山本慎一 (実業家)

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山本 愼一(やまもと しんいち、1921年[1]11月[2][注釈 1] - )は、日本実業家馬主繊維の製造・卸売や不動産業を手掛ける三陽株式会社の代表を務めたほか、えりも農場代表、日本馬主協会連合会第9代会長を務めた。和歌山県出身[1]山本 慎一とも表記される。

経歴[編集]

1921年和歌山県出身[1]。幼い頃から乗馬に興じ、国民体育大会にも出場していたという[2]復員後の1947年に繊維問屋を設立し、1950年に三陽株式会社に改組した[1][注釈 2]1981年時点で同社取締役[4]

1970年ブラウスの製造を手掛ける山兼株式会社の社長に就任し、翌年同社の商号を株式会社エリモに変更、1984年に会長となった[1]。繊維業のほか、ゴルフクラブの「エリモゴルフクラブ」などを運営する五場開発株式会社の代表も務めた[5]

1969年には北海道えりも町の田中牧場を買い取り「えりも牧場」(1983年に「えりも農場」、2003年に「エクセルマネジメント」に改称)として再建した[2]

馬主活動[編集]

山本の勝負服

日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は水色、赤袖、黄二本輪、冠名には「エリモ」を用いるほか、かつては「パッシング」という冠名も使用していた[注釈 3]。28歳の時に初めて馬主となり[2]1989年4月には日本馬主協会連合会の会長に就任した(1993年3月まで)[6]

1976年天皇賞・春エリモジョージが制し、八大競走初制覇を果たした。

主な所有馬[編集]

八大競走・GI競走優勝馬[編集]

重賞競走優勝馬[編集]

その他の所有馬[編集]

  • パッシングサイアー(1982年白百合ステークス、菊花賞2着)
  • エリモタイヨー(1982年阪神3歳ステークス3着、1984年エメラルドステークス、短距離ステークス、比叡ステークス)
  • エリモファイナル(2005年紅梅ステークス
  • エリモエクスパイア(2007年天皇賞・春2着、ダイヤモンドステークス2着)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 記事内の「今年11月で90歳になりますが」との記載より。
  2. ^ 三陽株式会社は1974年時点で丸紅の系列会社となっている[3]
  3. ^ 1990年マイルチャンピオンシップなどを勝ったパッシングショットは山本の所有馬ではない。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『全国繊維企業要覧』昭和61年版 西日本編 エの部 大阪 75頁
  2. ^ a b c d 第4回 山本慎一さん”. わたしの勝利. 一般社団法人 京都馬主協会 (2011年8月10日). 2023年3月16日閲覧。
  3. ^ 「『食糧危機時代』に先駆けて牧場経営花盛り――大手企業続々進出で、多種多様の牧場店開き」『実業往来』第275号、実業往来社、1974年11月、76頁。 
  4. ^ 『リクルートブック』大学編 1981 全国版 2186頁
  5. ^ 「豊川カントリー五百八十一万円で正会員募集――ニューキャピタルGC4月11日完工式」『中部経済界:地域の活性化を探究する月刊誌』第36巻第385号、経済批判社・中部経済界、1999年4月、51頁。 
  6. ^ 役員・歴代会長紹介”. 日本馬主協会連合会. 2023年3月16日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『全国繊維企業要覧』昭和61年版 西日本編(信用交換所大阪本社、1985年9月)
  • 『実業往来』第275号(実業往来社、1974年11月)
    • 「『食糧危機時代』に先駆けて牧場経営花盛り――大手企業続々進出で、多種多様の牧場店開き」
  • 『リクルートブック』大学編 1981 全国版(日本リクルートセンター、1980年)
  • 『中部経済界:地域の活性化を探究する月刊誌』(経済批判社・中部経済界、1999年4月)
    • 「豊川カントリー五百八十一万円で正会員募集――ニューキャピタルGC4月11日完工式」
先代
相馬恵胤
日本馬主協会連合会 会長
1989 - 1993
次代
菅浦一