竹内良三郎
竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24年)11月24日 - 1984年(昭和59年)11月1日)は、松商学園短期大学第3代学長[1][2]。
法学者、経済学者として長く大学教員の職にあったが、「学究というよりは行政官として活躍」したと評されている[1]。
経歴
[編集]長野県松本市生まれ[1]。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1917年に卒業[1]、宝田石油に入社し、1919年に日本製粉に転職した。
1920年に第五高等学校教授となり、教員として法制・経済を講じるとともに、生徒監兼舎監となった[3]。当時は、校友会誌『龍南』に小説などを寄稿したこともあった[4]。
1927年に東京帝国大学農学部助教授となり、1928年には学生主事、1929年の学生課新設に際して初代の学生課長となって、滝川事件前後の左翼学生の処分などに対処した[3]。1940年9月に大学を病気退職して、大日本航空機技術協会常務理事に転じた[3]。
戦後は、大分経済専門学校(大分大学経済学部の前身)、埼玉師範学校(埼玉大学教育学部の前身のひとつ)の校長を経て[3]、1948年から1949年にかけて第五高等学校第13代校長を務めた後[5]、1949年に松本高等学校 (旧制)の最後となる第9代校長となり[6]、同時に、新設された信州大学の教授、文理学部長となった[1][3]。
1957年に信州大学を定年退官し、松商学園短期大学教授となった[3]。学長だった糸魚川祐三郎が1967年に急逝した後、学長への就任を学内から懇願され、当初は高齢を理由に固辞したものの、同窓会などの強い要請を受けて、1968年4月に第3代学長となり、2年間在任した[1][7]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 松商学園短期大学三十年史編集委員会、1985、p.56.
- ^ “竹内良三郎氏(死去)”. 朝日新聞・朝刊: p. 23. (1984年11月3日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b c d e f 桑尾光太郎「左翼学生の転向と復学 - 東京帝国大学における事例」『東京大学史紀要』第24号、東京大学史史料室、2006年、2-3頁。 NAID 40015233430 PDF
- ^ 『龍南』(『龍南会雑誌』改題)の第177号、第179号に寄稿している。:“龍南会雑誌目録”. 熊本大学附属図書館. 2016年7月29日閲覧。
- ^ “五高沿革 歴代校長”. 熊本大学五高記念館. 2016年7月29日閲覧。
- ^ “信大物理同窓会報0029号(2010年春号)”. 「信州大学物理同窓会」事務局 (2010年3月27日). 2016年7月29日閲覧。
- ^ 松商学園短期大学三十年史編集委員会、1985、pp.485-486.
参考文献
[編集]- 『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年
- 松商学園短期大学三十年史編集委員会『松商学園短期大学三十年史』松商学園短期大学、1985年3月11日、544頁。
公職 | ||
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先代 三浦義雄 校長事務取扱 |
埼玉師範学校長 1947年 - 1948年 |
次代 林伝次 |
先代 森文三郎 |
大分経済専門学校長 1945年 - 1946年 |
次代 梅田政勝 校長事務取扱 |
学職 | ||
先代 糸魚川祐三郎 |
松商学園短期大学長 第3代:1968年4月 - 1970年3月 |
次代 長守善 |
先代 (新設) |
信州大学文理学部長 1949年 - 1952年 |
次代 池田雄一郎 |