コルッチョ・サルターティ

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コルッチョ・サルターティ
生誕 Lino Coluccio Salutati
1331年2月16日
イタリアの旗 イタリアブッジャーノ
死没 1406年5月4日(満75歳没)
フィレンツェ共和国
影響を受けたもの キケロ
フランチェスコ・ペトラルカ

リーノ・コルッチョ・サルターティイタリア語: Lino Coluccio Salutati1331年2月16日 - 1406年5月4日[1])は、ルネサンス期イタリア政治家人文主義者(ヒューマニスト)。

1375年から亡くなる1406年までフィレンツェ共和国書記官長を務めた[2]。同国出身の詩人フランチェスコ・ペトラルカ弟子[2][3]、当時の人文主義者を保護してフィレンツェを人文主義運動の発信地に成長させた[4]

公文書の記述に古典ラテン語修辞法を導入し[5]1397年頃にギリシャ文人マヌエル・クリュソロラスを招聘してフィレンツェでギリシア語を教えさせるなど[4]、約30年に渡ってイタリアに於けるルネサンス(古代文化の復興)に尽力したとして名高い[5]

代表的な著作に、1400年頃に著された『専制君主論 (De tyranno)』があり、これは同国出身の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ君主論』を先駆けた作品として名高い[4]。また、サルターティがフィレンツェ学者へ宛てた古典ラテン語手紙は、その洗練された文章で知られる。サルターティは「Scimmia di Cicerone」と称される他[6]、同国出身のカトリック枢機卿ミラノ僭主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ (大司教)英語版から「サルターティの筆は、1000人の騎兵に等しい」と評された[3][7]

生涯[編集]

1331年2月16日、イタリアのブッジャーノ(現: トスカーナ州ピストイア県)に生まれる。サルターティはギベリン皇帝派)から追われている亡命先であったボローニャで学んだ。ブッジャーノはその後フィレンツェ共和国の一部となり、安全になったため、家族でブッジャーノに戻った。

フィレンツェ共和国の公証人として務め、多くのイタリアの都市を回った。公証人として働く傍ら、文学研究も行い、同国出身の人文主義者であるボッカッチオフランチェスコ・ネッリ英語版と出会った。

1367年教皇領であったトーディの書記官長に就任する。翌年1368年から1370年まで教皇領秘書を務めていたフランチェスコ・ブルーニ ( Francesco Bruni) と共にローマに行き、ローマ教皇ウルバヌス5世アヴィニョンからローマに戻る際の助手を務めた[8]

1370年には教皇庁のつながりでルッカ共和国英語版でも書記官長を務めた[7]が、論争をきっかけにすぐに辞職した。

1374年、フィレンツェ共和国政府に仕え[4]、翌1375年からフィレンツェ共和国の書記官長を務めた[2]

書記官長として指導権を握ると、最初は共和制的な理想を抱いていたが、晩年になるにつれて君主制の考えを是認する立場を取った[4]

1406年5月4日に亡くなると、フィレンツェ政府はサルターティの葬儀代として250フロリンを支払った[9]

作品[編集]

  • 1381年、『De saeculo et religione
  • 1393年 - 1399年、『De fato, fortuna et casu
  • 1399年、『De nobilitate legum et medicinae
  • 1400年、『専制君主論 (De tyranno)』 - 日本語では『暴君論』とも。
  • 1403年、『Invectiva
  • 絶筆、『ヘラクレスの功績について (De laboribus Herculis)』

脚注[編集]

  1. ^ A cure for the educational crisis: Learn from the extraordinary educational heritage of the West”. RenewAmerica analyst. 2006年6月2日閲覧。
  2. ^ a b c 万有百科大事典 1974, p. 217.
  3. ^ a b グランド現代百科事典 1983, p. 107.
  4. ^ a b c d e 世界大百科事典 1972, p. 361.
  5. ^ a b 大日本百科事典 1967, p. 207.
  6. ^ Tanzini, Lorenzo. "Il cancelliere letterato". Medioevo (De Agostini) (145/146): 100.
  7. ^ a b サルターティとは - コトバンク、2014年3月3日閲覧。
  8. ^ 1309年から1377年にかけてアヴィニョン捕囚教皇のバビロン捕囚)が行われていたため、ローマではなくアヴィニョンに教皇庁が存在していた(アヴィニョン教皇庁)。
  9. ^ Caferro, William. John Hawkwood. Baltimore: Johns Hopkins. 2006. Page 315

参考文献[編集]