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「ウィンストン・チャーチルの死と国葬」の版間の差分

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棺と棺担の前を歩いていたのは、12人の名誉棺担で、[[ルイス・マウントバッテン|初代ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン]]、[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]の[[ロバート・メンジーズ]]、イギリスの首相経験者である[[クレメント・アトリー]]、[[アンソニー・イーデン]]そして[[ハロルド・マクミラン]]が含まれていた<ref name="rose" />。当時82歳だったアトリーは、健康を害していたが、生前のチャーチルから頼まれていた事を理由に、名誉棺担を務める事を譲らなかった<ref>{{Cite web |last=Rawnsley |first=Andrew |date=2019-10-14 |title=Attlee and Churchill review – a deft account of a terrific double act |url=http://www.theguardian.com/books/2019/oct/14/attlee-and-churchill-review |accessdate=2021-05-31 |website=The Guardian |language=en}}</ref>。棺のすぐ前を歩いていた彼が階段でつまずいた事で、棺担がバランスを失って棺を落下させかけたが、棺の後部を受け持つ「押し屋」と呼ばれる2名の兵士により、間一髪の事態を免れた<ref name=":9" /><ref>{{Cite news |last=Wallis |first=Lucy |date=2015-01-28 |title='We nearly dropped Churchill's coffin' |language=en-GB |work=BBC News |publisher= |url=https://www.bbc.com/news/magazine-30981155 |accessdate=2021-05-31}}</ref>。
棺と棺担の前を歩いていたのは、12人の名誉棺担で、[[ルイス・マウントバッテン|初代ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン]]、[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]]の[[ロバート・メンジーズ]]、イギリスの首相経験者である[[クレメント・アトリー]]、[[アンソニー・イーデン]]そして[[ハロルド・マクミラン]]が含まれていた<ref name="rose" />。当時82歳だったアトリーは、健康を害していたが、生前のチャーチルから頼まれていた事を理由に、名誉棺担を務める事を譲らなかった<ref>{{Cite web |last=Rawnsley |first=Andrew |date=2019-10-14 |title=Attlee and Churchill review – a deft account of a terrific double act |url=http://www.theguardian.com/books/2019/oct/14/attlee-and-churchill-review |accessdate=2021-05-31 |website=The Guardian |language=en}}</ref>。棺のすぐ前を歩いていた彼が階段でつまずいた事で、棺担がバランスを失って棺を落下させかけたが、棺の後部を受け持つ「押し屋」と呼ばれる2名の兵士により、間一髪の事態を免れた<ref name=":9" /><ref>{{Cite news |last=Wallis |first=Lucy |date=2015-01-28 |title='We nearly dropped Churchill's coffin' |language=en-GB |work=BBC News |publisher= |url=https://www.bbc.com/news/magazine-30981155 |accessdate=2021-05-31}}</ref>。

=== 追悼礼拝 ===
セント・ポール大聖堂に、棺が安置された後、追悼礼拝が開始された。112ヵ国からの使節を含む参列者は3,500人におよんだ。それは、1980年に{{仮リンク|ヨシップ・ブロズ・チトーの死と国葬|label=ヨシップ・ブロズ・チトーの葬儀|en|Death and state funeral of Josip Broz Tito}}、2005年に{{仮リンク|ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀|label=ヨハネ・パウロ2世の葬儀|en|Funeral of Pope John Paul II}}、そして、2013年に[[ネルソン・マンデラの死|ネルソン・マンデラの葬儀]]が行われるまで、歴史上、最多の[[要人]]が集結する機会となった。参列者には、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]の[[シャルル・ド・ゴール]]、[[カナダ首相]]の[[レスター・B・ピアソン]]、[[ローデシア]]首相の[[イアン・スミス]]、元[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]、その他にも多くの現職・元職の国家や行政のトップ、何か国もの王室の成員が含まれた<ref name="klein" />。当初チャーチルは、戦時中の同盟相手だったド・ゴールを反英主義者と見なしていたため、参列をはっきりと拒んでいたが<ref>{{Citation|last=Reynolds|first=David|title=Churchill and de Gaulle: Makers and Writers of History|date=2006|url=http://link.springer.com/10.1057/9780230207004_7|work=Britain, France and the Entente Cordiale since 1904|pages=105–123|editor-last=Capet|editor-first=Antoine|place=London|publisher=Palgrave Macmillan UK|language=en|doi=10.1057/9780230207004_7|isbn=978-1-349-28447-4|accessdate=2021-08-27}}</ref>、ノーフォーク公が、政治的和解を理由に参列させるよう嘆願したため、結局、当初の計画で予定されていた[[パディントン駅]]ではなく[[ウォータールー駅]]で出迎える事を条件として、参列を認めた<ref>{{cite book|last1=Croft|first1=Rodney J.|url=https://books.google.com/books?id=8hgvDwAAQBAJ&q=churchill+final+farewell+croft|title=Churchill's Final Farewell: The State and Private Funeral of Sir Winston Churchill|date=2014|publisher=Croft Publishing|isbn=978-1-84396-332-5|location=London, UK|pages=32–34|accessdate=2019-01-03|archive-url=https://web.archive.org/web/20190101145430/https://books.google.com/books?id=8hgvDwAAQBAJ&printsec=frontcover&dq=churchill+final+farewell+croft&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjpoPy55MvfAhUI448KHV6NB9EQ6AEIKDAA#v=onepage&q=churchill%20final%20farewell%20croft&f=false|archivedate=2019-01-01|url-status=live}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2022年9月28日 (水) 07:18時点における版

ウィンストン・チャーチルの死と国葬
ロンドンにおける葬列、1965年
日付1965年1月24日
(死亡)
1965年1月30日
(国葬)
場所セント・ポール大聖堂、ロンドン
(公式の葬礼)
原因脳卒中
埋葬セント・マーティン教会、ブラドン英語版

この項目ではウィンストン・チャーチルの死と国葬の経緯について述べる。1965年1月24日イギリスの政治家、軍人、作家で第二次世界大戦中にイギリスの首相を務めたサー・ウィンストン・チャーチルは90歳で没した[1][2][3]。イギリスにおいて、国王以外の人物の国葬英語版が行われたのは、1935年のエドワード・カーソン英語版以来はじめての事であり[4][5]2022年9月19日エリザベス2世の国葬が行われるまでは、イギリスにおける最直近の国葬だった[6][7]。 葬儀の公式日程は、4日間にわたって続いた[8]。「ホープ・ノット作戦英語版」の名で知られる葬儀の計画は、チャーチルが没する12年前から立てられていた。計画のきっかけとなったのは、1953年、戦時下英語版から数えて2度目のイギリス首相在任中だったチャーチルが、脳卒中で倒れた事だった。その後、チャーチルは快復し、存命であり続けたため(ルイス・マウントバッテンは「棺担英語版たちが死に続けている」と評した)、計画は数度にわたって改訂された後、チャーチルが没した2日後である1965年1月26日に発動した[9]

1月26日から3日間、エリザベス2世女王の命により、彼の遺体はウェストミンスター・ホール公開安置英語版された。1月30日、セント・ポール大聖堂で、葬儀が挙行された。葬儀の後、遺体は、軍の敬礼の中、テムズ川を航行してウォータールー駅まで運ばれた。午後、彼は、祖先や弟が眠るブラドンのセント・マーティン教会英語版に葬られた。葬儀には、120か国の政府代表、6,000人の人々、そして異例な事に女王が参列し、1,000人以上の警官や警備員、9つの軍楽隊、軍の18個大隊イギリス空軍の16機のイングリッシュ・エレクトリック ライトニングジェット戦闘機、特殊舟艇「ヘイブンゴア英語版」、SR ライト・パシフィック級蒸気機関車が動員され、321,360人の人々が弔意を示し、3億5,000万の人々によって見守られる、歴史上最大の国葬となった[10][11]。それは、「イギリス人の公衆スペクタクルに対する並外れた才能を示している」と評された[12]

背景と葬儀の計画

2002年、BBCによって行われた世論調査で、最も偉大な英国人に選出されたサー・ウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦中にイギリス首相を務め、連合国の一員として、彼の国を勝利へと導いた事によって記憶されている。彼が2度目の政権英語版にあった1953年6月、ダウニング街で行われた夕食会の席上で、重い脳卒中に倒れ、他の参会者に知られないまま、彼は半身不随となったが、家族はこの事を内密とした[13] 。女王に即位してわずか1年だったエリザベス2世は、この件について知らされた数少ない人物のひとりだった。彼女は、軍務伯として国葬案件を担当していた第16代ノーフォーク公に対し、チャーチルの死の際の催事について「歴史において彼が占める地位にふさわしい規模」とする態勢をとる事を命じた[14]。極秘裏に「ホープ・ノット作戦」という名による入念な計画が立てられた[15]。その後、12年間にわたってチャーチルが存命である間、必要な改訂が繰り返された。チャーチルが没して2日後の、1965年1月26日、『ガーター勲爵士メリット勲爵士コンパニオンズ・オブ・オーナー勲爵士、故サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルの国葬』と題された最終稿が確定した。この文書によって、葬儀のすべての細部にわたる段取りが規定された[16]

死亡

1965年1月24日日曜日の朝、チャーチルは、彼の父親の70度目の命日にロンドンのハイド・パーク・ゲート英語版28番の自宅で没した。チャーチルは1949年以来、8度にわたって脳卒中に見舞われていた。最後に見舞われたのは、1965年1月15日の事で、彼は病気から快復する事はなかった。脳卒中に見舞われた後、彼はほとんど昏睡していた。彼の最期の言葉は、義理の息子であるクリストファー・ソームズ英語版につぶやいた「私はすべての事に退屈している」という物だった[17][18]。彼の担当医のモラン卿英語版が、はじめに訃報を知らせたのは女王とハロルド・ウィルソン首相で、その後、午前8時35分に「1月24日日曜日の8時過ぎ、サー・ウィンストン・チャーチルは、ロンドンの自宅で死去した。[署名]モラン」と記者団に発表した[19][20]

午前9時、BBCは、訃報を報じた[21][22][1]。そして、ベートーヴェンの第5交響曲が続いた。この曲の冒頭の主題は、3つの短音と1つの長音で構成され、それはモールス符号で、Vの文字を意味しており、戦時中のチャーチルの象徴となったVサインをあらわす物だった[2]

首相は次のような声明をだした。

サー・ウィンストンは、世界中の彼から多大な恩恵を受けた人々によって悼まれる事でしょう。彼は、歴史の創造者として、歴史が読み続けられる限り記憶されるであろう人生を終えた今、安息の地にとどまっています[23]

その日、アメリカのリンドン・ジョンソン大統領も次のような公式声明を発した。

世界が暗黒によって覆われ、人々の心から希望が失われた時、偉大なる天命によってウィンストン・チャーチルが私たちのもとに遣わされました。

人々が、その苛酷な危機の時代や勝利を勝ち得た男たちの事を語り継ぐ限り、チャーチルの名は生き続ける事でしょう...

彼は歴史の子であり、彼の言葉や功績は不滅であり続けるでしょう[24]

翌日、庶民院議員たちは、敬意を捧げた[25][26]。審議において、首相は女王からの要望として、公開安置や葬儀の会場に関する動議を提出、次のように決議された。

女王陛下が、ガーター勲爵士サー・ウィンストン・チャーチル閣下の遺体をウェストミンスター・ホールに公開安置し、セント・ポール大聖堂で葬儀を行うよう、ご指示くださった事に謹んで感謝するとともに、この偉人の記憶は、本院並びにすべての女王陛下に忠良な臣民の間で残されており、愛情や賞賛を示すためのこれらの措置に、女王陛下からの心からのご援助と同意をいただけた事に感謝をするとともに、女王陛下にささやかなご挨拶を申し上げます[27]

エンバーミング

1928年以来、イギリス王室御用達葬儀業英語版である、ロンドンパディントンのJ・H・ケニヨン社が、葬儀に向けたチャーチルの遺体の準備作業を行う事になった。同社の主任エンバーマーであるデズモンド・ヘンリー英語版が、ハイド・パーク・ゲートのチャーチルの自宅に向かい、作業工程の監督にあたった[28]。チャーチルの遺体は彼が没した部屋で、エンバーミングを施された。処理が済んだ後、絹のパジャマドレスガウン英語版を着せられた彼の遺体は、ベッドに戻された。チャーチルの遺体は、火曜日の午後9時、ケニヨンの職員が、ウェストミンスター・ホールでの一般公開のために運び出すまで自宅にとどまっていた[29]

葬儀の式次第

公開安置

1965年1月26日の火曜日、葬儀の日程が開始された。午後8時30分、警官・警備員が担当位置に配備され、デイリー・テレグラフ紙は「イングランドにおけるこの種の警備作戦としては最大規模である」と報じた[11]。午後9時15分、チャーチルの遺体は、公開安置英語版のためロンドンの彼の自宅からウェストミンスター・ホールに運ばれた。遺族に付き添って儀式を取り仕切ったのは、宮内長官英語版初代コボルド男爵キャメロン・コボルドだった[26]。棺は、チャーチル夫人軍務伯の前の棺台英語版に置かれた。午後9時、グレナディアガーズコールドストリームガーズがホールの警備を開始した。続く日には、イギリス海軍や5個の近衛歩兵連隊クイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊英語版が交代で警備に当たった[30]

1月27日の水曜日から1月30日の午前6時まで、公開安置は続けられ[31]、その間ウェストミンスター・ホールは毎日23時間にわたって開かれ続けており、残りの1時間は清掃時間として確保されていた。弔問に訪れた人の行列は、長い時で1マイル以上におよび待機時間はおおよそ3時間だった[26]。321,360人の人々が弔意を示すために訪れた[10][32]

葬列

1月30日土曜日午前9時45分、葬儀はビッグ・ベンの鐘が鳴ると同時に始まった。葬儀の模様はBBCによって生中継され、リチャード・ディンブルビー英語版司会を務めた[33]。その後、その日を通して時計は沈黙した。ハイド・パークでは、チャーチルの90年にわたる人生をあらわす、90発の弔砲が発射された[8][34]ユニオン・フラッグで覆われ、その上に黒のクッションが置かれ、さらにその上にガーター勲章の徽章が置かれた棺は、グレナディアガーズ第2大隊所属の8人の衛兵たちに担がれて、ウェストミンスター・ホールから運び出され、砲車に乗せられた。イギリス空軍と歩兵連隊が先導する葬列は、イギリス海軍による太鼓を合図に行進を開始した[26]。98人の水兵が砲車を牽引し、砲車の後ろでは44人の水兵が引き綱を保持していた[34]

砲車の後ろには、息子のランドルフ英語版と孫のウィンストン英語版が並び立ち、チャーチル家の男子とチャーチルの私設秘書アンソニー・モンタギュー・ブラウン英語版が徒歩で付き従った[26]。チャーチル夫人と2人の娘たちは、女王差し回しの馬車で後に続いた。葬列がウェストミンスター宮殿ニュー・パレス・ヤード英語版を出発した時、セント・ジェームズ・パークで1発の銃が発射された[35]。葬列は、ホワイトホールトラファルガー広場ストランドフリート・ストリート、さらにラドゲート・ヒル英語版を通過した。葬列の軍楽隊は、スコッツガーズ第2大隊の、3人の将校と96人の兵士で構成されていた。ザ・セノタフを通過した際、敬意を示すためにデンマークにおける抵抗運動英語版のバナーが、振り下ろされた[36]。2,500人の兵士や文民によって葬列は構成され、半中隊4個が沿道に並んだ。クイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊英語版の4名の少佐が、チャーチルのメダルや勲章の捧持役に選定された[8]。葬列がセント・ポール大聖堂に到着するまで、1分ごとに1発の銃声が鳴り響いていた[35]

セント・ポール大聖堂到着

午前10時45分、棺はセント・ポール大聖堂に到着した[37]棺担英語版たちは、大聖堂の西の隅で砲車から棺を降ろして担ぎながら、入り口に続く24段の階段をのぼった[38][39]。棺担を務めたのは、グレナディアガーズ所属の8名の兵士たちだった[40]

棺と棺担の前を歩いていたのは、12人の名誉棺担で、初代ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテンオーストラリア首相ロバート・メンジーズ、イギリスの首相経験者であるクレメント・アトリーアンソニー・イーデンそしてハロルド・マクミランが含まれていた[36]。当時82歳だったアトリーは、健康を害していたが、生前のチャーチルから頼まれていた事を理由に、名誉棺担を務める事を譲らなかった[41]。棺のすぐ前を歩いていた彼が階段でつまずいた事で、棺担がバランスを失って棺を落下させかけたが、棺の後部を受け持つ「押し屋」と呼ばれる2名の兵士により、間一髪の事態を免れた[39][42]

追悼礼拝

セント・ポール大聖堂に、棺が安置された後、追悼礼拝が開始された。112ヵ国からの使節を含む参列者は3,500人におよんだ。それは、1980年にヨシップ・ブロズ・チトーの葬儀英語版、2005年にヨハネ・パウロ2世の葬儀英語版、そして、2013年にネルソン・マンデラの葬儀が行われるまで、歴史上、最多の要人が集結する機会となった。参列者には、フランス大統領シャルル・ド・ゴールカナダ首相レスター・B・ピアソンローデシア首相のイアン・スミス、元アメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワー、その他にも多くの現職・元職の国家や行政のトップ、何か国もの王室の成員が含まれた[8]。当初チャーチルは、戦時中の同盟相手だったド・ゴールを反英主義者と見なしていたため、参列をはっきりと拒んでいたが[43]、ノーフォーク公が、政治的和解を理由に参列させるよう嘆願したため、結局、当初の計画で予定されていたパディントン駅ではなくウォータールー駅で出迎える事を条件として、参列を認めた[44]

脚注

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