針塚長太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
針塚 長太郎
1938年(昭和13年)8月正三位勲一等の正装
人物情報
別名 榛嶺(号)[1]
生誕 明治4年11月30日?(1872年1月)
上野国群馬郡中村
死没 1949年昭和24年)9月21日
群馬県北群馬郡豊秋村中村
心臓麻痺
居住 長野県上田市松尾町
国籍 日本の旗 日本
出身校 帝国大学農科大学農学科
配偶者 針塚ノブ
両親 針塚喜惣治、トク
子供 間庭梅子、中里輝子、都丸ふぢ枝、橋本百合子、針塚正樹、野口美津枝
学問
研究分野 養蚕
研究機関 高等師範学校上田蚕糸専門学校
主な指導学生 林貞三唐木田藤五郎猪坂直一土岡光郎小泉清明小林運美
学位 農学士
称号 正三位勲一等
主な受賞歴 大日本蚕糸会恩賜賞
テンプレートを表示

針塚 長太郎(はりづか ちょうたろう、明治4年11月30日?(1872年1月) - 1949年昭和24年)9月21日)は戦前日本蚕業教育者。群馬県渋川市出身。高等師範学校教授、文部省視学官上田蚕糸専門学校信州大学繊維学部)初代校長・名誉教授。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

明治4年11月30日?(1872年1月)[2]群馬県群馬郡豊秋村中村22番地の篤農家針塚喜惣治の長男として生まれた[3]

1878年(明治11年)4月中村小学校に入学[4]四明尋常高等小学校高等科を経て[3]、1885年(明治18年)3月木檜中学校に進学した[4]

父には農家の跡取りとして厳しく育てられ、母の説得で学校に通うことは許されたものの、家では朝から晩まで農作業に励み、近所では「早やの長さん」として知られた[3]

上京[編集]

自炊堂同人

1888年(明治21年)10月地元の十日夜祭のため砂糖を買いに上京した際啓発を受け、東京進学を決心した[3]。1889年(明治22年)3月中学校を中退し、地元の小学校で代用教員を務めた後、7月東京農林学校予科1年級に入学した[3]

1890年(明治23年)9月帝国大学農科大学予科2年級に編入し、1893年(明治26年)7月農学科に進学した[4]渋谷村金王八幡宮近くの草葺家屋で同級生鈴木梅太郎・菊地亀千代・望月滝三等と自炊生活を行い、自炊堂と号した[3]

官僚時代[編集]

ベルリンにて 右は松浦鎮次郎

1896年(明治29年)7月農学科を卒業し、1897年(明治30年)6月拓殖務省に入省したが、間もなく廃省となり、11月農商務省横浜生糸検査所に勤め、12月西ヶ原蚕業講習所に兼務した[4]

1898年(明治31年)5月文部省実業教育局に入り、11月専門学務局に転じ、1899年(明治32年)6月高等師範学校教授を兼任した[4]。1900年(明治33年)11月図書審議官となり、1902年(明治35年)9月視学官を兼務、教科書編纂や教科細目調査に従事した[4]

1906年(明治39年)2月松浦鎮次郎と文部省留学生に任命され、アメリカ合衆国ドイツで農業教育を学んだ[4]。留学中の1907年(明治40年)3月には盛岡高等農林学校教授の名義を与えられた[4]。1908年(明治41年)5月帰国し、文部省視学官に復職した[4]

上田蚕糸専門学校長[編集]

校長就任当時

長野県に蚕糸専門学校の設置が計画されると、1908年(明治41年)8月創立委員長に任命され、1910年(明治43年)5月米沢高等工業学校長事務取扱として必要な設備等を調査し、8月13日上田蚕糸専門学校長に就任した[5]。専門学校では絹糸紡績科・教婦養成科の新設に関わったほか、柔道・剣道などの武道教育に力を入れた[6]

1918年(大正7年)2月教授勝木喜董の解任に対し、養蚕科1年生岸本元治・山本岩三郎・間宮成吉等が反発し、革命団と称して校長刷新を求めストライキを起こした[7][8]。ストは1週間で終息し、4月勝木喜董は離職した[9]

1924年(大正13年)朝鮮関東州満州の蚕糸業を視察して有望と見込み、卒業生の大陸への就職に力を入れた[10]。1936年(昭和11年)、1940年(昭和15年)にも満州を訪れている[10]

1927年(昭和2年)8月東京朝日新聞により盛岡高等農林学校へ転任内定と誤報され、卒業生により留任運動が行われた[9]

1937年(昭和12年)の勲一等瑞宝章受章を機に、1938年(昭和13年)3月31日校長を辞職し、井上柳梧が後任に就いた[11]

帰郷[編集]

1947年(昭和22年)11月喜寿

1938年(昭和13年)5月上田市成沢伍一郎の辞任に際し、後任の要請を断り[12]、1940年(昭和15年)5月4日帰郷して新築家屋に住み、帯経草堂と号した[13]

太平洋戦争が勃発すると、妻の宝石・功労賞品・乳母車・山林等を進んで供出した[14]。娘婿は次々に出征し、1944年(昭和19年)6月七女貞子、12月五女美津枝、1945年(昭和20年)3月三男正樹が実家に戻り、15人の大家族で畑を耕し、食糧を自給した[14]

1942年(昭和17年)2月25日妻ノブ[13]、1944年(昭和19年)12月七女貞子を喪い[4]、1945年(昭和20年)5月東京大空襲青山の持家2軒を焼失した[14]。戦後は農地改革により田畑を手放し、社会の道義的退廃を嘆きながら日々を過ごした[14]

死去[編集]

絶筆 都丸茂重の弔詞(都丸茂男宛)

1946年(昭和21年)群馬県選挙管理委員長に任命され、老体を押して前橋へ通勤した[14]。1947年(昭和22年)春老人性痒疹に罹り、左耳が聞こえなくなった[14]。11月風邪を拗らせ肺炎となり[15]、1947年(昭和22年)7月選挙管理委員長を辞任した[14]

1949年(昭和24年)夏頃から肋間神経痛を頻発[15]、持病の狭心症も悪化[16]、9月21日昼食中に胸痛を訴え、午後2時半頃心臓麻痺により死亡した[15]

9月25日別所常楽寺から半田孝海が招かれ、葬儀が行われた[15]。戒名は高徳院殿芳誉長安大居士[15]

著書[編集]

趣味・特技[編集]

1947年(昭和22年)11月

農科大学時代、渋谷の自炊堂から徒歩で小石川区講道館に通い、柔道の稽古を受けた[3]。1923年(大正12年)から1940年(昭和15年)9月まで長野県柔道有段者会会長を務めている[17]

上田時代、東福寺村から観世流高橋清輝を学校に招いて謡曲を学んだ[18]。また、教授大滝照太郎には日本刀収集の手ほどきを受け、卒業生の出征に際して日本刀を贈り[18]、嫡男正樹には「刀剣は国宝なり、逸散すべからず。」と遺言した[18]

若くから俳画を嗜み、上田時代、教授和田仙太郎の紹介で正村竹亭南画を学んだ[18]

動物好きで、家では犬・猫を買い、ブチ五郎[16]・ミー[19]などと名付けていた。学校の牧場には2頭の馬を所有し、元気号・努力号と名付けていた[20]

針塚賞[編集]

1938年(昭和13年)退官時の謝恩金の一部を元に設立され、上田蚕糸専門学校で毎年優秀な学生・卒業生に針塚賞が贈られたが、大学改組の際、成績が非公表となったことで廃止された[12]

2004年(平成16年)信州大学繊維学部で卒業生への表彰制度が新設された際、偶然にも同名の針塚賞と名付けられ、毎年優秀な卒業生に授与されている[21]

栄典[編集]

親族[編集]

実家[編集]

1900年(明治33年)4月喜惣治、卯八とともに
  • 祖父:針塚民平 – 生糸商として横浜と上信を行き来した[3]
  • 父:喜惣治 – 1927年(昭和2年)2月没[4]
  • 母:奥泉トク – 渋川町行幸田出身。1914年(大正3年)8月没[4]
    • 妹:儘田フキ[4]
    • 妹:速川トラ[4]
    • 弟:幸平 – 家業を継いだ[4]
    • 弟:卯八[4]

婚家[編集]

1920年(大正9年)晩秋

子女[編集]

1919年(大正8年)
1933年(昭和8年)夏
1947年(昭和22年)11月

脚注[編集]

  1. ^ 鈴木 1962, p. 49.
  2. ^ 明治4年に11月30日は存在しない。11月29日は1月9日、12月1日は1月10日に当たる。
  3. ^ a b c d e f g h i j 鈴木 1962, pp. 3-6.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 鈴木 1962, pp. 72-74.
  5. ^ 鈴木 1962, pp. 8-9.
  6. ^ 鈴木 1962, pp. 12-17.
  7. ^ 土岡 1962, pp. 182-183.
  8. ^ 山本 1962, pp. 184-186.
  9. ^ a b 鈴木 1962, pp. 18-19.
  10. ^ a b 鈴木 1962, pp. 21-24.
  11. ^ a b c d 鈴木 1962, pp. 28-29.
  12. ^ a b c 鈴木 1962, pp. 33-35.
  13. ^ a b c 鈴木 1962, p. 37.
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 都丸 1962, pp. 82-86.
  15. ^ a b c d e 鈴木 1962, pp. 63-65.
  16. ^ a b 針塚 1962, pp. 80-81.
  17. ^ 長野県柔道連盟歴代役員”. 長野県柔道連盟. 2017年3月19日閲覧。
  18. ^ a b c d 鈴木 1962, pp. 42-45.
  19. ^ 都丸 1962, p. 89.
  20. ^ 鶴田 1962, p. 138.
  21. ^ 太田和親「針塚賞と毘沙門堂」、『Library』第52号、信州大学附属図書館繊維学部分館、2005年1月
  22. ^ 広島高等師範学校長文学博士幣原坦外二十一名叙位ノ件
  23. ^ 上田蚕糸専門学校長針塚長太郎叙位ノ件
  24. ^ 上田蚕糸専門学校長針塚長太郎外十一名叙位ノ件
  25. ^ 鈴木 1962, p. 72.
  26. ^ 間庭 1962, p. 91.
  27. ^ 訃報 間庭愛信先生(鹿児島大学名誉教授)」、『南桜風』第12号、鹿児島大学工学部同窓会、2013年3月15日
  28. ^ 南洋庁郵便局通信書記谷信吉外二名任免ノ件○銀行検査官野田卯一任官、判事中里竜任官
  29. ^ 4月24日閣議人事 元判事(前橋家庭裁判所高崎支部)中里龍ほか1名の特旨叙位及び叙勲について
  30. ^ 針塚 1962, p. 77.
  31. ^ 理事長挨拶・プロフィール”. 学校法人芝浦工業大学. 2017年3月19日閲覧。
  32. ^ 針塚 1962, p. 82.
  33. ^ 鈴木 1962, p. 38.

参考文献[編集]

  • 鈴木教吾 「伝記」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月
  • 針塚正樹 「家庭における父」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月
  • 都丸ふぢ枝 「晩年の父 ―戦争たけなわの頃から最期まで―」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月
  • 間庭愛信 「祖父の追想」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月
  • 鶴田定平 「御徳を偲びて」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月
  • 土岡光郎 「怒りをうつさず」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月
  • 山本岩三郎 「悔恨と懺悔の記録」『針塚先生 その伝記と追想記』 針塚先生追憶録刊行会、1962年9月

外部リンク[編集]