ナチス・ドイツ

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ドイツ第三帝国 から転送)
ドイツ国
大ドイツ国
Deutsches Reich
Großdeutsches Reich




1933年 - 1945年



国旗 国章
国旗 国章
国の標語 : "Ein Volk, ein Reich, ein Führer."
国歌 : ドイツの歌、旗を高く掲げよ
ナチス・ドイツの位置
公用語 ドイツ語
首都 ベルリン
総統
1934年8月2日 - 1945年4月30日 アドルフ・ヒトラー
面積
1937年 633,786km²
人口
1937年 69,314,000人
変遷
ヒトラー内閣成立 1933年1月30日
非常権限の掌握 1933年2月28日
ヒトラー国家元首就任 1934年8月19日
ヒトラー自殺 1945年4月30日
ドイツ降伏 1945年5月8日
通貨 ライヒスマルク

ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党が支配した1933年から1945年の元首制的共和国としてのドイツを指す。

目次

国名

正式な国名は帝政ドイツヴァイマル共和国を通じてDeutsches Reichドイツ国)であった。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国962年1806年)、帝政ドイツ1871年1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国」 (: Drittes Reich: Third Reich) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として第三帝国がより広く知られるようになった。

ドイツによるオーストリア併合以降、民間などの間で「Großdeutsches Reich」(大ドイツ国)の呼称が使われ始めた。1943年6月24日、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースは 公用文書Erlass RK 7669 Eの中ではじめて「Großdeutsches Reich」の用語を用いた[1]。10月24日以降は切手にも「Großdeutsches Reich」の語が印刷された。ただし、正式な国号変更宣言は出されなかった。

ナチスは国家社会主義ドイツ労働者党の蔑称であるが、党が政権をとる前から世界に広く知られていた[2]。このため同党の政権掌握後、英語圏ではドイツを指してNazi Germanyという呼称が用いられた。日本においても昭和8年(1933年)10月27日の大阪毎日新聞には「ナチス独政府」[3]という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の大阪朝日新聞では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付大阪朝日新聞の天声人語でも「ナチ・ドイツ」[4]と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチスドイツ」という語が用いられた[5]

年表

  • 1923年 ミュンヘン一揆。ナチス党は禁止されたが、後継組織が国会議席を獲得。
  • 1928年 ナチス党として初の国政選挙。12議席を獲得。
  • 1930年 この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。
1932年
  • 5月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。
  • 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第一党となる。
  • 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第一党の地位を保持する。
1933年
1934年
  • 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。地方自治が許されていたドイツは一元的な中央集権国家に変貌した。各州の主権はドイツ国に移譲され、州議会が解散され、地方長官(または国家代理官、Reichsstatthalter)としてナチ党幹部が送り込まれた。
  • 6月30日長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。
  • 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。
  • 8月19日 国民投票により、ヒトラーの大統領就任が決定される。ヒトラーは大統領の肩書きは名乗らず、国家元首を兼務し「総統」と呼ばれ、独裁者として全権を担う。
1935年
1936年
1937年
1938年
1939年
1940年
1941年
1942年
1943年
1944年
1945年

歴史

政権掌握

ヒトラー内閣成立を祝って行進する突撃隊。1933年1月30日
ユダヤ人商店にボイコットの張り紙をする突撃隊。1933年4月1日
アンシュルス後、ウィーンでパレードするドイツ軍

ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第一党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。

1933年1月30日、ヒトラーは首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として収容所に収容された。

非常権限掌握

ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日ドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙後の議会では共産党議員を排除した上で全権委任法を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。

1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と国家元首を兼務し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(Der Führer und Reichskanzler)、日本語では総統と呼ばれる。

支配の強化

1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに侵攻した(ラインラント進駐)。同年には国家を威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。

外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を希望していたと言われる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。

領土拡張政策

1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。

この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンチヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。

第二次世界大戦

ポーランド国境の標識を破壊するドイツ軍

詳細は「西部戦線 (第二次世界大戦)」を参照

詳細は「ポーランド侵攻」を参照

ヒトラーはダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の1939年9月1日ドイツ軍ポーランドへ侵攻した。ヒトラーは、イギリスフランスは参戦しないだろうと高をくくっていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いてまったく生じなかった。西部戦線におけるこの状態は翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。

アルデンヌの森を通過するドイツ軍戦車1940年5月

詳細は「ナチス・ドイツのフランス侵攻」を参照

1940年の春には、ドイツ軍はデンマークノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。

イギリスを除く西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線バルカン半島戦線に部隊を派遣。バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。

詳細は「独ソ戦」を参照

パリで捕虜となったドイツ軍将校。1944年8月26日

そして、1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となりヒトラーが当初もくろんだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「生存圏Lebensraum を東方に拡張する目的であったが、「ボルシェヴィズムからヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。

日本軍による真珠湾攻撃の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦でスターリングラードまで進出した。しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅(せんめつ)されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島連合軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、イタリア戦線が開始された。

ベルリンのウンター・デン・リンデンに掲示されたスターリンの肖像。1945年7月3日

1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月にはヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニアブルガリアフィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。

各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗。1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、30日にヒトラーは総統官邸地下壕で自殺した。ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が大統領となった(フレンスブルク政府)。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月8日、ドイツは正式に連合国に対し無条件降伏した。ナチス党は事実上崩壊しており、ここにナチス政権下のドイツは終わりを告げることとなった。

ナチス・ドイツの思想

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ナチスはアーリア人種こそが世界を支配するに値する人種と信じ、その中でも容姿端麗で知能が高く、運動神経の優れた者が最もアーリア人種的であるとされた。ハインリヒ・ヒムラーはこのアーリア人的な特徴を持った人間に対し自由恋愛を推奨し積極的に交配を行わせた。このアーリア系人種との間に生まれた子供を育て上げる組織はレーベンスボルン(生命の泉)と呼ばれ、増殖計画によって作られた子供は親元からすぐに引き離された。また頭脳の優れた超人こそが大衆を支配すべきだと信じられ、超人を生み出すために数々の人体実験を行った[6]。逆にユダヤ人の血は最も劣った病原菌とみなされていた。これらの思想が断種法ホロコーストに繋がったのである[7]

政治

政治機構

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ドイツには帝政時代からの伝統を持つ官僚機構が存在したが、ナチス党は政権獲得後、党の幹部を官僚機構の中枢に入れることで官僚機構を掌握した。また、党の組織である親衛隊や各部局が公式な政治機関に昇格し、党と国家は一体化した。

対外政策

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経済政策

アウトバーン
ベルリンオリンピックの開会式に参列するヒトラー

1933年2月1日、ヒトラーは4年以内にナチ党の初期からの支持層で国家生存に重要な役割を果すドイツ農民を救い、「経済再建と失業問題の解決」を実現し、「二つの偉大な四カ年計画de))によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。しかし、自身が「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである[8]」と言っているように、ヒトラーは『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎かったが[9]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。

ヒトラーは1923年インフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトを経済大臣に迎えた。シャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるクルト・フォン・シュライヒャーの計画を継承し、公共土木事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。

一方でヒトラーはドイツ再軍備のために300億マルクの支出を要求した。シャハトは金属調査会社(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というダミー会社を作り、この会社にドイツ帝国銀行が保障する手形を発行させる方式で再軍備の資金を調達した[10]。このメフォ手形en)の発行でインフレを伴わない資金調達が可能となったが、政府に見えない負債を膨大に抱えさせる結果となった。

一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(Grossraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言する。

外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングの第二次四カ年計画 (Four Year Plan) を支持した。シャハトは猛反対したため、ゲーリングらは経済省から独立した四カ年計画庁を創設する。第二次四カ年計画により、1937年には人員需要が失業者を上回り、ほぼ完全雇用が達成された[11]。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。

このためドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。1944年には軍事費は当時のヨーロッパでは最高で、ドイツ経済のほとんどを占めた。1945年に戦争経済は敗戦と同時に崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。

自動車政策

カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(フォルクスワーゲンの車が大衆に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。

農業・食糧政策

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1933年9月に食糧農業相にリヒャルト・ヴァルター・ダレが就任して以降、ドイツの農業にも統制の手が入った。9月12日にはライヒ食糧団de:Reichsnährstand)が結成され、ナチス党の農業全国指導者でもあるダレが農業組合、生産者、加工精製業者、取引業者間の利害調整を行うことになった。9月23日にはライヒ農場世襲法が制定され、農民の所有地を『世襲農地』として認定し、譲渡・負担設定・賃貸を禁止した。またこの中で農民(Bauer)はドイツ国籍を持ち、ドイツ民族もしくは同等の血統を持つことを要求された。これはダレの提唱した『血と土』(de:Blut-und-Boden-Ideologie)理論に基づくものであり、農民は世襲農地から離れることが出来なくなった[12]

軍事

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プロパガンダ

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治安政策

1933年に政権につくとともに、ヒトラーはプロイセン州内相に党の最有力幹部であるヘルマン・ゲーリングを任じた(のちプロイセン州首相)。ゲーリングは就任後ただちにプロイセン州警察に政治警察ゲシュタポを設置した。ゲシュタポには「予防保護拘禁」と称してその場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕して強制収容所へ送れる権限が与えられた。プロイセンはドイツの国土の半分以上を占める巨大州であり、広範な国民がゲシュタポの猛威にさらされることとなった。

しかしまもなくヒトラーは長いナイフの夜事件での速やかな粛清実行やバイエルン州で徹底した反体制取り締まりをしたハインリヒ・ヒムラー親衛隊(SS)を高く評価するようになり、中央集権化とあわせて各州の警察権力をヒムラーの下で一元化しようとした。ゲーリングのゲシュタポの指揮権もヒムラーに譲渡させた。ヒムラーは1936年に内相ヴィルヘルム・フリックより全ドイツ警察長官に任じられた。

ヒムラーはまずドイツ警察を一般警察業務を司る秩序警察と政治警察業務を司る保安警察に分離させ、秩序警察をクルト・ダリューゲ、保安警察をラインハルト・ハイドリヒにそれぞれ委ねた。さらにハイドリヒは保安警察と親衛隊諜報組織SDを統合して親衛隊内部に国家保安本部を立ち上げた。国家組織であるはずの警察がナチス党に吸収された瞬間であった。国家保安本部には長官ハイドリヒ以下、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)、アルトゥール・ネーベクリポ局長)、オットー・オーレンドルフ(SD国内諜報局長)、ヴァルター・シェレンベルク(SD国外諜報局長)など悪名高い政治警察幹部の名がずらりと並ぶ。国家保安本部は日夜国民を監視していた。1941年にゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなった。

ザクセンハウゼン強制収容所の囚人たち(1938年12月19日)

ヒムラーとハイドリヒはドイツ国内・併合地・占領地を問わず各地に強制収容所を設置させた。政権掌握直後の1933年にははやくもバイエルン州でダッハウ強制収容所が設置され、さらに1936年にはベルリン北部にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にはヴァイマール郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が設置されている。その後も続々と収容所が建てられた。

第二次世界大戦の際に占領した地域にも強制収容所が立てられ、ポーランドに建てられた収容所のなかにはホロコーストのための絶滅収容所も置かれていた。特にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所などが絶滅収容所として著名である。また戦時中のドイツ占領地域の治安維持組織としては「アインザッツグルッペン」(特別行動部隊)があった。国家保安本部長官ハイドリヒの提唱で創設され、ドイツ軍前線部隊の一つ後方にあってパルチザンの温床とされた「政治的敵」の銃殺していた部隊である。確かに一面ではパルチザン(ゲリラ)狩りの側面もあったが、国家保安本部への銃殺報告書に「ユダヤ人」などと人種を理由にした項目が設けられているため、一般にはただのゲリラ掃討部隊とは認められていない。ホロコーストの一翼を担う部隊であったとされている。

1943年にヒムラーは内相に就任し、名実ともにドイツ警察の支配者となった。ヒトラー暗殺未遂事件の際にもヒムラーが鎮圧者となった。破局の瞬間まで可能な限りドイツの治安維持にあたっていた。

ナチス刑法

初期ソビエト刑法に極めて類似した、罪刑法定主義を排除した刑法。ナチス刑法は意思刑法・行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と贖罪を犯罪者に対して要求する。犯罪者は、「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を有しているという理由により、反抗的人格を形成したことに対する報復を国家から受ける。後に西ドイツ基本法において罪刑法定主義が明記された理由の一つである[13]

社会政策

ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調していた。このため人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。優秀なドイツ人を具現化するためとしてスポーツを推進し、また禁煙運動にも力を入れた。また芸術面では抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。

迫害

収容所で使用された、囚人別バッジの表

ナチスはユダヤ人ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者障害者など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。

ユダヤ人・ロマ迫害政策

落書きされたユダヤ人経営の商店(1933年4月)
「水晶の夜」で襲撃されたユダヤ人経営の商店(1938年)

1935年9月15日のニュルンベルク党大会でヒトラーはニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「国家公民法」)を公布した。この中でユダヤ人を公職から追放し、企業経営を禁止し、アーリア人との間の結婚や性交を禁止し、ユダヤ人の公民権も否定することが明記した。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。

各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。

またニュルンベルク法では対象とされなかったが、ロマ(ジプシー)に対する迫害もはじまり、1935年にはフランクフルト市がジプシー用の収容所を設置。1936年にはドイツ内務省が「ジプシーの災禍と戦うためのガイドライン」を制定し、以降ジプシーの指紋と写真を撮ることと定めた。1937年には親衛隊(SS)も「ジプシーの脅威と戦うための全国センター」をもうけて同センターにジプシーの定義をするよう指示を出した。1935年ニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどのユダヤ人はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。1938年11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「水晶の夜」(Kristallnacht、クリスタルナハト)と呼ばれた。1939年9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。

1938年7月5日にはアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトの発案で、スイスのエヴィアンで32カ国によるドイツから逃れてくるユダヤ人難民保護の件が話し合われた(エヴィアン会議)が、各国はすべてユダヤ人の自国への受け入れには後ろ向きであった。これについてアドルフ・ヒトラーは「こうした犯罪者ども(ユダヤ人)に深い悲しみを寄せる諸国はせめてその同情を実際的な援助に向けてほしい。そうした諸国にこの犯罪者どもをくれてやる。お望みとあれば豪華客船で送ってやろう。」と述べ、ユダヤ人に同情する言を述べながら引き取ろうとしない欧米各国の偽善的態度を批判した。

1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策がさらに本格化してゆく。

障害者への迫害

1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病アルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4 安楽死プログラムによって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」Herrenvolk とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。

ホロコースト

詳細は「ホロコースト」を参照

大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。ラインハルト・ハイドリヒの監督下、1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終解決策」Endlösung der Judenfrage が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者身体障害者スラブ人政治犯エホバの証人を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」Endlösung という用語を使用した。

ナチスとバチカン

コンコルダート調印時のピウス12世とパーペン。1933年7月20日

ナチス党の政権獲得後のドイツではカトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となっていた。これを終止させるため、ローマ教皇庁1933年7月20日にドイツ政府とコンコルダート(政教条約 Reichskonkordat1933)を締結した。この条約にはバチカンの国務長官を務めたパチェッリ枢機卿とドイツ副首相フランツ・フォン・パーペンが署名した。

ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。

第二次世界大戦直前にパチェッリは教皇ピウス12世として即位した。ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害等の戦争犯罪に対して沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。しかし後の調査により、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国ルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことや、ドイツのイタリア占領時に多くのユダヤ人の亡命を手助けしたことが明らかになった。このため、ピウス12世はイスラエル政府から諸国民の中の正義の人に認定されている。また、教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。

戦後

ニュルンベルク裁判

ポツダム会議によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、オストプロイセンについては半分はソ連に併合された。チェコスロバキアユーゴスラビアルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後(連合軍軍政期)、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国となり、東側のソ連占領地域は共産主義ドイツ民主共和国になった。

残されたヘルマン・ゲーリングヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判ニュルンベルク継続裁判で裁かれることになった。また、独立回復後の西ドイツ政府により非ナチ化裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールなどが裁かれた。

また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていたココ・シャネルなど、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらはサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターによって追求が行われ続けている。

すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。

ナチス・ドイツの武力組織

ナチス・ドイツ時代のドイツの軍旗 (Reichskriegsflagge)

正規軍

詳細は「ドイツ国防軍」を参照

ナチ党軍事組織

準軍事組織

警察組織

  • 政治警察部門 (国家保安本部, RSHA, Reichssicherheitshauptamt)
    • 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei)
    • 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS)
  • 一般警察部門

政治結社

  • 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)

ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品

  • オリンピアOlympia(第1部:『民族の祭典』 - Fest der Völker (Olympia Teil I) /第2部:『美の祭典』- Fest der Schönheit (Olympia Teil II)(1938年、ドイツ映画):1936年のベルリンオリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。レニ・リーフェンシュタール監督作品。
  • 我輩はカモである』 - Duck Soup(1933年、アメリカ映画):チャップリンキートンと共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、マルクス兄弟による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。
  • 独裁者』 - The Great Dictator(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「赤狩り」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。
  • サウンド・オブ・ミュージック』 - The Sound of Music(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下のオーストリアを舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。修道女マリアが音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『ドレミのうた』は、この映画が発祥。
  • 地獄に堕ちた勇者ども』 - La caduta degli dei(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清(長いナイフの夜事件)とナチスによるルール地方の鉄鋼王一族の退嬰を描いたルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作。ヴィスコンティに重用されたヘルムート・バーガー主演。
  • 特別な一日』 - Una Giornata Particolare(1977年、イタリア・カナダ合作映画)
  • インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 - Indiana Jones and the Last Crusade(1989年、アメリカ映画)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年、アメリカ映画):いずれもスティーヴン・スピルバーグの作品で、大いなる力を宿す聖杯聖櫃を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。
  • 戦場のピアニスト』 - The Pianist(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)
  • ブリキの太鼓』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):ギュンター・グラス原作。第一次世界大戦後の国際自由都市ダンツィヒを舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。
  • ライフ・イズ・ビューティフル』-(1998年、イタリア):ロベルト・ベニーニ主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。
  • 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):ルイ・マル監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。

ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧も参照のこと。

脚注

  1. ^ Erlass RK 7669 E ウィキメディア・コモンズ
  2. ^ 日本においても昭和7年(1932年)9月29日付の中外商業新報の「ドイツ社民の統制経済案 ナチス案に対抗」という記事でナチスの語が用いられている。
  3. ^ 神戸大学 電子図書館システム神戸大学附属図書館新聞記事文庫
  4. ^ 新聞記事文庫 : 大阪朝日新聞 1936.5.31
  5. ^ 新聞記事文庫:東京朝日新聞 1943.1.11神戸大学附属図書館新聞記事文庫
  6. ^ ヒトラーの側近たち 「ヨーゼフ・メンゲレ -死の天使-」より
  7. ^ ナチスドイツ支配民族創出計画 キャトリーン・クレイ マイケル・リープマン著 (ISBN 978-4768467152
  8. ^ Hans-Joachim BraunのThe German Economy in the Twentieth Century;Routledge 1990 p.78
  9. ^ ヒトラーの経済学別宮暖朗公式サイト第一次大戦
  10. ^ 児島、第1巻
  11. ^ 外部リンク、川瀬、25P
  12. ^ 外部リンク、鈴木直哉論文
  13. ^ 山中敬一 /刑法I /32P

文献

  • アドルフ・ヒトラーMein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung』、1925年、ドイツ(邦訳:わが闘争(上)I民族主義的世界観)
  • アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung』、1927年、ドイツ(邦訳:わが闘争(下)II国家社会主義運動)
  • 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年
  • 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年
  • 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
  • トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』、 (2002年、ドイツ)
  • ヨアヒム・フェスト『ヒトラー最後の12日間(原題:Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches)』、(2002年、ドイツ)
  • ウワディスワフ・シュピルマン戦場のピアニスト(原題:THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45)』、(1999年、イギリス)
  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫) 全10巻

関連項目

外部リンク

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