「吉武高木遺跡」の版間の差分
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{{注意|この記事は、[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2690 文化庁のサイト]から転載したもので、[[文部科学省]]による[https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/about 政府標準利用規約]に基づいているため、[[著作権]]などの問題は発生しないことになっています。}} |
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{{coord|33|32|16.6|N|130|19|06.8|E|region:JP-40|display=title}}{{Location map|Japan Fukuoka| lat_deg = 33| lat_min = 32| lat_sec = 16.6| lon_deg = 130| lon_min = 19| lon_sec = 06.8| label = 吉武<br>高木遺跡| position = bottom| mark = Red pog.svg| marksize = 10| width = 250| caption={{Center|位置}}}} |
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'''吉武高木遺跡'''(よしたけたかぎいせき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]大字吉武にある[[弥生時代]]の[[遺跡]]。[[1993年]](平成5年)10月4日に国の[[史跡]]に指定され、[[2000年]](平成12年)9月21日に |
'''吉武高木遺跡'''(よしたけたかぎいせき)は、[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]大字吉武にある[[弥生時代]]の[[遺跡]]。[[1993年]](平成5年)10月4日に国の[[史跡]]に指定され、[[2000年]](平成12年)9月6日と同年9月21日に指定区域が追加された。 |
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== 概要 == |
== 位置と概要 == |
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[[福岡平野]]の西端、[[室見川]]流域に扇形に広がる平野を早良(さわら)平野と呼ぶ。ここには、[[旧石器時代]]以降の各時代の遺跡が点在し、本項で取り上げる吉武遺跡群もその一つである。同遺跡群は、早良平野の南西部にある飯盛山の東麓、室見川中流左岸の段丘に位置する。東に室見川、西に日向川(ひなたがわ)が流れ、両川の合流点を北限として、南北1キロ、東西最大700メートル、面積40万平方メートルの範囲にわたり、各時代の遺跡が点在している。吉武遺跡群では1981年から2005年まで19次にわたる発掘調査が実施され、旧石器時代の石器から近世の溝の遺構まで、さまざまな遺物・遺構が確認された{{sfn|常松幹雄|2006|p=13}}{{sfn|福岡市教育委員会|2009|p=1,3,6}}。 |
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福岡市の西部に位置する[[早良平野]]は、南方の[[脊振山地]]とそれから派生した丘陵によって三方を限られ、北の玄界灘に向かって扇形に開く独立した自然空間を形成している。吉武高木遺跡は、早良平野の中央部を貫流する室見川の中流左岸に広がる[[吉武遺跡群]]の一部を構成する弥生時代の墳墓と建物跡からなる遺跡である<ref name=":0">{{Cite web|title=国指定文化財等データベース|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2690|website=kunishitei.bunka.go.jp|accessdate=2020-11-20|publisher=文化庁(一部改変)}}</ref>。 |
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弥生時代には当地に多くの[[甕棺墓]](かめかんぼ、2口の大型土器を組み合わせて棺にしたもの)や木棺墓が営まれた。吉武遺跡群の通称「甕棺ロード」と呼ばれる地区には、丘陵の稜線に沿って、長さ450メートルの範囲に、推定2,000個以上の甕棺が埋納された。これらは弥生前期末から後期にわたって営まれたものだが、中心は弥生中期である{{sfn|福岡市教育委員会|2009|p=7}}。 |
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1980年(昭和55年)、吉武遺跡群が所在する飯盛・吉武地域において、圃場整備事業が計画されたため、1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)にかけて、[[福岡市教育委員会]]が5次にわたる事前調査を実施した。調査の結果、遺跡群が[[縄文時代]]から[[中世]]にかけて遺跡からなる大規模なものであることが判明した。遺跡群の最盛期は弥生時代で、前期末から中期後半にかけて甕棺を主体とした墳墓1200基、丹塗磨研土器を投入した土壙50基、[[竪穴住居]]や[[掘立柱建物]]などが検出されている<ref name=":0" />。 |
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吉武遺跡群のうち、「吉武高木遺跡」の名称で国の[[史跡]]に指定されているのは、遺跡群の南東に位置する吉武高木地区と、その北に位置する吉武大石地区の一部である。1993年10月4日付けで指定され、2000年9月6日付けと同年9月21日付けで指定区域が追加されている。追加指定部分を含む指定面積は42,145.17平方メートルで、遺跡群全体の面積の約10分の1にあたる。高木地区には大型の甕棺墓と木棺墓が集中する特定集団墓がある。弥生前期末から中期初めにかけて営まれた墓群のうち甕棺墓7基と木棺墓4基から、青銅器、装身具などの豊富な副葬品が出土した。北隣の大石地区でも弥生前期末から中期前半の甕棺墓11基と木棺墓4基から副葬品が出土している。これらの副葬品は、1984年度の第6次調査(高木地区)と1985年度の第9次調査(大石地区)で確認されたものである{{sfn|福岡市教育委員会|2009|p=4,7}}。 |
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吉武高木遺跡はこの遺跡群の南端部に位置し、高木・大石の2地区から[[青銅器]]や玉類を副葬するなど、卓越した内容の墳墓群が発見された。特に高木地区の墳墓群は、共同墓地から離れて独立した墓域を形成しており、調査された350平方メートルの範囲に、木棺墓4基、甕棺墓16基、小型甕棺墓18基が密集する。このうち小児用とみられる小型の甕棺は、墓域の東半部に集中し、西半部に成人用とみられる大形の甕棺墓と木棺墓が、墓壙の主軸を北東方向に揃えて、整然と配置されていた。これらの成人墓は、大型の墓壙を有しており、墓壙上に花崗岩や安山岩を配した墓標をもつなど、同時期の他の墳墓とは規模や構造上でも差異が認められる。副葬品はこのうちの木棺墓4基、甕棺墓7基で確認された<ref name=":0" />。 |
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なお、有形文化財としては、高木地区、大石地区、樋渡(ひわたし)地区の出土品645点が1987年6月6日付けで[[重要文化財]]に指定されている{{sfn|福岡市教育委員会|2009|p=8}}。 |
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甕棺墓はいずれも弥生時代前期末から中期初頭に位置付けられる金海式甕棺で、成人棺は特別に大型に作られ、蕨手状の刻目突帯文を施したものや、疾駆する2頭の鹿を描いたものがある。副葬品をもつ甕棺墓の構成は銅剣1口を基本に玉類が加わるもの4基、銅釧2点と玉類からなるもの1基、玉類のみのもの2基となっている<ref name=":0" />。 |
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== 特定集団墓と出土品 == |
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4基の木棺墓も甕棺墓と同時期の所産で、大型の墓壙をもち、内部に組合式木棺や割竹形木棺を納めた痕跡が残る。特に墓域の中心近くに位置する2号木棺墓は、長さ4.8メートル、幅3.5メートルの長大な墓壙をもち、中に納めた割竹形木棺も長さ2.5メートル、幅1メートルの規模をもつ。これには、銅剣1口、硬玉製勾玉1点と碧玉製管玉95点からなる頸飾り、碧玉製管玉40点からなる腕飾り、小壺などが副葬されていた<ref name=":0" />。また墓域南端部にある3号木棺墓は、2号木棺墓に比較すると墓壙はやや小規模であるが、硬玉製勾玉1点と碧玉製管玉95点からなる頸飾りとともに、多鈕細文鏡1面、銅剣2口、銅戈・銅矛各1口が副葬され、他を圧倒する内容を有していた。高木地区の木棺墓は、他の2基の木棺墓にも銅剣が副葬されるなど、すべてに副葬品がみられ、甕棺墓に対する優位性が認められる<ref name=":0" />。 |
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吉武高木遺跡の特定集団墓は、弥生時代中期前半の[[青銅器]]や装身具が出土し、[[奴国]]首長墓とされる[[須玖岡本遺跡]]D地点や[[伊都国]]首長墓とされる[[三雲南小路遺跡]](ともに弥生中期後半)に先立つ「最古の王墓」と呼ばれる。東西50メートル、南北30メートルほどの区域に甕棺墓と木棺墓が集中している。いずれの墓も墓壙は長方形で、中軸線は北東に振れており、被葬者の頭部も北東向きである。甕棺墓7基と木棺墓4基から以下の副葬品が出土した(他に副葬品のない甕棺墓もある){{sfn|常松幹雄|2006|p=9,15}}。 |
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'''吉武高木遺跡特定集団墓出土品一覧'''{{sfn|常松幹雄|2006|p=18}} |
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高木地区の木棺墓と甕棺墓から出土した副葬品は、細形銅剣9口、細形銅戈1口、細形銅矛1口、多鈕細文鏡1面、銅釧2点、碧玉製管玉468点、硬玉製勾玉4点、ガラス製小玉1点、有茎式磨製石鏃1点、小壺などである。多鈕細文鏡と実用的な細形の青銅製武器は、朝鮮半島からの船載品と考えられるものである。これらの豊富な副葬品をもつ墓は、大型の石を地上標識とする点や、共同墓地から離れて独立した墓域をもつ点で、[[奴国]]王墓と推定される福岡県[[春日市]][[須玖岡本遺跡]]や、[[伊都国]]王墓と推定される[[糸島市]][[三雲南小路遺跡]]の墳墓へと発展する要素が認められ、この墳墓の被葬者達が早良平野に出現した有力首長層であったことを推測させる<ref name=":0" />。 |
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{| class="wikitable" style="background:#ffffff;white-space:nowrap;font-size:95%" |
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! 遺構名 !! 青銅器 !! 装身具 !! 副葬小壺 !! 備考 |
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| 甕棺墓100号 || 細形銅剣1 || なし ||なし || |
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| 甕棺墓109号 || なし || 管玉10 || なし || |
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| 甕棺墓110 号 || なし || 銅製腕輪2、勾玉1、管玉74 || なし ||墓壙は二段掘り |
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| 甕棺墓111号 || なし || 管玉92 || なし || |
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| 甕棺墓115号 || 細形銅剣1 || なし || なし || |
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| 甕棺墓116号 || 細形銅剣1 || なし || あり || |
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| 甕棺墓117号 || 細形銅剣1 || 勾玉1、管玉42、ガラス小玉1 || あり ||墓壙は二段掘り |
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| 木棺墓1号 ||細形銅剣1 || 管玉20 || あり || |
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| 木棺墓2号 ||細形銅剣1 || 勾玉1、管玉135 || あり || |
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| 木棺墓3号 ||細形銅剣2、細形銅矛1、細形銅戈1、多鈕細文鏡1 || 勾玉1、管玉95 || あり ||「三種の神器」を連想させる剣、鏡、勾玉が出土 |
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| 木棺墓4号 ||細形銅剣1 || なし || あり|| |
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| 計 ||細形銅剣9、細形銅矛1、細形銅戈1、多鈕細文鏡1|| 銅製腕輪2<br />勾玉4、管玉468、ガラス小玉1 || || |
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|} |
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副葬品のある甕棺墓7基のうち、銅剣のみを副葬するものが3基、装身具の管玉のみを副葬するものが2基ある。残り2基のうち110号甕棺墓は銅製腕輪と装身具、117号甕棺は銅剣と装身具をそれぞれ副葬する{{sfn|常松幹雄|2006|p=18}}。 |
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[[青銅器]]を多量に副葬した墓群の東方40メートルの地点からは、大型の掘立柱建物と高床倉庫が発見されている。大型建物は、桁行5間(総長12.5メートル)、梁行4間(総長9.5メートル)の身舎に西廂が付く南北棟建物で、北・東の2面には軒支柱が巡り、既発見の同時期の建物としては最大の規模を誇る。この大型建物は先の墓群の被葬者の居館の一部を構成する建物と考えられる。高床倉庫は大型建物の南方50メートルに7棟を確認している。桁行2間、梁行1間のもの5棟、桁行・梁行ともに一間のもの2棟からなる。なお一般集落を構成する竪穴住居はこの地区に存在せず、墓域同様、首長層の居住域が一般集落構成員の居住域から独立した可能性が高い<ref name=":0" />。 |
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甕棺墓7、木棺墓4のうち、墓壙の規模・形態、副葬品の質・量からみて、「厚葬」とみられるのは、110号甕棺墓、117号甕棺墓、2号木棺墓、3号木棺墓の4基である。甕棺墓のうち墓壙が二段掘りになっているのは110号と117号のみである。117号は甕棺墓のなかでもっとも規模が大きく、墓壙は長辺4.3メートル、短辺2.5メートルである。この墓は地表部に[[花崗岩]]製の標石(径1×0.7メートル、厚さ30センチ)があった。木棺墓では2号が最大で、墓壙の長辺が4.6メートル、短辺が3.65から2.6メートルである。3号木棺墓は、規模は2号より小さいが、副葬品に銅鏡、銅製武器、ヒスイ製[[勾玉]]を含み。いわゆる「[[三種の神器]]」との関連で注目される{{sfn|常松幹雄|2006|p=38,42,46,47}}。 |
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以上のように吉武高木遺跡は、北部九州における弥生時代の階層分化の過程と王権の生長過程を解明する上で、また『[[漢書]]』「[[地理志]]」が伝える百余国に分かれた倭人社会の実態を追求する上で、極めて高い学術的価値を有しているため、国の史跡に指定されている<ref name=":0" />。 |
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上記の中核的な墓4基にはいずれも[[勾玉]]が副葬され、逆に、他の墓には勾玉が副葬されていない点も注目される。このことから、この墓群においては銅剣などよりも勾玉が階層性を表していることがうかがえる。また、これら4基の墓から出土した計4箇の勾玉は、いずれも異なったタイプに属している。2号木棺墓に副葬されていたのは「緒締形勾玉」で、縦横に孔が貫通するとともに、紐掛けのための溝を彫っている。110号甕棺墓の副葬品は「縄文的穿孔勾玉」で、縦横に孔が貫通するが、溝は彫っていない。3号木棺墓の副葬品は「獣形勾玉」で、四足獣か胎児のような形を呈する。117号甕棺墓の副葬品は「弥生定型勾玉」で、もっとも一般的な勾玉である{{sfn|常松幹雄|2006|p=53,63}}。 |
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== その他の主要な遺構・遺物 == |
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112号甕棺墓は副葬品のない墓であるが、この墓の甕棺には鹿の略画が線刻されていた。角のあるものとないものの2頭の鹿が描かれている。鹿は弥生時代の絵画資料にしばしば登場するもので、土器、[[銅鐸]]、木製品などに描かれている。抜けては生えかわる鹿の角は稲の稔りと刈り入れを連想させ、鹿の絵には再生が寓意されていたとみられる{{sfn|常松幹雄|2006|p=64,65,66}}。 |
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吉武高木遺跡の南東200メートルに位置する吉武H区と呼ばれる墓群から出土した甕棺の一つには、釣針形ないし蕨手文と称すべき文様が浮彫で表されている。甕棺に同様の文様を表したものは吉武H区以外に福岡、佐賀、熊本北部で確認されていることから、何らかの意味をもった文様であることがわかる。悪霊を寄せ付けないための辟邪(へきじゃ)の意味があるとの説もある{{sfn|常松幹雄|2006|p=66 - 69}}。 |
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吉武高木遺跡の東方50メートルには大型掘立柱建物の跡がある。柱穴の列は内外二重になっており、外側の柱列は6×5間、内側の柱列は5間×4間となる。ここに建っていた建物については、四周に縁をめぐらせた5×4間の高床式建物とする復元案もあったが、6間×5間の平地式建物とする説もある。6間×5間とした場合の床面積は214.5平方メートルとなり、畳130枚が敷ける広さである。この建物の年代は、出土土器から吉武高木の特定集団墓より新しい弥生中期後半とされているが、腐朽した柱の取り換え時に土器が混入した可能性もあり、特定集団墓の営造と同じ弥生中期前半から建物が存在した可能性もある{{sfn|常松幹雄|2006|p=28,29}}。 |
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上記大型建物の北200メートルの吉武樋渡(ひわたし)地区には[[前方後円墳]](帆立貝形墳)があった。後円部の径33メートル、前方部長さ7メートルの5世紀代の古墳であったが、近世の墓地建設と近代の土取りで埋葬施設は跡をとどめておらず、当古墳については記録保存にとどめられた。なお、この古墳の下層にも盛土があり、調査の結果、弥生時代中期の墳丘を利用して前方後円墳が築かれていたことがわかった。この弥生墳丘からは甕棺墓30基、木棺墓1基、石棺墓1基が検出され、銅剣や前漢の銅鏡などが出土した{{sfn|常松幹雄|2006|p=24 - 27}}。 |
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== 吉武高木遺跡の意義 == |
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吉武高木遺跡の特定集団墓から出土した[[青銅器]]はいずれも大陸系の遺物であるが、大陸から渡来した青銅器はやがて北部九州でも作られるようになる。これは青銅器の製作技術をもつ人々が朝鮮半島から渡来したためと考えられ、初期青銅器には大陸製か日本製か判断のむずかしいものがある。3号木棺墓から出土した銅鏡は、鏡背に細線で細かな文様を表し、中心からずれた位置に2つの鈕(ちゅう)を設け、外縁は蒲鉾形断面とし、鏡面はわずかに凹面になるなど、著しい特色をもつ。この種の鏡を[[多鈕細文鏡]](たちゅうさいもんきょう)と称する。多鈕細文鏡は朝鮮半島と日本に分布するが、その起源は中国東北部の青銅器文化に属する多鈕粗文鏡であるとされる。この種の鏡の日本での出土は十数例しかない{{sfn|常松幹雄|2006|p=50,57}}。 |
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3号木棺墓からは、皇位継承にかかわる「[[三種の神器]]」をイメージさせる[[銅鏡]]、[[銅剣]]、[[勾玉]]が出土している。銅鏡、銅剣、勾玉の組み合わせは弥生時代の北部九州に由来し、なかでも本遺跡3号木棺墓の副葬品はその最古の実例と考えられる{{sfn|常松幹雄|2006|p=49}}。 |
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吉武高木遺跡については、[[奴国]]首長墓とされる[[須玖岡本遺跡]]D地点や[[伊都国]]首長墓とされる[[三雲南小路遺跡]]に先立つ、「最古の王墓」との見方もある。ただし、弥生中期前半に属する吉武高木遺跡を、中期後半の須玖岡本および三雲と同様の「王墓」とみなしてよいかについては、なお慎重な見方もある{{sfn|常松幹雄|2006|p=9,80,82}}。 |
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== 参考文献 == |
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*{{Citation|和書|author=常松幹雄|title=最古の王墓 吉武高木遺跡(シリーズ「遺跡を学ぶ」24)|year=2006|publisher=新泉社|ref=harv}} |
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*{{Citation|和書|author=福岡市教育委員会|title=福岡市埋蔵文化財調査報告書1061:吉武遺跡群22 |year=2009|publisher=福岡市教育委員会|ref=harv}} |
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: [https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/20576 全国遺跡報告総覧](奈良文化財研究所サイト)からダウンロード可 |
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== 所在地 == |
== 所在地 == |
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* 〒832-0033 [[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]吉武194 |
* 〒832-0033 [[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]吉武194 |
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{{考古学}} |
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2021年3月7日 (日) 11:44時点における版
座標: 北緯33度32分16.6秒 東経130度19分06.8秒 / 北緯33.537944度 東経130.318556度
吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)は、福岡県福岡市西区大字吉武にある弥生時代の遺跡。1993年(平成5年)10月4日に国の史跡に指定され、2000年(平成12年)9月6日と同年9月21日に指定区域が追加された。
位置と概要
福岡平野の西端、室見川流域に扇形に広がる平野を早良(さわら)平野と呼ぶ。ここには、旧石器時代以降の各時代の遺跡が点在し、本項で取り上げる吉武遺跡群もその一つである。同遺跡群は、早良平野の南西部にある飯盛山の東麓、室見川中流左岸の段丘に位置する。東に室見川、西に日向川(ひなたがわ)が流れ、両川の合流点を北限として、南北1キロ、東西最大700メートル、面積40万平方メートルの範囲にわたり、各時代の遺跡が点在している。吉武遺跡群では1981年から2005年まで19次にわたる発掘調査が実施され、旧石器時代の石器から近世の溝の遺構まで、さまざまな遺物・遺構が確認された[1][2]。
弥生時代には当地に多くの甕棺墓(かめかんぼ、2口の大型土器を組み合わせて棺にしたもの)や木棺墓が営まれた。吉武遺跡群の通称「甕棺ロード」と呼ばれる地区には、丘陵の稜線に沿って、長さ450メートルの範囲に、推定2,000個以上の甕棺が埋納された。これらは弥生前期末から後期にわたって営まれたものだが、中心は弥生中期である[3]。
吉武遺跡群のうち、「吉武高木遺跡」の名称で国の史跡に指定されているのは、遺跡群の南東に位置する吉武高木地区と、その北に位置する吉武大石地区の一部である。1993年10月4日付けで指定され、2000年9月6日付けと同年9月21日付けで指定区域が追加されている。追加指定部分を含む指定面積は42,145.17平方メートルで、遺跡群全体の面積の約10分の1にあたる。高木地区には大型の甕棺墓と木棺墓が集中する特定集団墓がある。弥生前期末から中期初めにかけて営まれた墓群のうち甕棺墓7基と木棺墓4基から、青銅器、装身具などの豊富な副葬品が出土した。北隣の大石地区でも弥生前期末から中期前半の甕棺墓11基と木棺墓4基から副葬品が出土している。これらの副葬品は、1984年度の第6次調査(高木地区)と1985年度の第9次調査(大石地区)で確認されたものである[4]。
なお、有形文化財としては、高木地区、大石地区、樋渡(ひわたし)地区の出土品645点が1987年6月6日付けで重要文化財に指定されている[5]。
特定集団墓と出土品
吉武高木遺跡の特定集団墓は、弥生時代中期前半の青銅器や装身具が出土し、奴国首長墓とされる須玖岡本遺跡D地点や伊都国首長墓とされる三雲南小路遺跡(ともに弥生中期後半)に先立つ「最古の王墓」と呼ばれる。東西50メートル、南北30メートルほどの区域に甕棺墓と木棺墓が集中している。いずれの墓も墓壙は長方形で、中軸線は北東に振れており、被葬者の頭部も北東向きである。甕棺墓7基と木棺墓4基から以下の副葬品が出土した(他に副葬品のない甕棺墓もある)[6]。
吉武高木遺跡特定集団墓出土品一覧[7]
遺構名 | 青銅器 | 装身具 | 副葬小壺 | 備考 |
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甕棺墓100号 | 細形銅剣1 | なし | なし | |
甕棺墓109号 | なし | 管玉10 | なし | |
甕棺墓110 号 | なし | 銅製腕輪2、勾玉1、管玉74 | なし | 墓壙は二段掘り |
甕棺墓111号 | なし | 管玉92 | なし | |
甕棺墓115号 | 細形銅剣1 | なし | なし | |
甕棺墓116号 | 細形銅剣1 | なし | あり | |
甕棺墓117号 | 細形銅剣1 | 勾玉1、管玉42、ガラス小玉1 | あり | 墓壙は二段掘り |
木棺墓1号 | 細形銅剣1 | 管玉20 | あり | |
木棺墓2号 | 細形銅剣1 | 勾玉1、管玉135 | あり | |
木棺墓3号 | 細形銅剣2、細形銅矛1、細形銅戈1、多鈕細文鏡1 | 勾玉1、管玉95 | あり | 「三種の神器」を連想させる剣、鏡、勾玉が出土 |
木棺墓4号 | 細形銅剣1 | なし | あり | |
計 | 細形銅剣9、細形銅矛1、細形銅戈1、多鈕細文鏡1 | 銅製腕輪2 勾玉4、管玉468、ガラス小玉1 |
副葬品のある甕棺墓7基のうち、銅剣のみを副葬するものが3基、装身具の管玉のみを副葬するものが2基ある。残り2基のうち110号甕棺墓は銅製腕輪と装身具、117号甕棺は銅剣と装身具をそれぞれ副葬する[7]。
甕棺墓7、木棺墓4のうち、墓壙の規模・形態、副葬品の質・量からみて、「厚葬」とみられるのは、110号甕棺墓、117号甕棺墓、2号木棺墓、3号木棺墓の4基である。甕棺墓のうち墓壙が二段掘りになっているのは110号と117号のみである。117号は甕棺墓のなかでもっとも規模が大きく、墓壙は長辺4.3メートル、短辺2.5メートルである。この墓は地表部に花崗岩製の標石(径1×0.7メートル、厚さ30センチ)があった。木棺墓では2号が最大で、墓壙の長辺が4.6メートル、短辺が3.65から2.6メートルである。3号木棺墓は、規模は2号より小さいが、副葬品に銅鏡、銅製武器、ヒスイ製勾玉を含み。いわゆる「三種の神器」との関連で注目される[8]。
上記の中核的な墓4基にはいずれも勾玉が副葬され、逆に、他の墓には勾玉が副葬されていない点も注目される。このことから、この墓群においては銅剣などよりも勾玉が階層性を表していることがうかがえる。また、これら4基の墓から出土した計4箇の勾玉は、いずれも異なったタイプに属している。2号木棺墓に副葬されていたのは「緒締形勾玉」で、縦横に孔が貫通するとともに、紐掛けのための溝を彫っている。110号甕棺墓の副葬品は「縄文的穿孔勾玉」で、縦横に孔が貫通するが、溝は彫っていない。3号木棺墓の副葬品は「獣形勾玉」で、四足獣か胎児のような形を呈する。117号甕棺墓の副葬品は「弥生定型勾玉」で、もっとも一般的な勾玉である[9]。
その他の主要な遺構・遺物
112号甕棺墓は副葬品のない墓であるが、この墓の甕棺には鹿の略画が線刻されていた。角のあるものとないものの2頭の鹿が描かれている。鹿は弥生時代の絵画資料にしばしば登場するもので、土器、銅鐸、木製品などに描かれている。抜けては生えかわる鹿の角は稲の稔りと刈り入れを連想させ、鹿の絵には再生が寓意されていたとみられる[10]。
吉武高木遺跡の南東200メートルに位置する吉武H区と呼ばれる墓群から出土した甕棺の一つには、釣針形ないし蕨手文と称すべき文様が浮彫で表されている。甕棺に同様の文様を表したものは吉武H区以外に福岡、佐賀、熊本北部で確認されていることから、何らかの意味をもった文様であることがわかる。悪霊を寄せ付けないための辟邪(へきじゃ)の意味があるとの説もある[11]。
吉武高木遺跡の東方50メートルには大型掘立柱建物の跡がある。柱穴の列は内外二重になっており、外側の柱列は6×5間、内側の柱列は5間×4間となる。ここに建っていた建物については、四周に縁をめぐらせた5×4間の高床式建物とする復元案もあったが、6間×5間の平地式建物とする説もある。6間×5間とした場合の床面積は214.5平方メートルとなり、畳130枚が敷ける広さである。この建物の年代は、出土土器から吉武高木の特定集団墓より新しい弥生中期後半とされているが、腐朽した柱の取り換え時に土器が混入した可能性もあり、特定集団墓の営造と同じ弥生中期前半から建物が存在した可能性もある[12]。
上記大型建物の北200メートルの吉武樋渡(ひわたし)地区には前方後円墳(帆立貝形墳)があった。後円部の径33メートル、前方部長さ7メートルの5世紀代の古墳であったが、近世の墓地建設と近代の土取りで埋葬施設は跡をとどめておらず、当古墳については記録保存にとどめられた。なお、この古墳の下層にも盛土があり、調査の結果、弥生時代中期の墳丘を利用して前方後円墳が築かれていたことがわかった。この弥生墳丘からは甕棺墓30基、木棺墓1基、石棺墓1基が検出され、銅剣や前漢の銅鏡などが出土した[13]。
吉武高木遺跡の意義
吉武高木遺跡の特定集団墓から出土した青銅器はいずれも大陸系の遺物であるが、大陸から渡来した青銅器はやがて北部九州でも作られるようになる。これは青銅器の製作技術をもつ人々が朝鮮半島から渡来したためと考えられ、初期青銅器には大陸製か日本製か判断のむずかしいものがある。3号木棺墓から出土した銅鏡は、鏡背に細線で細かな文様を表し、中心からずれた位置に2つの鈕(ちゅう)を設け、外縁は蒲鉾形断面とし、鏡面はわずかに凹面になるなど、著しい特色をもつ。この種の鏡を多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と称する。多鈕細文鏡は朝鮮半島と日本に分布するが、その起源は中国東北部の青銅器文化に属する多鈕粗文鏡であるとされる。この種の鏡の日本での出土は十数例しかない[14]。
3号木棺墓からは、皇位継承にかかわる「三種の神器」をイメージさせる銅鏡、銅剣、勾玉が出土している。銅鏡、銅剣、勾玉の組み合わせは弥生時代の北部九州に由来し、なかでも本遺跡3号木棺墓の副葬品はその最古の実例と考えられる[15]。
吉武高木遺跡については、奴国首長墓とされる須玖岡本遺跡D地点や伊都国首長墓とされる三雲南小路遺跡に先立つ、「最古の王墓」との見方もある。ただし、弥生中期前半に属する吉武高木遺跡を、中期後半の須玖岡本および三雲と同様の「王墓」とみなしてよいかについては、なお慎重な見方もある[16]。
脚注
- ^ 常松幹雄 2006, p. 13.
- ^ 福岡市教育委員会 2009, p. 1,3,6.
- ^ 福岡市教育委員会 2009, p. 7.
- ^ 福岡市教育委員会 2009, p. 4,7.
- ^ 福岡市教育委員会 2009, p. 8.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 9,15.
- ^ a b 常松幹雄 2006, p. 18.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 38,42,46,47.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 53,63.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 64,65,66.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 66 - 69.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 28,29.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 24 - 27.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 50,57.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 49.
- ^ 常松幹雄 2006, p. 9,80,82.
参考文献
- 常松幹雄『最古の王墓 吉武高木遺跡(シリーズ「遺跡を学ぶ」24)』新泉社、2006年。
- 福岡市教育委員会『福岡市埋蔵文化財調査報告書1061:吉武遺跡群22』福岡市教育委員会、2009年。
- 全国遺跡報告総覧(奈良文化財研究所サイト)からダウンロード可