ダモ鈴木

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ダモ鈴木(だもすずき、本名・鈴木健二<すずきけんじ>、1950年1月16日-、神奈川県出身)は旧・西ドイツの前衛的ロックグループ、カン(CAN)のボーカリストであったことで知られるミュージシャン歌手である。ドイツ在住で世界的に活躍している。

概要・人物[編集]

ダモ鈴木は、主に元・カン(CAN)のボーカリストとして世界的に有名だが、1990年代以降は一貫してセッション・スタイルで世界各国をツアーしながら、現地のさまざまなジャンルのミュージシャンバンドと積極的な活動を行っており、インスタント・コンポージングと呼ばれる独自の即興的歌唱法で、楽譜もリハーサルもなしに行うライブ・パフォーマンスのスタイルを確立している。

カン(CAN)自体は、一般に日本ではサイケデリック・ロッククラウト・ロックに分類されるものの、ダモの活動や音楽は、一定のジャンルにおさまりきらないものであり、ロックパンクジャズノイズ・ミュージックエレクトロニカテクノヒップホップなど、さまざまなジャンルのアーティストたちからリスペクトを受けている。特に知られるところでは『I Am Damo Suzuki』という曲を発表しているザ・フォール、ダモのヴォーカルが収められた『Sing Swan Song』をサンプリングしたカニエ・ウェストなどが挙げられる。近年ではマーズ・ヴォルタのギタリストのオマー・ロドリゲス・ロペスと競演し、コラボレート作"Please Heat This Eventually"を作成するなど近年のアーティストとも積極的に活動している。

一方1960年代から1970年代にかけての国際派日本人ヒッピー世代を象徴する人物として、その自由奔放でアナーキーな行動をはじめとする、数々の伝説を持つカリスマ的存在でもある。 インターネットが普及するまで、CANでの活動期間中に撮られた写真やライブ映像など、資料は数少なく謎の存在であった。

経歴[編集]

ダモ鈴木の出発点は、音楽家やアーティストと言うよりも、自由の境地を求めるボヘミアンヒッピーとしての生き方とリンクしたものであった。1960年代後半には新宿ヒッピーフーテン)生活を経験、当時14歳で、「最年少フーテン」とも呼ばれていた。また、当時のダモは、ジャズジェームス・ブラウンキンクスなどのファンだった。特にキンクスに関しては私設ファンクラブを主宰していた[1]

高校中退後の1960年代後半、単身日本を飛び出し、単身アメリカへ密航。以後、ヒッピーとして世界各地を単独放浪。アメリカ25州を経て東南アジア諸国を回り、ヨーロッパへと渡り、ギターの弾き語りをしながら放浪の旅を続けた。海外放浪をしようと思ったきっかけについて、ダモ自身は元から地理好きだったこと、厚木基地の近くで育ったことを要因として挙げている[1]

その際、金の無かった彼は、ヨーロッパの新聞に「パトロン募集」の広告を出し、物好きな金持ちが暫く彼の世話をすることとなる。その生活にも飽き、ヨーロッパではダモ鈴木は、路上でギターの弾き語りをしていたが、当時はギターのコードも三つほどしか知らず、曲もすべて即興で演奏していた(これが後のヴォーカル・スタイルの発端となる)[1]。そして、人目を惹くため、長髪に火を点けたり、裸になったりといった、奇行の数々を繰り返し,ヨーロッパ各地を放浪していた。ダモ鈴木の名前は、森田拳次の漫画、「丸出だめ夫」に由来する。何をやってもうまく行かない漫画の主人公に自分を重ね合わせ、当初は、「だめ夫鈴木」と名乗っていたのだが、ヨーロッパの人々には、「だめ夫」は発音しづらく、いつの間にか訛って「ダモ」になったと言う。

当時のカン(CAN)のライブスタイルは、地方であろうが24時間以上連続で演奏を続け、演奏中に交代制で仮眠と食事を行い、また演奏に戻るというものだった。(例えば、「ユー・ドゥー・ライト」はアルバムでも20分超だが、ライブだと即興演奏により数時間に及んだという。)1970年4月、ライブ最中のカフェでの雑談で、カン (CAN)を脱退したマルコム・ムーニーの次のボーカルをどうするか?という相談を、ライブ中ながら小休止中のホルガー・シューカイヤキ・リーベツァイトが行っていた。既に何度もオーディションを行っていたが、なかなか理想的な人材が見つけられなかった(それも「歌が上手すぎる」という理由による)。

そんなある日、ミュンヘンでのライブの小休止中に、路上でギターを弾きながら奇声をあげていたダモ鈴木を、シューカイとリーベツァイトが発見。ダモはその時ミュージカル『ヘアー』出演のためミュンヘンに滞在していたが、それにも飽きて街頭に飛び出していたのだという[1]。ダモ鈴木は即日採用され、ライブに登場させられた。この時、当時のドイツ情勢を背景とした観客同士の乱闘騒ぎが発生し、数十人が警察に連行されるという騒ぎになる[2]。しかし、バンドとして、この結果は大満足であり、これ以降ダモは正式なメンバーとして迎えられる事になる。しかし、ダモ自身はカン (CAN)の音楽に興味も持っておらず、偶発的な出会いによって参加したにすぎなかった。この出会いについてダモ自身は「年寄りみたいな人ばっかりで変なバンドだなって思ったよ」と語っている。[3]

ダモは以後、1973年まで在籍し、カンの全盛期を支える大きな力となった。とくに、即興的で型にとらわれないダモの歌唱法は、カンのサイケデリックな音楽によく合致し、他のボーカリストには見られない、類い希なフリークでアナーキーなフィーリングを生み出した。また日本語による歌詞を配置した楽曲も少なくない。

1973年にバンドを脱退したが、リハーサル中に突然奇声を上げて飛び出していったと伝えられている。ただしダモは脱退の経緯、理由について積極的に語ろうという意思は持っておらず、いきさつを含めた事情については判然としない[4]

一時ダモはエホバの証人に入信し、その教えにより、音楽の世界から身を引き、現地でサラリーマンを勤めた。

ガン治療に於いても輸血を拒否した事で体重が激減し、ガン再発によって更に激減。その時の体重は30kg代とも言われている。

1983年、音楽活動を再開し、ドンクルツィッファーやヤキ・リーベツァイトのファントムバンドに参加。1990年代以降、現在に至るまで、世界各国のさまざまなジャンルのミュージシャンやバンドとセッションをするダモ鈴木ネットワークで活動している。来日時には、YMO細野晴臣とラジオの生放送で大喧嘩を行った。

近年ではマーズ・ヴォルタのギタリストのオマー・ロドリゲス・ロペスのOmar Quintet のライブにも参加し、2007年にはオマーとのコラボレートEP "Please Heat This Eventually"を発表している。

インスタント・コンポージング[編集]

ダモ鈴木は自分の独自の歌唱スタイルを現在このように呼んでいる。これは、フリージャズなどに見られる、即興ではあっても予定調和的な部分が大きい「即興演奏」と区別するために、ダモ自身が提唱しているオリジナル・スタイルであり、とくにダモ鈴木ネットワーク・シリーズにおいては、全く何のリハーサルも行わず、ミュージシャン同士の直感的セッションによって引き起こされ、次第に構築されていくアンサンブルや楽曲、すなわちサウンド、バイブレーションを主体とした考え方から来ている、独自なものと考えられる。そのため歌詞や音程はあってないようなもので、日本語・英語・ドイツ語とゆかりのある言語のどれでもない不定形の歌唱によって、文字通りその場のインスピレーションでコンポーズされる。

参考文献[編集]

  • 『Remix』2005年9月号「特集・カン伝説」(文芸社
  • 『レコードコレクターズ増刊 サイケデリック&エクスペリメンタル』(ミュージック・マガジン社)
  • 『クロスビート』2011年12月号「ジャーマン・ロックの世界」(シンコーミュージック・エンタテイメント

注釈[編集]

  1. ^ a b c d 『クロスビート』118ページ。
  2. ^ このライブの観衆の中に、デヴィッド・ニーヴンがいた(『Remix』26ページ)。
  3. ^ 『サイケデリック&エクスペリメンタル』254ページ。
  4. ^ 例えば『Remix』33ページでは「なんとなく。飽きちゃったんだよね」とのみ答えている。

外部リンク[編集]