花山院定雅
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時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
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生誕 | 建保6年12月2日(1218年12月21日) |
死没 | 永仁2年2月30日(1294年3月28日) |
改名 | 定雅→隆覚(法号) |
別名 | 粟田口入道右大臣、後花山院入道前右大臣 |
官位 | 正二位、左近衛大将、右大臣 |
主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 | 父:花山院忠経、母:一条保子(一条能保の娘) |
兄弟 |
忠頼、忠輔、定雅、経雅、師継、経子 養兄弟:宣経 |
妻 | 二条定高の娘 |
子 | 通雅、長雅、定教、浄雅、女子 |
花山院 定雅(かさんのいん さだまさ)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。右大臣・花山院忠経の三男。官位は正二位・右大臣、左近衛大将。粟田口入道右大臣、または後花山院入道前右大臣と号する。花山院家6代当主。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』ならびに『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 元仁2年(1225年)1月23日、従五位下に叙される。
- 嘉禄2年(1226年)1月23日、侍従に任ぜられる。同年7月29日、中宮権亮を兼ねる。同年10月19日には禁色を許され、同年12月21日には従五位上に昇叙。
- 安貞元年(1227年)10月4日、正五位下に昇叙。
- 安貞2年(1228年)2月1日、従四位下に昇叙。
- 寛喜元年(1229年)8月25日に父・忠経が薨去したため喪に服す。9月21日に復任した。
- 寛喜3年(1231年)1月29日、阿波介を兼ね、同日に左近衛権中将に任ぜられる。同年10月28日、春宮権亮を兼ねる。
- 寛喜4年(1232年)1月5日、従四位上に昇叙。同年10月4日、蔵人頭となり、同年12月2日には正四位下に昇叙。
- 文暦元年(1234年)12月21日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。
- 文暦2年(1235年)1月23日、讃岐権守を兼ねる。同年8月30日、従三位に叙せられる。同年11月17日には近江権守を兼ねる。
- 嘉禎2年(1236年)6月9日、権中納言に任ぜられる。また、同年中に正三位に昇叙か。
- 嘉禎3年(1237年)12月25日、従二位に昇叙。
- 暦仁2年(1239年)1月27日、正二位に昇叙。同年10月28日、権大納言に任ぜられる。
- 建長2年(1250年)12月15日、大納言に転正し、同月24日には左近衛大将を兼ねる。
- 建長4年(1252年)7月20日、内大臣に任ぜられ左大将は元の如し。また同年11月3日には右大臣に転任。左大将は変わらず兼任。
- 建長5年(1253年)3月24日、左大将を辞した。
- 建長6年(1254年)11月17日、右大臣を辞した。
- 康元元年(1256年)11月27日[1]、出家し法名を隆覚とした。
- 永仁2年(1294年)2月30日、薨去。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『百練抄』では12月27日の出家とする。
参考文献
[編集]- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 文暦元年(1234年)に定雅が参議となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「花山院定雅」および「花山院忠経」の項。
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