静夫著作集〉、2001年、273頁。 
  7. ^ a b 吉田董夫 「慟哭の海‐一船舶砲兵の軌跡」『別冊』第19号、潮書房、1991年、83頁。
  8. ^ 駒宮(1972年)、18頁。
  9. ^ a b 「暁南丸ノ使用ニ関スル件」『昭和十七年 陸亜密大日記』第46号1/2、JACAR Ref.C01000712100
  10. ^ a b 駒宮(1977年)、169-170頁。
  11. ^ Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999, pp. 521-522.
  12. ^ Opnemingsvaartuig Luymes (ex Gyosei Maru)”. Nederlands Instituut voor Militaire Historie. 2012年10月6日閲覧。

参考文献[編集]

  • 駒宮真七郎『闘う輸送船団の記録―船舶砲兵第二連隊の記録』駒宮真七郎、1972年。 
  • 駒宮真七郎『船舶砲兵―血で綴られた戦時輸送船史』出版共同社、1977年。 

関連項目[編集]