トラヴァンコール王国

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トラヴァンコール王国
തിരുവിതാംകൂര്‍
1729年 - 1947年 インド連邦 (ドミニオン)
トラヴァンコールの国旗 トラヴァンコールの国章
(国旗) (国章)
トラヴァンコールの位置
トラヴァンコール王国の領域
公用語 マラヤーラム語
首都 パドマナーバプラムトリヴァンドラム
元首等
1729年 - 1758年 マールーンダ・ヴァルマ
1758年 - 1798年 ダルマ・ラージャ
1931年 - 1947年 バララーマ・ヴァルマ2世
変遷
成立 1729年
インドへ併合 1947年

トラヴァンコール王国(とらう゛ぁんこーるおうこく、英語:Kingdom of Travancore )は、18世紀初頭から20世紀半ばにかけて、南インドケーララ地方南部に存在したヒンドゥー王朝1729年 - 1947年)。首都はパドマナーバプラム、トリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム)。

歴史[編集]

建国[編集]

トラヴァンコール王国の成立は18世紀初頭であるが、その王家であるヴェーナード家は、12世紀初期頃からケーララ地方南部のクイロンを中心に存在した(のちにパドマナーバプラム(現タミル・ナードゥ州の都市)に拠点を移した)。

王家の起源は不明な点が多いが、一説によると、チェーラ朝最後の王ラーマ・ヴァルマ・クラシェーカラが、ヴェーナード家の創始者とする説がある。

1102年にチェーラ朝がチョーラ朝に滅ぼされた後、北部はコーチン王国英語版が成立したが、この地域は統一がない時期が何世紀も続き、パーンディヤ朝ホイサラ朝ヴィジャヤナガル王国などの圧迫を受けた。

18世紀初頭、ヴェーナード家のマールターンダ・ヴァルマが、ケーララ地方南部に割拠した付近の領主を統一して、1729年にトラヴァンコール王国を建国した。

マールターンダ・ヴァルマの治世とオランダとの争い[編集]

コラチュルの戦い(オランダ側が降伏している)

マールターンダ・ヴァルマ(在位1729 - 1758)は即位と同時に、首都パドマナーバプラム近くのトリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム)にある、ヴェーナード家の守護神ヴィシュヌを祭るパドマナーバ・スワーミー寺院の大改修を行い、1556年以降着工されていなかった門に、ヴィジャヤナガル・ナーヤカ様式を取り入れて5重の段階にした(次王の時代にはさらに2段加えられた)。

マールターンダ・ヴァルマは、行政の中央集権化を図り王権を強化し、オランダ勢力が当時この地域に進出してきたが、1741年8月10日コラチュルの戦いでこれを破った(とはいえ、オランダとの争いは、1753年8月15日に和平条約が締結されるまで続いた)。

また、1750年、マールターンダ・ヴァルマは、ティルパディダーナムの儀式を行い、全ての領土を守護神に捧げ、自らは神の下僕として国を治めることとした。

タルマ・ラージャの治世と藩王国化[編集]

1758年7月7日、マールターンダ・ヴァルマは死に、息子の ダルマ・ラージャ[1] (在位1758 - 1798)が後を継いだ。

ダルマ・ラージャの治世は長く、内政面では、宰相ケーシャヴァ・ピッラの活躍により、アーラップラ(アレッピーとも)のジャングルが海外交易港へと開発され、マラヤーラム語の復興も行われ、文学、舞踊、演劇、絵画、建築も栄え、パドマナーバプラムの宮廷を彩った。

また、コーチン王国ともよく争い、1756年から1757年にかけては大規模な戦闘も起き(コーチン・トラヴァンコール戦争)、この争いは1761年12月23日に和平条約が締結されるまで続いた。

しかし、1767年以降、マイソール王国ハイダル・アリーのケーララ侵略があり、トラヴァンコール王国はマイソール王国の侵略を受けることなり、1774年にはトラヴァンコール王国は家臣として貢ぐことを迫られたが、カルナータカ地方政権の家臣であることを理由に拒否した。

その息子ティプー・スルタン もケーララ地方を侵略し、1789年12月の侵攻の際、ダルマ・ラージャはイギリスに援助を求め、翌1790年初頭から第3次マイソール戦争が勃発した。

その結果、トラヴァンコール王国は、マイソール戦争でイギリスに味方し、第3次マイソール戦争終結後、1795年には軍事保護条約を結ばされ、イギリスに従属する藩王国の地位に落とされた。

なお、同年にダルマ・ラージャは、首都をパドマナーバプラムからトリヴァンドラムへと遷都し、1798年2月17日に死亡した。

イギリス統治下とインド併合[編集]

トリヴァンドラムにある藩王の宮殿

イギリスの保護下のち、トラヴァンコール王国は藩王国として存続を許されたが、藩王バララーマ・ヴァルマ1世(在位1798 - 1810)の治世には、1805年にふたたび軍事保護条約が結ばれ、イギリス東インド会社の軍の駐留費の支払も増額させられた。

1807年12月にイギリスは、トラヴァンコールに滞納分の駐留費を支払うように求めたものの、トラヴァンコール側が拒否したため、これに連動して反乱が起きたが、1808年1月に反乱軍が敗れ、藩王国も鎮圧に協力させられ、反乱は沈静化していった(トラヴァンコール戦争)。

トラヴァンコール藩王国の国内では、平均識字率や社会発展の面おいて、イギリス領インドより進んでおり、かなり近代的かつ能率の高い行政を行っていたことで知られ、すでに1834年には、インド最初の英語学校がおかれ、この学校は1964年までは学費の負担がなかった。

だが、1924年から1925年、女藩王セーツ・ラクシュミー・バイイ(在位1924 - 1931)のとき、ケーララのインド国民会議派により、ヴァイカムの寺院を囲む公道を不可触賤民に開放する非暴力運動(ヴァイカム・サティヤーグラハ)が起き、ガンディーの調停で、トラヴァンコール藩王国の政府は、一部を除き寺院につながる道を不可触賤民に開放するなど、身分差別や宗教的には問題があった。

最後の藩王バララーマ・ヴァルマ2世(在位1931 - 1947)は、1947年6月3日インドパキスタンが分離独立すると発表されたとき、インドとパキスタンのどちらにも属さず、トラヴァンコール藩王国が独立した国家となることを臨んだが、結局インドに帰属を決めた。

同年8月15日インド・パキスタン分離独立が行われると、トラヴァンコール藩王国はインドに併合されることとなり、のちにコーチン藩王国の領土と合わせて、ケーララ州となった。

歴代君主[編集]

  • マールターンダ・ヴァルマ(Marthanda Varma, 在位1729 - 1758)
  • ダルマ・ラージャ(Dharma Raja, 在位1758 - 1798)
  • バララーマ・ヴァルマ1世(Balarama Varma I, 在位1798 - 1810)
  • ゴウリー・ラクシュミー・バイイ(Gowri Lakshmi Bayi, 在位1810 - 1815)
  • ゴウリー・パールヴァティー・バイイ(Gowri Parvati Bayi, 在位1815 - 1829)
  • ラーマ・ヴァルマ2世(Rama Varma II, 在位1829 - 1846)
  • マールターンダ・ヴァルマ2世(Marthanda Varma II, 在位1846 - 1860)
  • ラーマ・ヴァルマ3世(Rama Varma III, 在位1860 - 1880)
  • ラーマ・ヴァルマ4世(Rama Varma IV, 在位1880 - 1885)
  • ラーマ・ヴァルマ5世(Rama Varma V, 在位1885 - 1924)
  • セ-ツ・ラクシュミー・バイイ(Sethu Lakshmi Bayi, 在位1924 - 1931)
  • バララーマ・ヴァルマ2世(Balarama Varma II, 在位1931 - 1947)

脚注[編集]

  1. ^ ダルマ・ラージャの本名は、ラーマ・ヴァルマだが、一般的にはこの名で知られる。

参考文献[編集]

  • 「新版 世界各国史7 南アジア史」山川出版社 辛島 昇
  • 「世界歴史の旅 南インド」山川出版社 辛島昇・坂田貞二
  • 「近代インドの歴史」山川出版社 ビパン・チャンドラ

外部リンク[編集]